「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

このブログについて

http://inthewall.blogtribe.org/
以前まで上記のURLで更新していたこのブログですが、blogtribeサービス終了に伴い消滅していたので、バックアップから復帰させました。画像、書籍へのリンクやサイト内リンクについては修正したつもりですが、サイト外リンク等についてはその限りではありません。

タグやその他不自然な点もあるかと思いますがご了承下さい。
現在更新しているのは以下のブログです。
https://closetothewall.hatenablog.com/

別ブログ開設

このブログが更新できないあいだに、はてなでIDとって別ブログを開設してみました。

Close to the Wall

とりあえずここを「本家」として、むこうでは聴いた音楽関係と雑記とこっちで一つの記事にするには短い本の感想とかを投稿してみたりしています。はてな、確かに更新はしやすい。向こうの方が更新頻度は高くなると思うので、てきとうに見てみてください。

しかし、このブログに送られまくったトラックバックスパムがすでに3500を超えているんだけれど、これ、どうすればいいんだろう。トラックバックが完全に機能しなくなっている。

四冊の「日本語の歴史」

●山口仲美「日本語の歴史」岩波新書

日本語の歴史 (岩波新書)

日本語の歴史 (岩波新書)

前回の「日本書紀の謎を解く」を読んで、上代日本語とか日本語の歴史に興味が出てきたので、手軽に一冊読んでみた。簡潔かついろいろなトリビアを取り込んで面白い読み物として仕上げられていて、なかなか良い。前回書いた、上代日本語の八十七の音節だとか、倭習の強い漢文の話、そして日本語が文字においては漢字に全面的に依存して出来た言語(カタカナもひらがなも漢字を元にしている)であることなど、古代のことから近現代まで、ダイジェスト風に歴史をたどることができる。

ネットのレビューなどでは、鎌倉室町時代の、係り結びの消滅と主格を表す助詞の活用による、論理的な文章への変化を叙述したところが評判がよい。日本語が非論理的なのではなく、論理的に整備された言語を論理的に使えないのが問題だということで、まあ、こういった日本語の非論理性を否定する議論そのものはずいぶん前からあるものなので、目新しさはないけれど、情緒を強調する係り結びからの変化として歴史的にとらえたところは面白い。

しかし、新書なため、やはり物足りない部分も多い。

●「日本語の歴史」平凡社ライブラリー

日本語の歴史1 民族のことばの誕生 (平凡社ライブラリー)

日本語の歴史1 民族のことばの誕生 (平凡社ライブラリー)

そこで、折よく刊行が始まっていた大冊のこの「日本語の歴史」に手を出すことにした。1965年に完結を見たシリーズで、上記新書の参考文献としても挙げられていて伝説的名著と言われていたらしい。各四、五百頁で全七巻と小島信夫の「別れる理由」くらい、あるいは「失われた時を求めて」の半分くらい長いものだけれど、とりあえず三巻まで通読。もっとも内容をきちんと把握できている自信はまるでない。やはり内容が濃いうえにあまり手を出してこなかったジャンルなので。なお、本来はこれに「言語史研究入門」という方法論的なことを扱ったらしい別巻があり、全八巻だったのだけれど、平凡社ライブラリー版では刊行予定にない。どうせなら出せばいいのに。

このシリーズ、第一巻が、日本語の歴史は日本民族の歴史である、として、日本の始まりから話が始まるのが特徴。歴史学、考古学、人類学などの学問を動員して、まずは日本民族がどこから来たかを論じる。執筆に江上波夫が入っていて、騎馬民族説に結構な頁を割いているところなどいまにしてみれば古くなってしまった部分だけれど、紹介しつつも学説そのものについてはそれに依存するわけではなく、きちんと保留して論を進めている(これを読むと、騎馬民族説が戦後歴史学に与えたインパクトの大きさがわかる)。

一巻はそのまま、日本列島の起源から、日本語起源論、系統論を経て、文字以前の原初日本語の話へと至る。様々な知見が満載だけれど、初学者に優しい書き方とは言えない部分が多いので、よくわからない箇所も散在している印象。

そういえば、この巻には、古代日本人について、人種学、というか形質人類学、というのか、そういった視点から見た日本人の特質について論じている部分がある。そこでは、日本人の骨格にかんする調査が紹介されていて、それによると現代日本人は、畿内型と東北・裏日本型に分類することができるとされ、また、東北型はアイヌに近く、畿内型は朝鮮系に近いという。そして、もっとも代表的な畿内人は、東北型よりも朝鮮人に近いらしい。

これは、1949年から四年間、全国町村別に同一基準で測定された五万人を超えるデータに基づいて、小浜基次によって報告されたものらしい。この話、以前網野善彦の対談集で網野が発言していて(確か小熊英二との対談だったので、いまは小熊の対談集で読めるはず)、そのときは特に根拠も提示されずに語られていたので、排外主義的ナショナリズムに対して持ち出すには確かに面白すぎる話だけれど、ちょっとトンデモ臭いし、突っ込まれる隙になりゃしないかと思っていたのだけれど、どうも、網野はこの報告をもとに発言していたみたいだ。この調査と結論について、その後なんか議論があったかどうかは知らないが、骨格から見た調査では日本人の朝鮮系との近親性が確認されるというのは面白い。

知人は、朝鮮韓国にレイシズム発言を繰り返す奴に、おまえみたいな顔のことを朝鮮顔っつうんだよ、と言ったらぶち切れられて喧嘩になったらしい。爆笑ですね。

日本語の歴史2 (平凡社ライブラリー)

日本語の歴史2 (平凡社ライブラリー)

また、二巻は漢字伝来を扱って、非常に面白い巻になっている。しかしそこはこのシリーズ、漢字だけではなく、文字そのものの起源から話が始まる壮大さで、シャンポリオンの話などを盛り込んで、文字史の概説から漢字の話へ移行する。また、日本に漢字が輸入されるという国内的な事情のみではなく、朝鮮、ヴェトナムまでを包含する漢字文化圏について包括的な視点から周辺諸国が漢字の影響にさらされる様を描き出している。たとえば朝鮮では、なんとか漢字を用いて民族の言葉を表そうという努力がなされたけれど(「吏読」、「吐」、という方法があり、万葉仮名のようなものもあったらしい)、ついには漢字を放棄し、1443年「諺文(オンモン)」という文字を作り出した。これは漢字の原理を踏襲しつつ、アルファベットなどの表音性を導入して作られたものらしい。しかも成立当初は慕華思想が根強く、漢字を放棄するなどとんでもないことだと猛反発をくらい、実際に民族の文字として根付くには第二次大戦後の日本の植民地から解放されるのを待たなければならなかったという。いまではハングル(大いなる文字)と呼ばれている。ハングル Wikipedia Wikipediaによると、ハングル公布が1446年となっていて、この本の記述と三年ずれてる。

