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明治の宗教政策――安丸良夫「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈」

安丸良夫「神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈岩波新書

神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103)

義江彰夫神仏習合」では、律令国家から中世までの神仏習合の歴史を語っていたけれど、この本では明治の神仏分離の政策の展開を追って、神と仏とが国家または神道派の人々によって切断されていく歴史を語る。

神仏分離廃仏毀釈といわれても、ほとんど知識もなかったけれど、これを読むと、当時行われた神仏分離政策が、それまでの宗教生活に対してどれほど大きな影響を与えたのかがわかる。

下手な要約をするより、安丸氏が「はじめに」で書いているのを見た方がはやい。

あらたに樹立されていった神々の体系は、水戸学や後期国学に由来する国体神学がつくりだしたもので、明治以前の大部分の日本人にとっては、思いもかけないような性格のものだった。伊勢信仰でさえ、江戸時代のそれは農業神としての外宮に重点があり、天照大神信仰も、民衆信仰の次元では、皇祖神崇拝としてのそれではなかった。
 だが、天皇の神権的絶対性を押しだすことで、近代民族国家形成の課題をになおうとする明治維新という社会変革のなかで、皇統と国家の功臣こそが神だと指定されたとき、誰も公然とはそれに反対することができなかった。中略 それは、近代日本の天皇制国家のための良民鍛冶の役割を各宗教がにない、その点での存在価値を国家意志の面前に競いあうことであった。
 この良民鍛冶の役割からすれば、仏教の反世俗性や来世主義、また信仰生活の遊楽化などは、克服されねばならなかった。しかし、仏教よりもさらにきびしく抑圧されたり否定されたりされなければならないのは、民俗信仰であった。中略
 よりひろい視野からすれば、民俗信仰の抑圧は、明治維新をはさむ日本社会の体制的な転換にさいして、百姓一揆、若者組、ヨバイ、さまざまの民俗行事、乞食などが禁圧され、人々の生活態度や地域の生活秩序が再編成され、再掌握されてゆく過程の一環、そのもっとも重要な部分の一つであった。この過程を全体としてみれば、民衆の生活と意識の内部に国家がふかくたちいって、近代日本の国家的課題にあわせて、有用で価値的なものと無用・有害で無価値なものとのあいだに、ふかい分割線をひくことであった、といえよう。
P79
近代国家形成の過程で、神道国教化政策が採られ、民俗信仰が抑圧されていく。神仏分離とは、それまでの混沌とした民衆的信仰形態を、神道の元に一元化していこうという動きであり、そこでは民衆の日常的生活にも多大なる影響を与えたという。

本書では維新以前の江戸期の排仏論、キリシタン禁制などを参照しつつ、宗教という国家にとっての厄介な代物についての分析から始めている。本書はその意味で宗教と政治の微妙な関係の歴史でもある。

著者は、明治政府が王政復古を打ち出した理由として、クーデター政権であった維新政府が自身の権威を正当化するために、幼い明治天皇を擁立し神権的天皇制のイデオロギーを利用した、という。ここで、あくまで神道を政治利用の手段とした政府の中心人物たちと、復古の幻想を抱く国学者神道家たちとのあいだには、温度差があった。この差は、じっさいに神仏分離令の運用の場で、政府と神道家たちとのあいだの対立を招いている。

慶応四年の神仏分離の諸布告で、神道家の急進派の集団が日吉山王社に押し入り、力づくで廃仏毀釈を実行するという事件が起きている。この事件は、政府にとっても尚早であり、また民衆にとっても恐怖と不安を植え付ける結果となった。神仏分離政策においては、国学などの隆盛もあって、それまでの仏教上位の環境に対する強い不満を抱く神道家と、過激な展開を望んでいるわけではない政府と、宗教生活の転換に直面する民衆という三者が存在している。農民たちは神仏分離のなかで自らの生活の土台の変化におびえ、山門擁護のために蜂起するなどの事件まで起こしている。

初期の時点では神仏分離を速やかに推進することができたのは、一部の神道系の勢力が強いところに限られていた。

また、仏教側では、政府の一連の政策に危機感を抱いていたが、そのとき政府に対して、仏教はこれまで民衆教化の実績があるから、神道を基本とする教諭を行うこと、キリスト教から民衆を守ることなどの役目を国家から承認されることを求めている。

