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笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」

笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」(「群像」2006年1月号掲載)

群像 2006年 01月号

群像 2006年 01月号

(27日改訂)

既刊はすべて一通り読むことができたので、この作品も書かれた順、つまり「絶叫師タコグルメ」や数字ものの短篇(参照)を読んでから読もうかと思っていたのだけれど、panzaさんのブログを見たり「水晶内制度」の続篇という話を聞いて、待ちきれなくて結局読んでしまった。

強烈な作品であり、問題作であり、単純に面白いとばかりはいえない複雑さがあってとても読み応えのある作品だと思う。ただ、270枚と長篇としては短いせいか、後半を私が読み切れていないせいか、なんとなくピンとこない部分もある。

それでも、序盤から文章はドライブ感たっぷりに走っているし、2ちゃん語の使い方が不自然でないところとか、途中で方言や落語やらが挿入されるような語りの多様性も面白く、「水晶内制度」以上に倍角文字を駆使していたり、独特の言葉の使い方はどんどん加速している。

とりあえず具体的に作品を見ていくことにする。それにしても、要約したりまとめてみるのが難しい小説だ。結局だらだら長いだけになってしまった。

ネット上にはいくつかすでに反応があるのでそちらも併せて見てください。
Panzaさんの笙野頼子専門サイト「笙野頼子ばかりどっと読む」のこの記事
http://d.hatena.ne.jp/Panza/20051226
とかThornさんの「Flying to Wake Island
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20060115
とかが参考になります。
こんなリンク集も
http://www.technorati.jp/search/search.html?callCode=6171.5915&queryMode=main&query=%E3%81%8A%E3%82%93%E3%81%9F%E3%81%93%E3%82%81%E3%81%84%E3%82%8F%E3%81%8F%E5%8F%B2&language=ja

●「おんたこ」の概要

これは続篇というか、「水晶内制度」のいわば真裏をあつかった話で、「水晶内制度」では「ウラミズモ」のことだけを書いていたのに対し、今作では「にっほん」のことに終始し、ウラミズモのことは噂でしか語られない。「水晶内制度」では男性中心社会を反転した形での過剰なまでの女性中心社会を描いていたが、ここではその過剰なまでの男性中心社会が描かれることになる。それは笙野頼子が恐ろしくて描くことを断念したという世界だ。

この作品は近未来の日本を舞台にしていて、そこで「みたこ教団」(御章魚・正式名称「アメノタコタラシ教団」)という宗教組織が強権的に解体させられてしまう場面から始まる。その顛末を語りながら、「にっほん」となった日本を牛耳る「おんたこ」とよばれる人間たちの行動や思考を浮き彫りにし、批判していくという体裁になっている。

「おんたこ」とは言ってみれば戯画化、誇張された「オタク」で、作中でもしきりに少女のイメージ、身体を消費する文化そのものに痛烈な批判を行っている。しかし、ただたんに「オタク」批判なわけではない。「おんたこ」とは自称左翼の「贋左翼」で、左翼的言説を無責任にいいとこどりをしつつも保守思想を継承したふりをするなど、左右の思想のいわば骨抜きに貢献していたとされる。また、自分たちをマイノリティとし、自分たちの行動を「反権力」と規定して自分たちを正義の側におきながら、強権的な弾圧をしかけてくるという奇妙な反動のあり方が「おんたこ」でもある。

つまりこのにっほんにおける反権力とはしいていえば無責任な大権力の意であり、自己喪失の意味であり、また付け込みやすいところに付け込みながら被害者面をする事をただもう反権力と呼んでいるのである。
「群像」2006年1月号17P
そのさい利用されるのが「少女」のイメージだ。「にっほん」では少女は反権力の象徴であり、おんたこたちは「名誉少女」と呼ばれたりして、少女にカウントされるのだがもちろんおんたこたちは男だ。彼らは痴漢行為などを少女に対して行っても、「反権力英雄行為」などと呼ばれ何ら問題にならないという地位にある。さらに、彼らは「戦闘美少女兵」を官軍として用いたり、「火星人少女遊郭」という場所を作り、おんたこたちに少女を傅かせる施設を作って、少女たちをそこで働かせている。それは反権力や少女のためなどの大義名分によって正当化される。少女に対する暴力が、少女自身を大義名分として正当化されるというシステムだ。