ここには、日本とは違う漢字受容の歴史が語られている。開音節(音節が母音で終わる)のため、音節数が限られる日本語と、閉音節もあり音節数が多い朝鮮語とでは漢字との親和性が異なり、このような歴史をたどったということらしい。朝鮮以外にも、西夏文字契丹文字など、中国周辺国での文字に関しても語られていて面白い。いくつかの国や民族では、漢字を基にして新しく造字したり(日本にも国字がある)した歴史が語られ興味深い。

また、ここで著者は、表音文字表意文字という二分法に疑問を呈している。そして、漢字は正しくは、「表語文字」というべきだと述べている。これはなかなか得心のいく意見だと思った。

前回の書紀成立論にまつわる余談だけれど、この巻では、書紀の編纂メンバーとして続守言が関わっている可能性が指摘されている。まあ、漢文で書かれた書紀に、当時渡来人として漢文の知識を豊富に持っていただろう人物が関わっているだろうという推測自体は、しごく蓋然性の高いものとして考えられていたのだろう。森博達の議論はそれに裏付けを与えた形になるのか。

三巻では日本語の言語芸術の歴史が語られる。紀貫之、「竹取物語」、「源氏物語」、などなどが出てくるけれど、私はこれらの文学にほとんど触れていないので、いまいち具体的に記述が理解できないことが多かった。もうちょっと論じているものの本文を引用してもらえるとよかったのだけれど。

また、文章がなかなかの名調子でさくさく読んでいくだけでも面白かったりする。項目ごとに違う執筆者の書いたものを、編集委員がリライトするという形で書かれたらしいのだけれど、ある項目は特に文章に勢いがあるな、と感じたりできて面白い。隔月刊行らしいのでゆっくり読んでいこうかと。私としては一巻の解説に語られている、六巻あたりの近現代あたりのことが面白そうだと期待している。

古代史・記紀成立論の二冊

●森博達「日本書紀の謎を解く」中公新書

日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)

日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書)

ここ半年ほどのあいだに読んだ本のなかでもこれは格別の面白さ。タイトルに比して中身はかなり専門的な議論を下敷きにしている硬派の研究書でもある。ちょっと読みづらい。とはいえ、その面白さのせいで専門的な部分のわかりづらさも何とかなる。

古代史研究では、古事記もそうだけれど、日本書紀の記述の信頼性についてはつねに大きな問題として立ちはだかっていた。なにぶん、文献史料がそもそも書紀、古事記程度しかない時代についてのことなので、書紀の周辺史料から書紀の信頼性を確定することができない。批判的記紀研究の先駆け津田左右吉の議論においても、(引用されたものを読む限り)やはり具体的な根拠に欠けるせいか、そうも言えるし、こうも言えるという感じで議論が明確な叩き台を得られていないように思える。これまで、書紀を用いて古代史を論ずる前に行われるべき文献学が手薄だったと著者は指摘している。

私がいままでざっと読んできた書紀研究は津田のものを延長した、内容の相互矛盾などを検討していくタイプのもの(内容の整合性などから判断していく形)だったけれど、この本では、書紀の表記、文体といった形式面、「いかに書かれているか」という観点から徹底的に分析していくという試みになっている。いわば文献学的吟味を経て、最終的に「誰が書いているか?」を推理していくという謎解きが展開されていく。

そして、この文献学的研究による謎解きが滅法面白い。先が気になって仕方がないうえに、謎が解かれていく推論の展開がエキサイティングな学術エンターテイメントとして楽しめる。まるで推理小説のような面白さだと学術書やノンフィクションを褒める人がいるけれど、こういう面白い研究書を読むと、話が逆だと言いたくなる。推理小説が学問的探求のような面白さを持っていることがある、と言わねばならない。現実にある、本当の謎を解いていく、解こうとする面白さは、推理小説では味わえない。それに、私の印象では、この本のように面白い推理小説を読んだ覚えがない。最近出たシャーロック・ホームズの新訳ものを三冊ほど読んだけれど、どれもこの本ほど面白くはなかった。

で、この本の何がそんなに面白いのかというと、全三十巻の「日本書紀」という歴史書の文体、表記、文法を様々な観点から分析することで、それぞれの巻ごとに決定的な違いが見られること、その違いから述作者がどの言語に習熟している人物なのかを判別し、その情報を元に、書紀の各巻の書かれた順番と作者をすら推理してしまうというアクロバティック(トンデモという意味ではない)ともいえる論理展開だ。一種の犯人探しゲームといえる。

その犯人探しには平安以前の上代日本語の表記、文法、音韻の専門的知識、さらに漢語で書かれた書紀を分析するのに必須の当時の中国語のそれとを総動員していて、なおかつ契沖から本居宣長橋本進吉、そして夭逝の秀才有坂秀世といった国語学、日本語学における偉大な学者たちの学説をおさらいしつつ書かれているので、読者は近世から現代に至る研究史のエッセンスを知ることができる。

余談だけれど、上代日本語においては、五十音(濁音ふくめて六十二)ではなく、八十七(八十八説もあり)種の音節を発音し分けていたことなどは、私はこの本で知った。そのほかにも、「兄弟」をキョウダイと読むのが呉音、ケイテイと読むのが漢音だとかの、漢字の読みにもいくつかの種類があることだとか、日本語学に疎い私には新鮮な知識が満載だ。

で、この本で核心になっているのは、上代日本語の音韻にかんする部分だ。それまで、万葉仮名(漢字の音を使って意味ではなく音を表記する仮名。語弊があるけれど、よろしく=夜露死苦みたいなもの)の分析により、八十七種の発音があったらしいことはわかっていたのだけれど、当時の音価(具体的にどう発音していたか)は不明だった。書紀などの万葉仮名を見れば、当時の音価もわかるかと思われたけれど、書紀の万葉仮名は中国語原音を正確に判別できない日本人によって書かれており、体系だっていないため音価推定の資料的価値はないとされてきた(有坂秀世による万葉仮名倭音依拠説)。砕いて言うと、当時のある音を表記する万葉仮名が、異なる中国語原音をもつ複数の漢字を脈絡なく用いていて、漢字音と当時の音価をイコールで結べないということ。

中国語原音によって万葉仮名が書かれていれば、当時の日本語の音価を正確に推定できるのに、この倭音依拠説が壁となっていた。しかし、森氏は巻ごとの万葉仮名を詳細に分析し(今ならパソコンを使って解析するのだろうけれど、当時パンチカードを使ってソートしたりしていた思い出を著者は書き込んでいる)、書紀のある一群の万葉仮名が、どうも倭音による混乱のない正確な体系に基づいて書かれているらしいことを発見する。

ここら辺は説明が厄介なので、実際に読んでみないとどこが凄いのかわからないけれど、本書のハイライトといってもいい、研究史上でも画期的な発見らしいところで、読んでいて手に汗握る興奮を覚えた。前回もリンクした言語学のサイトの以下のページでは、この本の下敷きになった論文の要約をしている。非常に参考になるので是非一読してください。

