「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

パソコンが壊れたりして更新が滞りすぎていた間に読んだ本とか。

ところで、笙野頼子の「徹底抗戦! 文士の森」の記事に、小谷野敦様からのコメントをいただき、少々訂正しました。ブログの方でも私の記事にリンクしておられるので、当人に間違いないようです。

http://d.hatena.ne.jp/junjun1965/20050710

小谷野様による笙野批判ですが、上記記事のコメントでも書いたように私は双方の元記事を確認していません。そのうえで書きますが、小谷野様による反論のいくつかには理解できるものもあります(「聖母のいない国」の批判的書評を引用して小谷野批判をすることについての批判など)。しかし、「明らかに大衆作家なのに純文学作家として振舞っている宮本輝高樹のぶ子」を笙野頼子が批判しなければならない理由がさっぱりわかりません。文学の基準の複数性を主張する笙野頼子が、上記の理由で作家を批判するとは思えません。小谷野様がそのようなことを主張しているのに、それを無視している、というのは笙野頼子がたんにそのふたりを批判する理由を持たないからだと思うのですが。

両氏が純文学全体に対する単純化したレッテル張りなどをしたというなら笙野頼子が二人を批判することも考えられますけれども、とりあえず私はそうした事実は知らないので、小谷野様による当該記述は、ただたんに小谷野様の批判基準を笙野頼子も当然採用しているべき、という無根拠な思いこみを前提にしたいいがかりに見えます。

それと、上記記事で私は「前、文學界の落語特集か何か(手元にないので曖昧ですみません)に小谷野様が落語を寄席などで直接聞かなくても論じることはできる、というような趣旨の文章を寄稿されていて、その最後に唐突に「アヴァンポップ」がどうとかいって、落語を知らずに日本文化を語るなというようなことを、揶揄したような調子で書いていたのを記憶しているのですが、ここでは笙野頼子を名を明示せずに批判していると取ってよろしいのでしょうか?」という疑問を提示したのですが、もうお読みになっていないらしく返事がありません。

まことに失礼だとは思いますが、ここは勝手に、小谷野様は、笙野の小説やエッセイに彼女が京都にいた頃寄席などに通っていたという記述や何代目かの桂春団冶のファンであるというような記述などの「ウラをとら」ずに、思いこみで笙野頼子を落語を知らないのだと批判したと思いこむことに致します。(調べてみたら私が読んだのは、文學界2005年9月号の「落語を聴かない者は日本文化を語るな」という記事だった模様。いまだ私は再読しておりませんのでこの記述は誤解に満ちたものである可能性があります)

では、本題。

柄谷行人「世界共和国へ」岩波新書

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

岩波新書リニューアルの第一号。近所の本屋でかなり早めに本が減っていったのを目にして、柄谷行人初の新書書き下ろし(たぶん)ということもあってか、かなり売れてるんだと思った。

私は柄谷の本というのは、「日本近代文学の起源」、「内省と遡行」(これはさっぱりわからなかった)、「反文学論」と、「増補漱石論集成」を拾い読みした程度で、最近の動向などさっぱり知らなかったのだけれど、この本はかなり面白かった。以前、萱野稔人の「国家とはなにか」について書いたけれど、あの本は暴力という観点から国家を分析したものだけれど、柄谷のは経済、つまり交換ということを起点にして、歴史的かつ理論的に近代国家形成の過程を追っていく。

以前kawakitaさんたちと、労働、交換といったことについて議論をしたけれど、(本ブログの2006年3月頃の記事を参照)そのときの関心と見事に重なるので、より面白く読めた。

明晰かつコンパクトにまとめられた近代国家形成の歴史として、非常に興味深い本。

ただ、タイトルにある「世界共和国へ」という彼のプラン、武装を放棄する憲法九条を擁護し、国連のような国際組織に主権を委譲することで、国家間の敵対状態を解消する、というカントに基づくらしいプランは、やはりあまりかなえられそうなものには思えない。新聞でのこの本の広告で、柄谷行人は、絶望することはない、進むべき道は見えているのだから、というようなことを語っていたけれど、採用すべきプランがそれしかない、ということをかなり説得的に語るこの本を読むと、そのプランの実現可能性を考え落胆するしかないような気がしてしまう。


仲正昌樹「分かりやすさの罠」ちくま新書

アイロニーという概念をめぐって、哲学の歴史やロマン派の批評理論を紹介するところなどは非常に勉強になる。思想系だとたいがいフランスに偏るものだけれど、これはドイツ系の議論を重点的に扱っていて、面白い。これまで仲正氏のものは新書ばかり読んでいて、きちんとした理論的な本も読んでみようかなと思って探してみると、どれもかなり高いものばかりで諦める。

理論的な本論の部分については確かに面白いのだけれど、それ以外の部分には結構疑問符が付く内容ではある。右と左の二項対立について語るのはいいのだけれど、そこで批判的に例示されるのが左のみであることとか、本文中での自分の言説に対する批判への過剰な攻撃性など、どうにも妙だ。というか、新書ではすでに2ちゃんねるのことはなんの説明もなく使っていいものになったようだ。

以下、この本の「語法」について批判的に私の感じたことを書く。書いていてかなり批判的になってしまったけれども、この本の理論的な部分は整理されていて明晰で面白いので、興味のある人はどうぞ。少なくとも、後述する北田暁大の本よりは私には楽しめた。