その後、神仏分離廃仏毀釈政策が進展していくなかで、民衆生活において起こったことを、著者はこうまとめている。

廃仏毀釈は、その内容からいえば、民衆の宗教生活を葬儀と祖霊祭祀にほぼ一元化し、それを総括するものとしての産土社と国家的諸大社の信仰をその上におき、それ以外の宗教的諸次元を乱暴に圧殺しようとするものだった。ところが、葬儀と祖霊祭祀は、いかに重要とはいえ、民衆の宗教生活の一側面にすぎないのだから、廃仏毀釈にこめられていたこうした独断は、さまざまの矛盾や混乱を生むもとになった。そして、こうした単純化が強行されれば、人々の信仰心そのものの衰滅や道義心の衰退をひきおこす結果になりやすかった。
P118

廃藩置県によって集権国家樹立の基礎を固めた明治政府は、四年以降、近代的国家体制樹立のためのさまざまの政策を推進した。伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そのじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして、それは、復古の幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。
P142143
著者の民衆と権力という対立の図式が顕著で問題なしとは思えないけれども、大筋としてはそうなのだろう。各町村で行われた神社改めや、修験の中心地出羽三山神道化など、多くの信仰が大々的な改変を被り、各地の神社などでも習合的な性格の神格を無理に神道側に組み込んだり、それまでまったく祀られていなかった神格に変更したりするなどの政策が採られた。

詳細な事例は本を当たってほしいが、このような宗教体系の大きな改変が民衆の日常的な生活風景に影響を与えないわけがないだろう。神社数の大幅な減少はそのまま町村の風景を変えただろう。そして、広く行われた祭神の変更は、一種の歴史の忘却をもたらしたのではないだろうか。おそらく、近代から現代にいたる日本の宗教的なものに対する考えは、この時期の神道国教化政策と神仏分離廃仏毀釈の影響を強く受けているのではないかと思う。日本の伝統、と思われているもののうちのいくつかは、この時期に改変を被ったきわめて近代的なものなのではないか。

神道が宗教ではなく、儀礼、習俗とされたのも、外部からの圧力(キリシタン禁制はキリスト教圏の国から非難された)で「信教の自由」を認めざるを得なくなったときに、教派神道が分離するという流れでのなかでのことだった。国家神道神道非宗教説に立つが、「実際には宗教として機能しながら、近代国家の制度上のタテマエとしては、儀礼や習俗だと強弁されることになった。そして、この祭儀へと後退した神道を、イデオロギー的な内実から補ったのが教育勅語である」という風に、教化を伴うものであった。当時の政府が認めた「信教の自由」にしたところで、国家の秩序を脅かさない限りでという限定付きのものであり、神社崇拝という国教に背かない限りでのものだった。宗教が国家的に再編成された、ということだろう。

しかし、神道国教化政策、とはいっても、依然仏教の影響力、信者数、僧侶の数などなどにおいて、神道勢力は明らかに劣位にあり、神道の説教などもかなりの部分を僧侶がやっていたりするなど、名目的な位置と、じっさいの力関係はかなり食い違っていたようでもある。ここら辺が、一部の人間による廃仏毀釈の強行をもたらした不満、不安の源でもあっただろうと思われる。


ちなみに、安丸氏は「一揆・監獄・コスモロジー」のなかで、「国家神道」という言葉は、敗戦後アメリカが出した「神道指令」のなかの「State Shinto」の訳語である、ということに注意を促している。

なお、明治に復活した神祇官、神祇省などの省庁でも、国学者同士での勢力争いが存在していて、伊勢・天照大神派と、平田篤胤が提示した、大国主を冥界の神とする出雲系とが対立していた。この本でも出雲の国造、千家尊福が巡幸したとき、明治天皇のときのそれに匹敵する反応を引き起こしたことが書かれているけれど、そこら辺の詳しい事情は原武史の「<出雲>という思想」(講談社学術文庫)に書かれているので、興味のある方は是非参照を。面白い本です。