 学問の部屋

さらに中国語の原音で書かれているとおぼしき部分の万葉仮名では、中国語を母語とする人間が日本語を聞き取ったときに発生する聞き間違いが存在するとして、その一群を中国人が書いたのではないかと推論していくあたりも非常に面白い部分だ。これは、日本語ネイティブが英語のLとRを区別しにくいように、中国語ネイティブも、日本語の濁音と鼻濁音を区別しないらしく、「バ」と「マ」、「ダ」と「ナ」が区別されていないとか、「ミズ」を「ミツ」と表記しているような、中国語ネイティブ特有の日本語の誤りが存在するらしい。

以上の議論から、書紀の内、森氏がα群と名付けた一群の巻は中国語原音に依拠していると結論づける。そして、α群の万葉仮名の分析から上代日本語音価をすべて推定して見せている。さらにアクセントの研究を経て、書紀などの歌謡が当時どのようなアクセントで発音されていたかまで復元しおおせている。ここら辺は、発音記号やアクセント記号が私にはよくわからないので、いまいち実感できないけれど、凄い成果なんだろう。

議論にはまだ先があって、音韻の次は文法の話になり、巻ごとの倭習(日本人ならではの文法ミス)の指摘やその発生の理由などの議論を経、また日本人が書いたとしたら意味が通らない註の存在を考慮し、正しい中国音と正格漢文で書かれた部分が渡来一世の中国人によって書かれたのだと結論する。

そして、その当時正史編纂に関わるような人物で、渡来一世の中国人を捜してみると、律令制当時における大学のようなところで音博士(こえのはかせ)という音韻を教える役職に就いていた、続守言(しょくしゅげん)と薩弘格(さつこうかく)の二人が浮上する。森氏はこの二人が最初にα群の述作をし、その後それ以外の巻を日本人が担当し、さらに日本人による中国の典籍を用いた潤色を行ったという、編修の具体的過程をも推論してみせる。

いやあ、凄い。音韻、文法といったほとんど文字情報しかない状況から、日本書紀がこれだけ立体的な像を結んでいくさまは暗号解読にも似た面白さがある。述作者と編修過程の具体的状況については論拠が少なく、やや安易に結論づけているきらいはあるが、途中の議論の展開は手堅く説得的で、隙がない。少なくとも私にはそう見える。

専門的な知識が逐一解説付きで紹介され、好奇心を刺激されながら、日本書紀中国人述作説にいたる謎解きが展開していくわけで、これが面白くないわけがない。一般向け学術書の理想的な一例といってもいいのではないかと思う。森氏は後書きで、この本を書くために生まれてきたとまで言っているのも、誇張ではないと思える。素人目に見ても、この本で論じられている説は国語学史上の画期をなすようなものに見える。学会的な評価はどうなっているのだろうか。専門誌で他の学者と論争があったようだけれど、それも気になる。

何よりも知的エンターテイメントとし楽しめ、学問の面白さを教えてくれる一冊だ。古代史、古代日本語、国語学などに興味のある人は多少専門的な部分が読みづらいけれども、是非とも一読することを勧めたい。


●倉西裕子「「記紀」はいかにして成立したか」講談社選書メチエ

これも書紀、古事記の成立にかかわる問題を追求した本で、硬派で手堅い論述が読める。やはり専門的な問題を扱っていて、そう読みやすい本ではないけれど、非常に興味深い問題を論じている。

ひとつは、古事記日本書紀では、「天皇」概念に大きな違いがあるのではないかということだ。古事記と書紀では、たとえば神代に関して、書紀本文ではイザナミが死なないので黄泉の話がないとか、創成の神名にかなり違いがあるとか、「記紀」としてしばしば一緒くたにされたり混同されたりしているけれど、基本的な編纂思想そのものに大きな差異があることはずいぶん言われてきていることだった。天智天皇による指示で作られ、成立時期も近いけれど、両者は似て非なるものだ。

本書では、その差異の問題について記紀それぞれの天皇概念の違いというアプローチで一端の解明を試みている。著者が述べる結論はこうだ。

日本書紀』における「天皇」の定義は、皇祖の祖霊を引き継ぎ、神祇・祭祀と関連のある立場であり、一方、『古事記』における「天皇」の定義は、「治天下の権を持つもの」であったと言うことができます。(中略)すなわち、『日本書紀』と『古事記』が似て非なる史書である大きな理由は、両書において「天皇」の定義が異なっており、前者が「あまつひつぎしろしめす」であり、後者が「あめのしたしろしめす」であるからである、という結論を、どうやら導くことができそうです。
P153
つまり、書紀での「天皇」とは皇孫として祭祀王の位にあるもので、古事記の「天皇」とは、政治的権力の頂点に立つもの、として書紀と古事記における「天皇」概念が似て非なるものである、と言う。

これはなかなか斬新な見解。こういう風な解釈をした人はいままで見たことがなかった(と思う)ので非常に面白い。

この天皇概念の整理から、著者は持統朝でのさまざまな問題についてもいろいろ新解釈を引き出していて、とても興味深い。持統称制と呼ばれる、持統元年から持統三年までの三年間は、持統天皇即位式を行っておらず、実質的には天皇不在の年間なのだけれど、書紀の紀年上は持統年間として把握されているという謎がある。この三年のブランクについて、著者は、その年間は草壁皇子が「治天下の権」(正確かどうかわからないけれど、以下略して治世権)を握っており、当時は草壁皇子天皇と呼ばれていたのではないか、とも推測している。そして、このように紀年にブランクが空いた理由を、持統朝と書紀編纂の当時とでは、天皇概念に変更が生じたからではないかと結論づけている。この、在位当時と編纂時で天皇概念に違いが生まれたという問題は、この説がもたらした新たな謎と言える。ここに史書成立にまつわる何らかの事情が絡んでいる可能性を著者は指摘している。

また、書紀では祭祀権こそが天皇の核心だとすると、皇太子が治世権を握っていると著者は論じていて、だとすると、天皇位を譲るということの意味が違って見える。皇太子が治世権を持つものだとすると、皇族の者にとって必ずしも望まれる位ではないものだった可能性が出てくる。そうすると、古代史での権力争いについてもいろいろ新解釈が可能になってくる。著者は持統朝や大化の改新においてその観点からの再解釈を促してもいる。

もう一つの大きな謎、「日本書紀」が成立当初(正確には、「続日本紀」養老四年の記述)は「日本紀」と呼ばれていた、ことと「日本紀」では紀三十巻と系図一巻という構成であった、という書紀成立にまつわる長年の謎についても、興味深い見解を披露している。

この「紀」と「書」というネーミングからしてまず厄介。「紀」というのは編年体史書、「書」というのは紀伝体史書を指す言葉で、日本書紀はその体裁から「紀」と称するのが本来のはずで、「書紀」というネーミングはそもそも妙だった。Wikipediaでの「日本書紀」の項からこれにかんする通説を引用する。

