「壁の中」から

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「私」の反体制――笙野頼子「羽田発小樽着、苦の内の自由」

すばる 2006年 04月号

すばる 2006年 04月号

木村カナさんが用意してくれた掲示板あるツリーで予告しておいてからずいぶん時間がたってしまったけれど、すばる2006年4月号掲載、笙野頼子「羽田発小樽着、苦の内の自由」について。

わりと近況報告風の身辺雑記にくわえ、自作についての解説めいたものや、夢の話があり、これから書こうとする小説に向けての覚悟を語り、モイラの死を悼み、猫と暮らす。それまでといってしまえばそうだけれど、身辺雑記ではじまったかと思うと夢や幻想の記述や何やらが間断なく繰り出されてくるという笙野文体の独特さで突っ切る感じだ。独特とは言ってもとても落ち着いた筆致で、シャーマニックに突っ走る「おんたこ」の余勢をクールダウンさせるような塩梅になっている。

これは「おんたこ」の舞台裏としても読める。例の創作合評でのあんまりなやりとりに、辛辣な批判をしていて、奇しくも私が以前それについて書いたときと同じような言い方だったりするのが笑ってしまう。まあ、あれは誰だってそういう感想を持つだろう。で、群像新人賞の選考委員を突如変更されたときの騒ぎで、それが騒ぎになる前にどうも文芸家協会に連絡したらしいのだけれど、それはスルーされたという。その理事のひとりがまた例の合評の参加者だったりするところはなんと言えばいいのやら。

まあ、そんな文壇事情はいいとして、今作では「金毘羅」などの近作を貫くテーマについても触れられている。ここで主要な参照先になっているのが前回記事にした義江彰夫の「神仏習合」で、この本が提示する土地の私有と自我の発生という理論には、笙野頼子はかなり共振するものがあったようだ。

もしも現金で買った掛け値なしローンなしに完全所有する家であったとしても、所有とは意識の緊張を強いるものなのだ。その意識の緊張が自我の起源であり、内面の、個の、起源なのだ。律令制が崩れて土地の集積が始まってからずっと、日本人はそのシステムの中にいた。持たざるものさえもたとえば地主になれる可能性を持つという点では、所有という意識から逃れられない。それがいわば自我の、そして宗教心に繋がる自分史の根本なのだ、人は所有によって内面の苦悩を抱え時にはその内面の苦悩を救うために出家までして、既に獲得してしまった内面を守ろうとする。自我とは土地所有にとって始まった心の動きである。
 そんな考えに宗教史の本の中で出会い、自分の人生の共振する部分に重ね、私は「金毘羅」という小説を書いた。ローンを「所有」し猫との関係を「所有」し、成田の光景の中に身を置いた後であった。宗教史と所有の関係性から構造を作った「自伝」である。
神仏習合」にたぶん笙野頼子なりのアレンジが加えられていると思しき記述で、また「所有」というのがこの短篇を貫くモチーフだろうことを示す。この篇ではモイラという猫を失ったことの悲しみが大きな軸だ。「世をはかな」むほどの悲しみ。いなくなったモイラのための「供養」。言ってみれば「所有」の喪失で、このことがこの短篇ではきわめて重要な契機となっている。

命日ばかりでなく、モイラのために買い物をするとモイラが生きているように思える時があった。モイラの玩具はお供えというよりモイラの所有物だった。自我が、所有由来のものであればこそ、このように、モイラの生命が自我がまだあるように錯覚出来て慰められるのだといつか納得していた。モイラが戻るという考えはそこから来たように思えた。
 自我は精神だけの存在ではない。関係は絶たれても関係の延長にあるものは続いていく。唯物論でもなくて唯心論でもなく、権現的な存在として、私は内面の現象を捕らえるようになっていた。
「権現」というのが笙野頼子のなかでどういう意味合いになっているのかちょっとわからないけれど、所有と喪失と自我というものの関係が、ここで提示されている。供養というのは、絶たれた関係のあとに関係の延長を紡いでいくものだ。あるということとないということをつなぐ自我のなかに生きる「私」、ということだろう。