笙野はさらに、この不気味な状況は日本近代のはじまりから続くものであるという風に指摘する。
ここらへんの事情はこのブログでとても簡潔に指摘されている。

つまりは日本文化の根底にある中心を欠いた視座、というか自分は中心から関係ないようなそぶりを見せて実は逆説的に体制翼賛的な状況に荷担しているものそのものが、「おんたこ」であり、被害者意識を装って本当の弱者を抑圧している、と笙野は指摘しているのである。
ちなみに笙野頼子の読者なら、この言説のあり方にぴんとくるはずだ。今作で指摘され、戯画化されている「おんたこ」をめぐる状況というのは、論争エッセイ集「徹底抗戦! 文士の森」で繰り返し批判していたものと構造的には全く同一だからだ。たとえば、噂の真相の編集長から根拠のない中傷に対して詫び状をとった時のことを語る部分。

また、この件を通じて真相のやることにはいつも法的抜け道がある、とか君が笑われるだけだとか言い続けていた人々がただの嘘つきの嫌がらせ野郎の卑怯者であったという事もよく判りました。
 私に我慢しろと恫喝してきた、抑圧男性編集者や抑圧男性評論家から、私が仕事を干され、嫌がらせをされ、公共の場で口をきいてもらえない等になれはじめたのもこのあたりからです。
 反権力に老舗はないね、そして大企業や大アカデミの学者と反権力ブリッコ的に同行して、女性差別や笙野抑圧に手を貸して貰い、その上でジャーナリストぶってるこいつらってどーよ、と言いたいです。
「徹底抗戦! 文士の森」394P
ここでは反権力を自称している連中がその実、きわめて権威的差別的な体質であることが指摘さている。笙野にとって、こういった「おんたこ」の典型例が群像追放事件に荷担したとされる大塚英志で、たぶん氏が作中のタコグルメのモデルの一端なんじゃないかと思う。

この小説はその意味で、「徹底抗戦! 文士の森」の小説版のようにも読める。


●オタクと「おんたこ」

ところで、ここ最近私は「Gunslinger Girl」を「倫理的」に批判し続けてきたが(参照)、そこで私が見いだしていた問題と、今作で笙野が批判している問題は、たぶんかなり近いものではないかと思う。それはごく単純化すれば、「少女を利用した男たちの自己正当化によって、少女自身が抑圧される構図」だ。そういった傾向が最近のオタク的表現にあるように私は考えていて、「ガンスリ」はそのもっとも典型的な具体例として批判していた。

オタク表現、というか「美少女」にまつわる倫理的な問題を扱った本にササキバラ・ゴウの「<美少女>の現代史」がある。この本では男が美少女を性的に見ることについての問題を扱っていて、わりと踏み込みが浅いものの、私と問題意識の持ち方が共通している面もあり、興味深い本だ。この本の終章、現代の美少女について語っている部分で、ササキバラはこう書く。

まず第一に、視線を受けとめる相手として、決して傷つくことのない「キャラクター」がますます求められているということ。人間ではなくキャラクターが相手なら、男性は安心して自分の視線をさまよわせ、そこに秘められた暴力性を解放し、思う存分「見る」ことができます。美少女を表現した多くのまんが、アニメ、ゲーム、フィギュア、小説などは、そのような欲望を受けとめてくれるものとして、消費されつづけています。そこでは、私は安心して「純粋に視線としての私」になれるのです。
 第二には、かつての「特権的な僕」の座を回復しようとして、「彼女の内面」をフィクションとして作り上げ、既に消えてしまった旧時代の少女まんがを男の手で再建しようとすることです。七〇〜八〇年代のロマコメやラブコメ少女まんがの表現が、そのまま移植されたかのような作品が、九〇年代以降の男性向け作品には目立ちます。
 このふたつの欲求が、矛盾することなく同居するさまは、特に九〇年代後半以降のギャルゲーにわかりやすく表われています。そこでは、エロまんが的な凌辱する視線と、きわめて内面的で叙情的なテキストが、軋轢を起こさずに同居しながら表現されています。
講談社現代新書「<美少女>の現代史」181182P
ササキバラのいう「特権的な僕」とは、少女漫画で表現されていた女性の内面描写を通して、女性の理想像としての「本当の自分をわかってくれる彼」になろうとした男たちのことで、少女漫画での内面表現が大幅に後退してしまってから、その座を奪われてしまったという)

視線の対象物として消費しつつ、自分は彼女たちをわかってあげられるというほとんど矛盾するような二面性を象徴するものとして、「美少女」が求められている、と言うのだ。

笙野が大塚に見いだしていた言説のあり方は、上記引用とも通底するもののように思われる。論争では笙野は何度も大塚をロリ・フェミと呼んでいるが、それは以下のような言説を指す。