もとの名称が『日本紀』だったとする説と、初めから『日本書紀』だったとする説がある。

日本紀』とする説は、『続日本紀』の上記記事に「書」の文字がないことを重視する。中国では紀伝体史書を「書」(『漢書』『後漢書』など)と呼び、帝王の治世を編年体にしたものを「紀」(『漢紀』『後漢紀』)と呼んでいた。この用法に倣ったとすれば、『日本書紀』は「紀」にあたるものなので、『日本紀』と名づけられたと推測できる。『日本書紀』に続いて編纂された『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』がいずれも書名に「書」の文字を持たないこともこの説を支持していると言われる。この場合、「書」の字は後世に挿入されたことになる。

日本書紀』とする説は、古写本と奈良時代平安時代初期のような近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」など。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』『後漢書』のように全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこでこの説の論者は、現存する『書紀』は、中国の史書にあてはめると『日本書』の「紀」にあたるものとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。

著者はこれらの定説に対して、養老四年に修められた「日本紀」と現存の「日本書紀」は別のものだとする説を提示している。朝廷で行われた書紀の講書記録、「日本書紀私記」のいくつかのバリアントうち、甲本と呼ばれる「日本紀私記」においては、現存「日本書紀」に存在しない語句が約八十存在することが指摘されていることなどを挙げ、現「日本書紀」とは異なる書紀の存在する可能性を示唆する。著者は最終的に、、養老四年の「日本紀」は成立以降に系図一巻を組み込む形で再編され、遅くとも八一三年の弘仁四年までには現存の「日本書紀」として完成していたのではないか、というものだ。その再編で、系図を組み込んだために「書」を書名に挿入した、と論じている(本文はこんなおおざっぱな書き方ではない)。

この説も、説得的かつ面白い。書紀の書名についての謎(特に、書名と系図)をもっとも明快に説明した論、かも。少なくとも、上記に引用した通説よりは無理がない。素人目には面白いけれど、証拠の面で弱いかなとは感じる。

この人は、前著「日本書紀の真実」で日本書紀の紀年論というとても面倒くさそうな分野を扱っている。編年体の歴史書である書紀の年代設定には多くの謎があり、実際の年代との不整合や、長寿すぎる天皇宋書などの中国の史書に見られる「倭の五王」とは実際にどの天皇のことを指しているのか、といったような研究史上未解明の問題などを含んでいる。在野の研究者でなおかつ、地味っぽくて手間のかかる分野で手堅く論証しようとする、なかなか面白い人なのだけれど、書名がちょっとばかりトンデモ臭いところがあって、誤解を招きそうなところがあると思う。「日本書紀の真実」とか、本書の副題「「天」の史書と「地」の史書」とかいうネーミングが微妙だ。後者のは読んでみれば意味するところがわかるのだけれど、最初私が見たときはものすごいうさんくささを感じた。

歴史学の倉西裕子およびその双子の姉妹で政治学の倉西雅子によるウェブサイト
倉西先生のご学問所

近現代史と中世史についての二冊

また間が空いてしまいました。三ヶ月ぶり。感想を書きたい本が溜まってしまっているのに加えて笙野頼子関連も「成田参拝」や「現代思想」などいくつも新しいものが出ていてそっちも溜まってしまっています。以下に紹介する本なんて、十月には読んでいた本だったりするのですが、記事としてまとまったものを書くのが遅れに遅れて、というか、一冊に分量を割きすぎているせいでしょう。暇な時間がとりづらくなってしまって書く時間がないです。

というか、笙野頼子から脱線して日本史、あるいは日本語史をつまみ食いしすぎている気がします。平凡社ライブラリーの大冊「日本語の歴史」は面白くて、三巻目に突入です。たぶん全部読みます。そんなことしてるから三ヶ月ぶりになってしまうのですが。


海野弘「陰謀と幻想の大アジア」平凡社

陰謀と幻想の大アジア

陰謀と幻想の大アジア

海野弘には「陰謀の世界史」という大著があるけれど、この本はそのスピンアウトとして、日本における大アジア主義について書いている。私は「世界史」の方は読んでいないけれど、知人が部屋に置いていったこれを読んでみたところ結構面白い。記述そのものはあまり踏み込んだものではなく、調べながら書いている感じがあるのだけれど、逆に大アジア主義とか戦前の右翼がどうとかの話に疎い私にはちょうどよいくらいだったようだ。

著者ははじめにこう述べている。

満州国は、日本が海外に建設したはじめての国であった。日本は満州国によってはじめて世界を考えるようになった。そこで世界をどのようにとらえるか、世界とどのように対決するかが迫られ、さまざまな説、陰謀史観の温床になったのであった。
P10
これに先立ち、著者は、満州にはヒトラーに追われたユダヤ人を受け入れ、それによってアメリカの資本を満州に出資させ、繁栄させようという計画があったことにふれる。「フグ計画」と呼ばれたそれはアメリカの拒否によって頓挫するけれど、日本はそこではじめて「ユダヤ」と関わることになったという。

ユダヤのみならず、イスラムなどとの関わりもまた、満州を起点にしていると著者は言う。満州が、大陸的なものとのつながりの重要な起点になったという。本書で著者が重要なキーワードとして挙げるもののいくつか、日猶同祖論、アルタイ語起源論、大東亜共栄圏騎馬民族説などは、日本とアジアとのつながりを強く意識したものだ。

しかし、このうちの多くの説は戦後臭いものに蓋をするように省みられなくなってしまう。これらの歴史の記憶が失われてしまったことが、陰謀、幻想として地下に息づくことになる。著者は次のように述べる。

日本近代史の<満州>から<大東亜共栄圏>にいたる十のセオリーを陰謀史観として読み直したのは、それらを否定するのではなく、それらが今も生きていて、わくわくするような面白さを持っているからなのだ。それはあやしげであり、陰謀的であるとともに、私たちを歴史のはるかな夢へと連れ出していく。
P281
だからこそ、それらのセオリーを読み直し、歴史に位置付け直さなければならないのだろう。戦時を東京裁判によって葬ってしまうことで、アジアとの結びつきもまた失われてしまった、と著者は言う。また、曲がりなりにも戦前の日本人が持っていた世界的想像力が失われてしまい、目の前の小さい穴を掘るだけになってしまったのだとも。

この本はそうした、戦前戦中と戦後との断絶を描き出している。歴史が途切れてしまっているために、戦前のセオリーが妙な形で復活したり、大東亜共栄圏などの自大主義な理論を敬遠するあまり矮小な世界だけに閉じこもってしまったりしていると嘆いている。