ここから、笙野は次のように書く。

自我とは何かが少しでも判れば、むしろ無常観の中に閉じ込められる。確かに何かを理解したことには喜びがある。自由もある。だがその自由は失うという苦しみの中の自由だった。酷い事だがモイラを失って多くの事が判った。無論、もしモイラが戻って来るのならば。そんなもの捨てる。
無常観、というが笙野は決して無常を観じて終わるわけがない。おそらく、そこからこそ笙野の書くという行為は始められるのであって、そこにはどこか静かな狂気すらある。笙野はこうも書く。

書きたいのは内面を捨てる苦行ではなく内面に埋没する苦行だった。内面を切り捨てた記号的コミュニケーションではなく、内面をすべて「放送」してその中から合う波長だけを受け取ってもらう共振行為だった。私は歌わず、ただごちゃごちゃしたグラフィックな楽譜を書いているのだった。モイラを失った自分の悲しみや生の理由もそこに吸い込まれた。
グラフィックな楽譜という表現は面白い。さらには、こうも。

国家に対抗するには、自分の歴史と自分の内面を、国家が収奪する前にサラしてしまえばいいのだ。
そんな事ができるのはあなただけですよ、と思ってしまった。ただし、内面をすべて放送するというのは、赤裸々に暴露するというものでは決してなく、センセーショナルにでもなく、静かに狂う私を見つめる私というぎりぎりの倫理を伴う笙野風に言えばそれは「苦行」。

全体に落ち着いた、という以上にどこか明澄さを増していくような雰囲気があって、騒動が一段落した状況で、これからやるべきことの試みと覚悟を語っていくところは迫力すらある。そこで語られているのが、「複数の神の声が出てくる私小説を発狂しないで書きたい」という願いだ。権力の捏造による国家神話にかかったバイアスをはねのける試みらしいのだけれど、そこで「複数の神の語り」を「私」との接点を保持したまま書かなければならないだろうと書いている。「金毘羅」でのいわば神の一人称を、さらにスケールアップさせてしまおうというのだろうか。私小説と神話の融合を志しているのだろうか。なにかとんでもないことをしてくれそうだ。

羽田発小樽着、というタイトルは、伊藤整文学賞受賞式に行くために飛行機に乗る際、地元農民と政府との確執から政府の強制代執行による用地買収という経緯を思い、近い成田より遠い羽田空港を選んだということにちなむもの。農民の土地「所有」という今作の重要なモチーフに絡んだ事柄だ。この選択自体、いつか事情次第で自分も成田を使うことになるかも知れないと書き手自身が考えているようにもろいといえばもろい信念でしかないのだろうけれど、そこに「共振」するものを見いだした「私」の抵抗策だ。集団的な政治性によるのではなく、あくまでも自分との身近な関係のなかで体制への抵抗を見いだそうとする笙野らしいエピソードだと思う。そして、身近なだけではなく、そういう抵抗策が自らの身体を貫く神話や歴史への問いかけにも繋がっていくのが、すごいところだ。

リンク
【文芸時評】4月号 作家・藤沢周 「私」が「私」を書く難しさ

 そして、笙野頼子(しょうの・よりこ)「羽田発小樽着、苦の内の自由」(「すばる」)。同じく私小説である。今まで書き続けてきた作品と闘い続けてきた論争、その間に飼い猫モイラを喪い、「私はたった一匹の猫の死を全てを吹き散らす風の世に結び付けた。ペットロスというより、世をはかなんだ」経緯が綴られる。無常観に閉じ込められつつも、哀しみの中から「自我とは何か」に少しでも届いたことを、「確かに何かを理解した事には喜びがある。自由もある。だがその自由は失うという苦しみの中の自由だった」と書くのである。

 書くこと、「私」があること、あるいは、「私」が生まれる以前の「私」とは何か、といってもいい宗教的「自我」の問題を、「滝に打たれるかわりに」書いて掘り起こそうとするのだ。