ロリ・フェミとは文壇の女性差別体質に上手に付け込んで実力以上のランクをこの世界で手に入れ、その上文学や女性に対してたかをくくり現実感を喪失しているあさはかな状態の、自称少女代弁者を評した言葉なのです。ロリ・フェミは少女のイメージのユーザーにして少女のスポークスマン、少女の抑圧者、そして男性評論家は大人の女作家の仕切り屋をもかねた黙殺者である、そりゃ意気投合ですよ。
「徹底抗戦! 文士の森」122P
私はここでフィクションと現実の文壇とを並列しているが、構図としては同じものだ。今作で「おんたこ」がオタクを明らかに示唆していたり、「戦闘美少女」という語が出てきたりするあたり、笙野はこの少女利用の少女抑圧批判をオタクそのものに対しても行っている。

この笙野のオタク批判は、ササキバラの「<美少女>の現代史」が穏当な論にとどまっていたことや、「「戦時下」のおたく」のぬるさにくらべ、はるかにラディカルな批判になっていると思う。作中でデリダラカンを使ってオタクを擁護することを皮肉った人物が出てくるけれど、それはこのような図式を閑却した上で展開される議論についての皮肉なのだろうと思う(東浩紀斎藤環がモデルか。笙野は斎藤の「戦闘美少女の精神分析」でも読んだのかもしれない)。今作ではそういった「少女に対する暴力」が見えなくされてしまうという状況を徹底して可視化しようとしている。

今作のキーのひとつはここにあって、笙野の批判は単なる少女への暴力や弾圧といったようなことだけではなく、そういった問題そのものが隠蔽されてしまうメカニズムへ差し向けられている。マイノリティを自称して本当のマイノリティを迫害する「おんたこ」の姿はそうしたメカニズムの具体的な形だ。笙野はそこに近代日本以来の病理を見いだしているといえる。

それは反体制のふりをして制度への迎合をやめないことであり、結果制度そのものあるいは制度が抑圧しているものの問題性が隠蔽されてしまう。今作で制度によって虐げられているのは少女だが、少女自身が何かものを言うことはまったくないのはそのためだろう。

笙野にとって、大塚をはじめとする評論家たちとオタクとは、「少女」の存在、他者性を消し去ろうとする点で同一に捉えられている(それが現実の発言であれ虚構のものであれ)。きれいな、男たちにとって都合のいい存在としての「少女」しか認めようとしないとするものたちを、「おんたこ」としてひっくるめて形象化したのだろう。そしてそんな「おんたこ」たちが政権を握った世界を描く。なお、「おんたこ」たちが属している与党は、「知と感性の野党労働連合」、略して「知感野労」―チカンヤロウ―だったりする。


●小説内小説

ここまではほぼ前半部分について。後半、小説がどんどん変なことになっていく。

中盤を過ぎると随所に異なる語り手が設定されて、小説の中で別の語りを展開していくようになる。そもそも、この小説、語り手の設定がこれまでの笙野のものとちょっと違う。これまでしばしば採られていたのは、語り手を「私」としつつ、その名前を「沢野千本」とかの架空の名前にするというものだったのが、今作は最初っから「作者」と作中に書かれたりする。その作者の名前も普通に「笙野」なので、びっくりする。

この小説は近未来に仮託して現代日本にはびこる「おんたこ」を痛烈に批判するというのがひとつの軸になっているが、もうひとつ、作者笙野が小説を書くと言うことについての反省が展開される。それは、現実の場所をモデルにして小説を書くということにまつわる「歴史」の問題であり、怒りを元に書くということの問題でもある。

「歴史」についてだけれど、これを展開している部分は方言や2ちゃん語を使いながら書かれていて、文体の変化が楽しめるところだ。しかし、わたしにはちょっと全体とのかかわりがわからない部分でもある。「小説内降霊」として、「おたい」と自称する少女が芸子であったことを語る部分は、笙野が住んでいた遊郭跡地の「歴史」の反省と、おそらく江戸時代からの「おんたこ」の歴史的な側面を描くことも試みられているのだろうけれど、「権現」や「ふすみ」さまというのが現れてくるあたりの意味がよくわからない。

同じく、最後の方で無告塚古墳の主が語るあたりも、2ちゃん語を使いながら書いている文体の遊びのところは面白いんだけれど、何が問題となっているのかいまいち判然としない。七世紀の律令制制定のころに生きていた人物の亡霊?が、何度も眠りについて時間を超えていき、近未来にまた目を覚ましたところが語られるのだけれど、稲荷がどうとか、鳥居を赤く塗ったあたりの記述が、どういうことを意味しているのかやっぱりよくわからない。ここら辺は「金毘羅文学論序説」で扱っていたことが前面に出てきているところだとは思うんだけど。