私が特に興味深く思ったのは日本語の起源と、騎馬民族説を扱った部分だ。

日本語の起源の章では、大野晋タミル語起源説があっさりと否定され、アメリカや韓国の研究を参照して最近の成果を紹介している。(大野のはそもそも方法論的に問題外、というのが有力なようだ。それはここの大野批判1批判2批判3などを見ると何となくわかる)韓国での最新の研究では、失われた言葉である高句麗語の復元が進み、どうやらそれが朝鮮語と日本語とをつなぐリンクであるという説があるそうだ。宋敏の「韓国語と日本語のあいだ」によると、「高句麗語は日本語の疎遠性を南方系の要素として解決しようとする態度をほとんど無力にしうるほど言語的に日本に近い」そうだ。これはなかなか面白い。ただ、この説の学術的評価はいかなるものかはよくわからない。日本の古代はどう考えても中国や朝鮮半島との関係が密なはずなので、オーストロネシアとかアルタイ語族などと直接関連づけるよりははるかに説得的なようにも素人目にはみえるけれど。

騎馬民族の章で面白いのは、学説的にはいまや過去のものとして見られている江上波夫のこの説に対して海野が提出している批判だ。騎馬民族説とは、ユーラシアからきた騎馬民族が四世紀ごろに日本に侵入、征服し、それがいまの天皇家の祖先である、という説だ。考古学的にも歴史学的にもほとんど根拠のない説といわれるけれど、確かに、皇国史観に対するアンチテーゼとしては面白くはあると思う。しかし海野は、江上波夫が近代化は騎馬民族にしかできない、という騎馬民族、農耕民族の二元論を唱えていることを指摘する。日本は騎馬民族系なので近代化できたが、中国は農耕民族なので近代化はできない、と江上は言う。これは一種の差別主義だ。そして騎馬民族説が征服者の視点からの理論であることを指摘し、皇国史観に対するものとして提出された騎馬民族説が実際は征服者の視点から説かれたものであり、近代化できない農耕民族を優秀な騎馬民族たる日本が近代化させてやるという形で、日本の帝国主義を正当化することに、無意識にであれ加担していると批判する。

幾つかの本では騎馬民族説については、過去の学説か、あるいは面白いが賛同できない、というような言及ばかりだったけれど、ここでの批判はかなり考えさせられるものがある。海野は同時に、戦後に提出された騎馬民族説が戦前のモンゴルで発想されたことを指摘している。

戦後、戦前を臭いものに蓋をするようにして、正面から総括することが出来なかったためか、戦前的なものがにわかに浮上してくる。個人的に驚いたのは、ネットでの中国やアジアの国々に対するヘイトスピーチにおいて、騎馬民族説において江上が見せたのと同じ差別主義的言説がいまも現役だったりすることだ。

黒田基樹「百姓から見た戦国大名ちくま新書

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

ほんとうは藤木久志「戦国の作法 村の紛争解決」(なんて面白そうなタイトルだろう)という本を読みたかったのだけれど、もうずっと品切れらしく、そんなおり本書が出ているのを知った。戦国時代、というと支配階級である武将の話ばかりで、直接戦争に関わらない人たちがどのような暮らしを送っていたか、ということはあまり話題にならないしよくわからない。私は戦国武将についてあんまり興味がなくて(全然知らない)、むしろ当時の日常的な生活のあり方がどうだったのかを知りたかったので、百姓を視点に据えた本書の叙述は非常に興味深く読めた。

●戦争と飢饉の時代

この本ではまず、戦国時代とは戦争と飢饉の時代であることを強調する。戦争と飢饉が慢性化し日常となった時代だという。そして、戦争と飢饉のなかで窮乏にあえぐ人々は、当然その改善を大名に要求するわけで、その世直しの声が大きくなって実際に大名の代替わりの契機とすらなることを史料から指摘してみせる。

また、武田信玄の父に対するクーデターについて、当時の史料からクーデター時に甲斐国はかなりの飢饉であったこと、父信虎については動物すらも悩ます悪政と呼ばれ、信玄が救世主扱いすらされており、クーデター後に信虎派の反撃がまったくなかったことなどから、信玄の行動は窮乏に陥った甲斐国の民衆の強い世直しの声に押されたものだっただろうことを明らかにしている。むしろ、ここで世直しの声に従わなければ武田氏の存続そのものにかかわる事態だったのではないかと言う。

つまり、大名とはいってもやはり生産者として国を支える農民、民衆の声を無視できるわけではない、という実に当たり前のことが指摘されるのだけれど、これがなかなか新鮮だったりする。やはり大名、戦国時代などには支配者である大名とその下で年貢の重圧に苛まれる農民、といったようなわりあい一面的なイメージがあったのだけれど、本書はそういった印象を具体的な事例に基づいて丁寧にかつ鮮やかにひっくり返して見せる。

話を戻すが、戦国時代の飢饉というのは江戸後期で大飢饉と呼ばれたようなものがほとんど日常となっていたほどだったという。作物の収穫の端境期ではつねに人の死亡率が上昇し、日々生きるか死ぬかの瀬戸際にあった。そしてさらに、文字通り戦争がたびたび起こっていた内戦の時代でもあるのだけれど、戦争はどこか空中で行われるわけではなく、常にどこかで誰かの領地において戦われていたということを忘れてはならない。ひらたくいえば、どこかに攻め込むということは同時にその領地で破壊行為を行い、作物を奪取する略奪と表裏一体だったということだ。

さらに、足軽たちが戦争に参加することには、端境期に出稼ぎに出ることによる村の口減らしと、侵攻先での略奪で財を得るという一石二鳥の意味もあった。これは大名の戦争にも言える。つまり、収穫期に敵地に侵攻し作物を略奪することや、端境期に人員を送り込んで領内での口減らしを図ることなどが、そもそも大名の戦争の理由にすらなっていたのではないか、と推測される。

飢饉での食糧不足から敵地に侵攻、略奪し、略奪された側は耕地や村を荒らされ、民衆を奴隷にされたり奴隷商人に売り飛ばされ、作物や耕作具を奪われたり破壊されたりすることによって、また飢饉に陥る。戦国時代とはこのような悪循環に見舞われた過酷な時代だった。これがこの著者の提示する戦国時代像だ。

●生存のための共同体

では、人々はその過酷な時代をどうやって生き抜いていったのか。そこで注目されるのが村だ。村とは言っても、自然に形成された人々が集まり住んでいるところ、というものとは違い、領地の占有、構成員の認定、構成員に対する徴税、立法、警察等諸権力の行使を行い、私権を制限する一種の公権力として存在する政治的共同体として形成された村だ。さらには当時の人々は皆武器を持っており、対外的に武力を行使することもあった。そして、村の行動については構成員が全員参加する寄合によって決定される。

これはすでに小国家とも呼ぶべき存在だ。なぜこのような強固な政治的共同体が形成されたかについて、著者は以下のように書いている。

ちょっとした災害によってもたちまち飢餓に陥ってしまうような状況であったため、それこそ災害のたびごとに、農業用水や肥料・飼料になる草木の採取など、生産のための用益をめぐってしばしば争いが生じていた。しかも中世の民衆は、日常的に帯刀していたから、争いは武力をともない、さらに親類・縁者を巻き込んでたちまち集団同士の争いに展開した。
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用益をめぐる日常的な対立が、村同士の関係に多大な緊張をもたらし、ために村それ自体が抗争と防衛のための組織化を必要とした訳だ。

