「壁の中」から

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笙野頼子の絶対的自己肯定

金毘羅

金毘羅

「水晶内制度」が出たと思ったら、ほぼ一年後に出たいまのところの最新長篇。長篇をこの短いスパンで出すというのはこれまではなかったんじゃないか。本人は千葉に引っ越したおかげだと言っているが。

「水晶内制度」が国家や制度、女性男性といった“私”とその外部(もちろんそんな二元論では書かれていないがとりあえず)という構図で書かれたSF的な作品であるとすれば、「金毘羅」は私にとっての私というような構図を持っていると言える。両者はともに「読み換え」=「書き換え」の戦略を持っているのだけれど、「水晶内制度」が国家の根拠となる神話の読み換えをしていたのに対し、「金毘羅」では自分自身をその対象としている。

その方法とは、“私”は実は生まれた時に一度死んでおり、そこに金毘羅が入りこんで生還した存在であるという着想を基点とし、自分の人生、存在を「金毘羅」として読み直すというもの。これにより、「小さい頃からはぐれ者で、両親に多大な迷惑を掛けて、どうにも社会になじめなかったんだけど、そりゃ仕方ないや、私金毘羅だったのだもの」(引用ではない)、という感じに自身の人生を肯定的に反転させてしまう、他に類を見ない変形自伝的小説が出現する事になった。おそらくはかなりの部分自伝的要素を含んでいるのに、そこに自分が金毘羅として転生した経緯が一緒くたに語られるという特異な構成になっている。

この小説で“私”は、社会の中の異者としての自分自身を絶対的に肯定し、そこを足がかりとして国家や国家神道、科学の振りをしたオカルト、などなどに対して、つねにカウンターとして振る舞うという決意をいだく。伊勢に祀られている様々な神ではなく、途中まで守護神だったサルタヒコでもなく、江戸期に庶民的人気を持っていた“カウンター神”金毘羅として自身を捉え直し、あらゆる抑圧と戦うという決意である。神道記紀神話など国家や権力に吸収されたものにたいして、被抑圧者の痕跡を探し出し、抑圧された者として自分を定位し、そこから反逆の狼煙を上げるというのは「水晶内制度」にもあったが、ここではその主体は私自身となり、一匹狼としての哄笑を響きわたらせている。

この小説、「S倉迷妄通信」以来顕在化してきた宗教的要素が中心となり、記紀神話や仏教的素養のない私にはかなり難物になっている。笙野頼子の方針として、柄谷行人が「日本近代文学の起源」などで提起した「内面」「風景」といった、現代日本文芸批評のほとんど基本ともなっているメソッドに対してのアンチテーゼとして書かれている面もあり、どちらかといえばその柄谷メソッドに馴染んできた私にとって、相当な異物感が感じられる。まさに、その異物感があるからこそ、緊迫感のある読書になるのだが、いかんせん記紀、仏教的知識の不足を痛切に感じるところがある。

はっきりいって、「水晶内制度」などよりも難解だった。語られるエピソードの数々は面白いし、退屈ではないのだけれど、私にはこの小説の射程が全然掴めない。勘所を理解出来ていないという感じが残る。この小説は昨年度、何人もの人がその年のベストに挙げていたようで、そのせいか結構読まれているようだけど、いったいどう読まれているのだろうか。


笙野頼子のある意味集大成であり、国家神道に対して神道左翼を自称する抵抗者として自身を金毘羅と見なす闘争宣言ともいえる、おそらく笙野頼子作品のなかでもメルクマールとなるだろうことは確実の作。


と、読めないと告白した上でさらに続ける。上で“哄笑”と書いたが、これが笙野頼子の面白いところだ。笙野頼子はなにかにつけて“ルサンチマン”だとか、ブスのひがみだとか、あまつさえ“ブス”を売り物にしているだとか、低級な難癖がつねに投げかけられてしまうのだけれど(そういうのを読みたければ2ch文学板笙野頼子スレッドを見るといい。また、以下の文章のなかはでそのスレッドでの幾つかの興味深い指摘を参考にしてもいる)、笙野頼子自身の作品はそういったものとは異質な場所で書かれている、と思う。

話は逸れる上に個人的な印象論だが、笙野頼子のような境遇で男だったら、2ちゃんねるによくいる韓国人や朝鮮人を差別する書き込みを延々垂れ流すようなナショナリスティックな人間になっているかも知れない、と思うことがある。自分自身の“弱さ”(というのは自己認識においてであり、それは社会的なステータスである場合もあるし、オタクである、というような趣味判断の場合もあるだろう)を否認する身振りが、国家への自己同一化というプロセスへ向かうタイプの人が、無際限な攻撃性を他者へとむけてしまう。ルサンチマン、という言葉で思い浮かぶのはそういう心理的プロセスだ(心理学的、哲学的にどういう事態を指すのかは私は知らない上での単なる私的な印象として)。