ここらへん、古代からの日本史の知識がない私には「金毘羅」以降の笙野の小説の射程が掴みにくくなっている。勉強しないといかんなあ。

で、もうひとつ、怒りから書くという問題について、笙野は今作に小説内小説「笙野頼子の後半生」を挿入する。これは笙野自身についてのことを、架空の近未来のなかに設定して語る形式になっている。そこでは、近未来、笙野頼子は五十を過ぎ、狂気に陥ってしまって書く小説が普通のリアリズムに見える小説になってしまったという。自分自身で幻想をコントロールできなくなり、完全な狂気に見舞われ、結果、書くことが人々にとっての妄想と共通してしまうが故に、「淡々と私小説を書いた」と受け取られるようになってしまうからだという。

そこで笙野はこれまでの戦いをまとめて、こう語る。

彼女の戦いは被害そのものだけではなく、結局被害妄想に見える事との戦いだったのである。
「群像」2006年1月号62P
そして、その戦いが達成された瞬間、

「誰ももう私を電波と呼べない、呼ぶ人間こそが電波なのだ」。赤ん坊に帰ってしまったような感じだった。ゼロになったのだ。普通の人間が普通に当然の権利として持っているものを、手に入れるために五十年かけたのだ。
同63P
「迫害」と戦い、それを克服した。それは笙野にとって本来は祝福すべき事であったはずだ。しかし笙野はそのことに今まで全存在をかけてきたのである。その後自分はどうしたらいいのだろう。
同63P
そこで考えたのは自分で作った幻の国のことをもっと詳しく想像すると言うことだった。しかし、そうしようとしたら、小説でモデルにした場所で生きていた人や歴史の幻に襲いかかられる。それで狂ってしまったらしい。それが、「笙野頼子の後半生」として挿入されている。

この妙なメタフィクションは、上記のブログでも述べられているとおり、

作者はなかなか巧妙で、SFの体裁を借りて自分の意見を表明する、という行為そのものに纏わりつく欺瞞も承知していて、自分をフィクションのなかに閉じ込める。
 それも、メタフィクションを重ねた挙句、最後に作者が登場する、という凡庸なパターンを逆手に取り、登場する作者は、常に「おんたこ」が作り出したひずみのなかに閉じ込められ絡み取られる。
作者自身を作中に閉じこめるという形で行われている。メタ的に作者が特権的に作品の外に立つのではなく、作品の外に立っていると思われた作者を作品が取り込んでしまう。そう考えて今作を読むと、この作品自体が、小説内小説で語られる、幻想の国が笙野自身に襲いかかってきた幻であるとも読める。作者はそうやって書くことそのものに対する畏れを小説の中心に埋め込む。

その畏れが具体化するのが、ラストの「火星人少女遊郭」の描写、つまり、少女たちが「おんたこ」の性的対象物として徹底して搾取される場面だ。作品が中盤からメタ化していくのは、これを書かなければならないということに逡巡したからで、この「遊郭」を書かなければならないという逼迫感は「ウラミズモ」を書いたことに対する「幻想の国」からの復讐にも感じられる。私は文学に対する笙野の倫理的態度を信頼しているのだけれど、それはこういう風に書いたことに対する反省を常に挿入してしまう生真面目さがあるからだ。


笙野頼子の国家論

ところで、笙野頼子の描く「国家」には常に「犠牲」がついて回っていることに気づいた。「硝子生命論」では幻視建国のために女性が一人儀式の生け贄となり、「水晶内制度」ではロリコン男が少女たちに実験動物気分で殺され(原発もそうか)、今作の「にっほん」では安手の遊郭で少女たちが「おんたこ」にこき使われたり金で買い取られたりする。

つねに変わらず、国家の成立には何かを暴力的に犠牲にする描写がある。国家がまず行うのは国民から暴力を奪い取りそれを国家の占有物とすることだというが、それの笙野的解釈だろうか。それとも、天皇制という中心を欠いた構造に対するアンチテーゼとして読むべきだろうか。天皇制に対して笙野は「なにもしてない」の頃から接近を試みていたのだし。いや、たぶんそれは違う。

国家やらの「制度」が成立するさいには必ず何かを抑圧することが要請されるのだということを暴き立てていると考えた方がいいだろう。国家、制度は常にどこかで、というよりその中心で何かを暴力的に抑圧しているという構造を笙野頼子は繰り返し描いている。