そして、しばしば抗争は周囲の村々を巻き込んで大規模な「合戦」(村同士の抗争もまた合戦と呼ばれた)となっていくことがあった。用益をめぐるいさかいが抗争となり、兵具を用いた抗争に発展していくなかで、同盟関係にある村々へ「合力」を求めるためだ。面白いのはこの合力はただで行われるわけではなく、かなりの額の報酬が支払われている。報酬は村の数年分の年貢に匹敵する額にもなり、借金でまかって何年かかけて返済していく。つまり、用益が生存のためのものである以上、相当の負担を支払っても守らねばならないものだったということだと著者はいう。

だからこそ、合戦は拡大していく。当時の村同士の抗争のなかには土地の領主が調停に現れたりする例が見られる。つまり、領主でなければ仲裁不能なまでに抗争が拡大することがあったということらしい。領主にとっても年貢という収入源であるだけことをなおざりにはできない。だから、中世における「領主同士の合戦と見られたものの根底には、こうした村同士の用益をめぐる紛争があった可能性は、限りなく高い」と著者は論じている。


●大名と村の契約

村にとって用益が、村同士の抗争を引き起こすほど重要だったように、領国を治める大名にも、その国の成り立ちにとって、村がきわめて大きな意味を持っていた。村はすなわち年貢が生産される財源であり、村が豊かであることが同時に国が豊かであることに繋がる。大名もそれは認識していて、農民からの搾取に他ならない華美を戒め、倹約を勧めることが国を豊かにし、戦争にも勝つことになる、と言っている。

年貢の収受、公事の割り当て、法令の施行など、その領国支配において大名は個々の村人と直接交渉するのでなしに、すべて村単位を相手にしており、これを「村請」と呼ぶ。

この「村請」は、村と大名という法人格を持つもの同士の契約だったと著者は言う。支配する側とされる側という社会的、身分的な格差があったものの、お互いが主体となり、互いに相手に対して義務を負う双務的な社会契約だったという。

領主は、村の耕作地としての整備や、資金の貸し付け等を果たすことで、年貢を取り立てる資格を得、また抗争の折りには「合力」し、村の存立、安穏、平和を保障することが課せられる。

対して村は、年貢や公事などの税金を負担する。

この関係は契約である以上、絶対ではなく、たとえば領主が村を防衛しきれなかった場合、村は以前の領主を失格と判断し、侵攻してきたより強い領主の支配下に入り、以前の契約関係を一方的に破棄したりした。また、以下のようなストライキを行うこともあったという。

不作が生じた場合には、相当分の年貢等の減免を要求するが、それが容易に認められない場合、実力で抗議した。村ぐるみで、山野などに逃げ込み、年貢の納入や耕作を放棄した。こうした実力行使を「逃散(ちょうさん)」といい、中世を通じて百姓の対領主闘争の基本的な方法であった。
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適切な対応をとらなければ農民はよそに移動したり、没落したりして、不作発生し、年貢などの収取が滞り、国の存立の危機に瀕する。

国にとっても百姓たちの村の豊かさを維持することが重要であり、それなくして大名自身の安寧もなかった。そのような社会状況のなかでは、上記のごとき領主と村との契約はきわめて大きな意味を持っていたのだろう。


この本が面白いのは、この時代における具体的生存の困難さという前提から、生きるための即物的な必要性の点から、当時の社会のダイナミクスを見ていくという視点だ。飢えた農民の声によって代替わりを余儀なくされたり、飢餓の時期に他国へ略奪に行く戦国大名、生存のために大規模な紛争まで起こす武装した村々等、即物的な俗っぷりが興味深いことこの上ない。

また、後半では戦国時代の地域国家を、御国のための徴用や法制度などの観点から国民国家の原形として見ていくなど、「国家」という視点からも非常に面白い。そこでもやはり即物的な生活に根ざす、経済的な視点があり、おそらくタイトルの「百姓」とはそうした生活にまつわる観点に由来しているのだろう。

戦国時代、人々の日常的な生活はどうだったのか、ということについて、きわめて具体的な生活、経済の観点から論述されていて、非常に興味深い内容だった。歴史はやはり、当時において人々の生活や行動がどういうものだったのかということを知るのが面白い。そこでは昔の人はこうだったのか、というのを知るのとともに、昔からこうだったのか、というのもまたわかる。

法、国家という概念や、「逃散」に見られる労働と生活という視点は、いまでもなお重要な問題であり、それが百姓という生活の起点の場から眺められている本書の記述は様々な意味で現代においても示唆的だ。非常に面白い本です。この本で多く参照されている藤木久志氏や蔵持重裕氏の仕事もそのうち読んでみたいと思う、そのうち。

後半の分国法や喧嘩両成敗法については以下で紹介した「喧嘩両成敗の誕生」も併せて読むと良いかと。
http://inthewall.blogtribe.org/entry6841f1a338b566d629a8896f70af1839.html

2006年 もっとも聴いたCD5枚

本のベストを知りたい人はブログをさかのぼってもらうことにして、ちょっと音楽関連のことを書こうと思う。2006年とか言いながら、今年の新作は一枚だけだけれど。最後の方は文字数制限のせいで駆け足だけれど、IonaについてはボックスセットがHMVから届いたらまた記事を書くやも知れない。

the pillows / MY FOOT

MY FOOT

MY FOOT

このアイテムの詳細を見る結成17年目の通算16枚目になるのか、今年一月に発売された最新アルバム。これは久々に発売日にCD屋に行って買ってくるなんてことをした。先行シングルの「サードアイ」がよい出来だったので期待はあったのだけれど、その期待を上回る充実した出来の傑作だと思う。曲単体、というより、アルバム単位で選んだときには、私は今作をベスト3に間違いなく入れる。「MY FOOT」はそういうアルバムだ。

前作「GOOD DREAM」に比べると、ポップさを前面に押し出した作風だけれど、ただポップなだけではなくヴォーカル山中さわお一流の「ひねくれ」たユーモアとアイロニーが今作の魅力だ。音の面でも、ピロウズ流ズンドコ節などと呼ばれた「ノンフィクション」のリフや空中レジスターの「狙うライフルには宙返りのサービスを」といった歌詞などにそれを見て取れる。出世作にして代表作「Little Busters」では、絶望と孤独がどうしようもないほど深まっていた印象があった(聴いてると死にたくなるような鬱曲「Black Sheep」など)が、それから十年を経て、自身の孤独だとかひねくれた性格だとかを、ユーモアとアイロニーで突き放して、ポップさで聴きやすくくるんで提示できるまでになったのかと思うと、感慨深い。