もし“男”だったら、笙野頼子もそうした方向へ向かっていたかも知れない。しかし、笙野頼子は女である。しかも、男であることに挫折した女だ(ここはもっと微妙な表現をすべきだろう)。自筆の年譜に書かれているが、彼女は結構な年齢(第二次性徴のころ?)になるまで、自分はそのうち男になるはずだ、という信念を抱いていた。旧来の因習的な価値観が支配的だった郷里では、女というのは臭い、汚いものであり、(弟が生まれるまでは“男のように”育てられてきた)自分がそんな汚い“女”なんかであるはずがない、という信念が育っていた。しかし、彼女は自分自身が歴とした女であるということを驚きとともに知る。このエピソードは何回か小説にも書きこまれていて、「金毘羅」でもあったと思う。この、女であるということそのものが何らかの楔のように打ち込まれたことが、笙野頼子の小説においてきわめて大きな影響を及ぼしている*1。

乱暴に、かつ一般論的に書く。男は男というジェンダーが社会的に担わされた方向に沿い、自己を国家という仮構された共同体に投影することで、逃避的な自己形成が可能だ(自己の脆弱さの屈折としての他者への攻撃性!)。しかし、笙野頼子は男であることに失敗し、国家幻想にすがるという道が閉ざされた。抑圧され、責めさいなまれている自分を、何ものかに投影し仮構の自己同一化を計ることで満たすことができない。そのうえ、男ではなく、女という性なのだということがわかったからといって、その女性性を売りにすることで世渡りできるわけでもなかった。そして、そんな女には、世間の側からの様々な形での迫害が待っていたというわけだ。

“ブスの女”というエレメントは、笙野頼子にとって自分が自分でしかないこと、自分は何ものかに所属したり依拠したりできるような存在ではないだろうということを突きつけたのではないか。“反国家の個人”として彼女が戦いを組織するのはおそらく、そのことと無縁ではないだろう。そして、個人であることと文学という道を選ぶのは、彼女のなかでおそらくイコールで繋がる。個々人の叫び声としての文学。社会、国家といった抽象的な共同体に対して、徹底してカウンターであろうとする笙野のスタンスはその帰結だろう。

笙野頼子の初期作は、怒り、憎悪、コンプレックスなどが内側に折りたたまれて煮詰められたような異形の存在感を放っていた(「極楽」!「大祭」!その他諸々)。それは、上記のように外からやって来る抑圧や蔑視を跳ね返す事が出来ず、内向していった結果でもあるだろう。しかし、そのような内向性は(うろ覚えで書くが)、戦いの場面を言語という表層に、つまり「母の発達」や「レストレス・ドリーム」などにおいて、言葉遊びとして組織することで、無類のポップさへと転化されていった。

嫉妬でもなく、恨みでもなく、あっけらかんとした批判、否定、爽快な罵倒、近作に見られるそういった感触は、開き直りにも似た自己肯定から引き出されてくるものだと思われる。「カニバット」に付された帯の「私は世界一美しいブスよっ」という言葉は、上記で書いたような“ブスの女”という一般的にはネガティブなエレメントを百八十度反転させることで、そこを戦いの前線として設定する戦略だ。そして、その戦略―自己の(一般的には)否定的なものを基礎とし、そこを視界の中心点におくことで、世界の方をこそ反転させるというアクロバットはこの「金毘羅」で自己自身そのものを肯定することで頂点に達した、と見ることができる、かも知れない。



※1 清水良典以下の書冒頭の論文で、笙野頼子は女性の一人称で小説を書くことに躓いた作家であるという指摘がある。笙野はデビュー作から何作かは男性一人称で書いている。

笙野頼子 虚空の戦士

笙野頼子 虚空の戦士

なぜ、笙野頼子を保守反動になってもおかしくないなどと言い出したかというと、おなじく保守反動になってもおかしくない作家として、大江健三郎を思い出したからだったりする。大江健三郎も、「遅れてきた青年」あたりを読んだとき、右翼でもおかしくないという印象があった。
それ以前に大江健三郎笙野頼子という組み合わせには、奇妙に似たところがあると思うのだが、どうだろうか。大江「万延元年」以降を読んでいないので具体的に言えることはないのだけれど。