しかし、ほんとに今作は出来がいい。何が良いかと言えば全体として、一枚のアルバムとして出来がいい。アップテンポの曲もメロウな曲もバラードも、一枚のアルバムのなかでの流れを阻害することなく、自然に次の曲、次の曲へと流れていって、最後まで聞いたときにはすぐさま最初からまた全部聞いてしまう、というような絶妙な構成になっている。時間も全部で41分、と聴き疲れしない長さ(ピロウズのアルバムはいつもレコードに収まるくらいの長さだ)なのもいい。今作では特にツインギターを生かしたアレンジが効いていて「サードアイ」でのインストパートだとか、聴いていて非常に楽しい。気持ちのよい音になっている。

ピロウズというバンドは知名度がかなりいまいちだけれど、曲を聴かせると間違いなくよい反応が返ってくる。とりあえずいままで、ロックポップスを聴く人で、ピロウズを勧めて不評だった例は一度もなかった。ヴォーカルさわおは、オアシス、ニルヴァーナが好きらしいが、同じくそのバンドが好きな知人にピロウズのベストを聴かせたら、結局私が持っているすべてのピロウズのアルバムを借りていったということがあった。

曲として突出して良いものを挙げるとすれば一曲目のタイトル曲「MY FOOT」になる。冒頭のドラムに、印象的なベースラインが絡んできて、ツインギターが左右で互い違いに音を入れてくるアレンジの良さはこれまでになかったような新機軸。歌メロもすばらしく、俺ピロウズ史上相当上位に来る一曲。


「MY FOOT」のライブ。ギターがちょっと粗め。

●Steve Hackett / Please Don't Touch!

Please Don't Touch

Please Don't Touch

このアイテムの詳細を見る世間的には「元ジェネシスのギタリスト」として知られているだろうスティーヴ・ハケット。ジェネシスといえば五大プログレッシヴ・ロック・バンドの一角として、あるいはフィル・コリンズを擁するポップバンドとしての方が有名だろうけれど、プログレとしてのジェネシスにもポップバンドとしてのジェネシスにも私はあまり惹かれない。ハケットを聴いたのは、ジョン・ウェットンイアン・マクドナルド参加のライブアルバム、「Tokyo Tapes」がはじめてで、そこからソロ四作目の「Spectral Mornings」を聴いたところ、これがすばらしく、それ以来少しずつアルバムを集めている。

で、これは1978年発表のソロ二作目にあたる。裏ジェネシスと呼ばれた1st、代表作とされる3rdに挾まれた本作は、多数のゲストヴォーカルを招いて制作されたヴォーカルアルバムとしての側面が強く、ハケットのなかでも特にポップさが押し出された作風で、プログレとしてのハケットを求める向きには不評なよう。

しかし、ヴォーカル曲の出来はすばらしく、またタイトル曲の「Please Don't Touch!」は、ライブでいまだに定番のハケットのインストの代表曲であり、ポップな中にプログレ趣味を仕込んで見せた絶妙のバランスを持った好作品だ。傑作といえば前述の通り1stや3rdかも知れないが、好きなアルバムだし、もっとも回数を聴いたアルバムでもある。

一曲目の「Narnia」はその名の通りナルニア国物語にインスパイアされたという曲。アコースティックギターの跳ねるようなアルペジオが少しずつ加速していってバンドサウンドに突入するイントロの格好良さは格別。アメリカンプログレバンドKansasのヴォーカル、スティーヴ・ウォルシュの歌もすばらしい。
三曲目は、曲調が二転三転するハイテンションなイントロからこれまたテンションの高いウォルシュのヴォーカルへとなだれ込む。爽快感のあるウォルシュのヴォーカルが一曲目に続き好印象。しつこくサビを繰り返したあと、突如アコースティックギターの演奏にかわり、最後にはエレキギターだったイントロのフレーズをアコギで再演して静かに終了する。曲は相当ポップなのにそんな構成がプログレ風。で、そのままハケットのアコギと実弟ジョン・ハケットのフルートによる小品「Kim」へ。ジャケットイラストも描いている妻キム・プーアの名前が付いた田舎の朝を思わせる牧歌的で美しい一曲。ハケットのアコギの代表作。レコード時代のA面最後に当たる「How Can I?」では、黒人シンガー、リッチー・ヘイヴンスがヴォーカルをとっている。

B面はほとんどの曲が前の曲と繋がっていて、メドレー形式になっている。その一曲目「Hoping Love Will Last」にはランディ・クロフォードという黒人女性のソウル、ジャズシンガーをフィーチャーしていて、ソウルフルなバラード。英国のプログレアルバムで黒人歌手がこれほど取り入られてるのはとても珍しいように思う。King Crimsonなんかアメリカ人を入れただけで非難されたというのに。この曲のエンディングからシームレスにインスト曲、千の秋の地に続く。この曲はキーボードがぼんやり鳴っているなかをいろんなSEが挿入されてくるという次曲のイントロ的な役割。この曲で不気味な雰囲気を盛り上げたあと、いきなりドラムが入ってタイトル曲「Please Don't Touch!」。うねりまくる独特のギターにフワフワしたキーボードがかぶさる不気味なパートが繰り返された後、ギターとフルートが絡んでポップで不気味な不思議なパートが演奏される。基本的にはこれらのパートを互い違いに演奏している感じなのだけれど、うねりと浮遊感を演出しまくる独特の怪奇とユーモアの世界観(ジャケットイラスト通りの)がすばらしい。スタジオ盤ではこの曲をぶったぎってまたもや独特のインストが挟まれ、ラストのヘイヴンスのヴォーカルによるバラード「Icarus Ascending」が始まる。これがまた名曲。

また、2005年に再発されたCDにはタイトル曲のライブが収録されていて、これがすばらしい。スタジオテイク以上にハケットがギターを弾きまくっていて、メロディの合間合間にギターをかきむしるような虫の鳴き声みたいな独特のフレーズをはさんで、ノリにのっている演奏が聴ける。ぶつ切りに終わるスタジオテイクよりもこのライブの方を良く聴く。


「Narnia」ライブ。スタジオ版とはヴォーカルが違うので歌の雰囲気が別物に。

Mike Oldfield / Incantations

Incantations

Incantations

このアイテムの詳細を見るマイク・オールドフィールドといえば映画エクソシストに「Tubular Bells」が使われたのが有名で、あのピアノフレーズならたぶん誰もが知っているだろう。また、八十年代のヒット曲「Moonlight Shadow」や「North Point」という曲名を吉本ばななファンなら知っているだろう。


エクソシスト」のテーマ、もとい、チューブラーベルズ導入部のピアノのみ。


マギー・ライリーのヴォーカルによる「ムーンライト・シャドウ」

で、そのオールドフィールドの1978年発表の四作目がこの邦題「呪文」の、レコード時代には二枚組で一面一曲ずつの計四曲、計72分という大作インスト(ヴォーカルパートもあるが)。チューブラーベルズなど初期のオールドフィールドは、一人で多くのの楽器を演奏し、数百回にも及ぶ多重録音で作品を作っていた。また、ベルズはヴァージンレコードの第一号レコードで、これが売れたことでいまのヴァージンがあるという意味でも歴史的な作品。そこから、「Hergest Ridge」「Ommadawn」とレコード一枚一曲の大作を出し、その後にこの、二枚組の初期オールドフィールドの集大成ともいえる「呪文」が来る。

集大成とはいっても、牧歌的でトラッドな、どちらかといえば内向きの作風の初期三部作とは異なり、多数のゲスト(スティーライ・スパンのマディ・プライア、ゴングのピエール・モエルランなど)やストリングス、コーラス隊などを導入し、非常に爽快かつ明朗そして開放的な雰囲気を持っている。

曲を説明するのは難しい。たとえば前に流行った「Image」などの癒し系とくくられたりする音楽の本家というか先祖みたいなところがあり、その手の音が好きならまず間違いなくはまれるとは思う。トラッド、ロック、プログレの融合でもあるだろうし、フルート、ストリングス、コーラス隊の美しい旋律がすばらしくもあり、その反復を繰り返す曲構成は、タイトルのように呪術的な印象もある。フルート、ストリングスだけではなく、キーボードの音もアナログな音が牧歌的な作風にうまく溶け込んでいて魅力的だし、パート2後半でのアフリカンドラムに載せて歌われるマディ・プライアによるヴォーカルのすばらしさはこのアルバムのハイライトで、パート3ではギタリストマイク・オールドフィールドの面目躍如とばかりに弾きまくるギターを聴くことが出来、パート4中盤のヴィブラフォン(オプション付き鉄琴?)による延々と十分近く続く反復フレーズから、ギターのもっとも印象的なメロディへ続く部分は最高にエキサイティングだし、最後の最後に、パート2後半での歌がリプライズしてエンディングに至る部分はいつ聴いてもすばらしい終わり方だと思う。

とにかく、いつ聴いても音色の良さ、メロディの良さ、雰囲気の良さ、ヴォーカルの良さに聴き入ってしまう。大傑作。

●Matchbox Twenty / More Than You Think You Are

モア・ザン・ユー・シンク・ユー・アー

モア・ザン・ユー・シンク・ユー・アー

Santanaの初期アルバムを聴いている時に、前出の知人から、そういやちょっとまえにサンタナが誰か若い奴とやってる曲が凄い売れてたよ、と聞きサンタナのグラミー九部門受賞というモンスターアルバム「Supernatural」収録の「Smooth」を聴き、凄く気に入ったので、そのヴォーカルロブ・トーマスがいるバンドである、このマッチボックストゥエンティの2002年発表の3rdを聴いてみたらこれが大当たり。

このバンド、96年のデビューアルバムが地方のラジオで火がつき99年には一千万枚を突破するほど売れたモンスターバンドで、アメリカ本国での人気はすさまじいものがあるそう。

今作はポップなロックアルバムとして歌メロの良さ、演奏のメリハリも効いていて、とにかくどの曲も水準が高くシングルヒットがねらえそうな曲ばかり、かといってベスト盤のように聴き疲れてしまわない曲ごとのバランスもよい。

白眉は二曲目の「Desease」で、ミック・ジャガーと共作したというこの曲でのメロディに饒舌な歌詞を詰め込むやり方はSmoothみたいで、クセになる。それ以外の曲も、第一曲から隠しトラック「So Sad So Lonely」に至るまで隙のない歌とアレンジでとにかく聴かせるアルバムになっている。

とにかくこれはよいアルバムだけれど、私の評価としてはこのバンドの1stと2ndはあまり評価できない。完成度が段違いだ。1stはいくつかの曲は良いものの(私が聴くのは最初の四曲だけ)、ロブの歌い方が荒々しく私には聞き苦しいし、録音にもあまり金がかかっていない。若々しいといえばいえるが、ちょっと微妙だ。また、2ndでは歌い方、録音、アレンジなどもかなりよくなったのだけれど、肝心の曲のクオリティが低く、このアルバムからは「Bent」と「Bed Of Lies」しか聴かない。そして、ロブ・トーマスのソロアルバムでも、やっぱり曲の出来がばらついていて、3rdほどの完成度はない。

で、3rdでこの完成度なら、次はどうなるのかと思っていたら、バンドとしての活動を休止してメンバーはソロをやっているらしい。そうこうしている間にリズムギターやアコギ担当のアダムがバンドを脱退。どうなるかと思っていたら、27日付けのニュースで、来年に新作が出るかも知れないという情報。さて、どうなるのか。


「Desease」PV

また、オフィシャルサイトでは彼らの全アルバムの全曲がフルレングスで視聴できる。驚愕。
http://www.matchboxtwenty.com/music/

●Iona / Journey into the Morn

Journey Into the Morn

Journey Into the Morn

アイルランドケルティックプログレッシヴ・ロック・バンド、アイオナの95年発表四枚目のアルバム、邦題は「明日への旅路」。イーリアンパイプ(脇にふいごみたいなのを挟んでそれで音を出すバグパイプ)やホイッスルといった民族楽器を駆使して独自のケルティック・ロックを提示したバンドとして、その筋には有名。ケルト音楽といえば、エンヤが特に有名で、エンヤとその妹モイア・ブレナンのいたバンドとしてClannadクラナドが知られているけれど、私はその両者にはあまり惹かれなかった。

たとえばチーフタンズのようにもろトラッドというわけではなく、基本はプログレの影響を受けたロックだ。その点でロックやプログレのリスナーには聴きやすい。

私は四枚目以降、今年出た六枚目までを聴いたけれど、どのアルバムも完成度、楽曲のクオリティ共々非常に水準が高く、優れたアルバムばかりだ。私はこのアルバムで初めてアイオナを聴いたので、これを取り上げたが、基本的にはずれのないバンドだと思って良いだろう。

「progarchives.com Iona」
数曲フルで視聴できる。

佐伯ツカサ寄稿、切通理作著「サンタ服を着た女の子」刊行記念パーティ

サンタ服を着た女の子―ときめきクリスマス論

サンタ服を着た女の子―ときめきクリスマス論

新宿ロフトプラスワンで切通理作さんの『サンタ服を着た女の子〜ときめきクリスマス論』刊行記念の「サンタ女子たちとクリスマス・パーティ」(18日のところ)なるイベントが今夜七時半から開催され、幻視社同人佐伯ツカサが参加するそうです。

この本には佐伯さんもフォトストーリー執筆者として寄稿しており、どうやらパネラーとして出演するもようです。

それで、ついでにということで、先月文学フリマに出した「幻視社第2号」も売らせていただけるようです(それ以外の号はもう残部がない)。つきましては私が途中までは売り子をします。たぶん十時くらいまではいると思います。クリスマスだサンタだという会場で「内臓」って……

というか、このイベント、私はものすごい居場所がない感じがします。サンタもクリスマスもましてやコスプレ。「ときめきクリスマス論」って、なんかすごい気恥ずかしいんですけれども。どうなんでしょう。今から告知して誰が来るのか、という気もしますが、せっかくだし。