純化して要約すると、ある人の言説がその形式において語っている内容を裏切っているというアイロニーを批判するのが、自分の批評なのだと説明する本なのだけれど、この本に通底する左翼批判を読むと、著者自身が右左の二項対立に嵌っているではないかと思えてしまう。

しかし、だからといって右に利する言論だと批判するのは狭量というもので、左翼、リベラルにとっての口に苦い良薬として考えればいいとは思う。それでも、座談会に出席したときは変なことはいわなかったけれど、雑誌になったときにそのときいわなかったことを付け加えられたのであたかも自分が八木秀次の主張に同意したようになっている、というようなことを仲正氏はどこかのブログ述べていたけれど、その八木を本書ではほとんど批判していないというのはどうなのか。生き生きしている左翼は批判するけど、生き生きしている右翼は論外、ということなのだろうか。八木こそ、「生き生き」とジェンダーフリーをバッシングしている人に見えるのだけれど。

それとは別に、ここで仲正氏が主張しているアイロニー的な批評、というのは一種の語法批判だと言っていいのではないかと思う。このやり方の最大の問題点は、中心的な議題についての議論を棚上げにして語ることが可能だと言うことだ。仲正氏は、分析対象の「直接的意図」を「必ずしも真に受けなくていい」ことが、アイロニー的批評の「メリット」だと書いている。

しかし、これは誰にでも何がしかを語ることを可能にさせる方法でもある。私は、そうした形でなされる議論は正直不毛でしかないと思う。何について論じられているのか、ということを棚上げにして論じ方だけを問題にするやり方は、一定の効果はあってもそれ以上のものではないと思う。何をどう論じるのかとか、その事例を語るのにその語り口は有効かどうか、といった視点から語るならまだしも、論じられている当の主題を無視することを「メリット」と語ってしまうような批評的態度なるものには、とうてい賛同できない。それって結局2ちゃんの煽り合いみたいなものにしかならんじゃろ。

また、この本自体が、右左の語り方だけを問題にしてしまっているという点で、仲正氏が批判しているはずの右左の対立軸を強化しているようにも見える。

ここで思い出すのが高橋秀実の「からくり民主主義」だ。この本ではメディアによる二項対立に疑問を持った著者が、その現場に赴くことで、メディアでなされる二項対立の虚構性を、具体的な事実の提示によって批判していく。実際の問題というのは、容易に右左の対立に回収されるようなものではないということを示すそのルポは、左右の二項対立を超えたところで問題を再設定すべき状況の存在を強く印象づけられた。

あ、ジェンダー関連で言えば、赤川学「子供が減って何が悪いか!」(ちくま新書)なども、アイロニー的批評でありつつ問題を具体的に再設定する優れた仕事だと思う。

これと対照的な例が内田樹で、彼はメディアやら本やらからの断片的な情報を元に、アクロバティックな仮説をぶちあげて物事を論じることがある。そしてしばしば語法をつつくことで仮説を立てることが多いのだけれど、そういった断片的な情報の語法批判、という手法がいかにでたらめな議論を導いてしまうのか、ということは以前にしつこく書いたので繰り返さない。内田氏については、仮にも学者なら、自分が何について語ることができ、何について語ることができないのか、という最低限の倫理くらいは持っていてほしいと思うだけだ。内田氏のように妄想で対象を論じたりしない分、仲正氏はまともだ。

内容にかんする吟味を欠いた語法批判というのは、内田樹的な何に対しても何かがいえてしまう、つまりは何の意味もない言論になりかねないのではないかと思う。

仲正氏は、対立軸の固定ぶりを批判するものの、その対立を生み出している当の論題(ジェンダーフリーなり新自由主義なり)について全く触れずに論を進めているせいで、それこそ傍観者が嫌味で口を突っ込んでいるだけのように見えてもおかしくないような議論をしているのではないか。そういった態度が「右傾化」と批判されたのであって、単に鼎談に出席しただけで、とか、左翼連中の語り口を批判しただけで、批判されたのではないんじゃないか。

私としては対立軸を構成する論題についてきちんと論じることで、その対立軸の無効性を証明するような議論をしてほしいのだけれど。

そもそも、アイロニー的批評は「自分の立ち位置」を見直す契機になるというようなことを書いているけれども、そのアイロニー的批評を仲正氏自身にも適用しているようにはあんまり見えない。自分を批判する人たちの知性を少なく見積もったような批判の仕方や、2ちゃんねるやブロガーたちへの「ワン君」がどうとか「パブロフの犬」だとかのレッテル貼りなどをみると、そう思う。

というか、仲正氏は「生き生き」批判だとか、「二項対立」批判だとか自分の態度を普遍化したり正当化したりしないで、単に私は左翼が嫌いだから批判するのだ、とでも言えばいいのに、とは思う。そうでもなければ、メディアリテラシーと言って自分の態度を中立的だと装いながら、批判するのは朝日新聞だけ、みたいなネット右翼とどう違うのか。


北田暁大「嗤う日本の「ナショナリズム」」NHKブックス

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

この本の著者が上記の仲正氏と対談イベントを開いた後、ブログ上でかなり騒ぎになったのはある程度見たけれど、問題の八木秀次小谷野敦仲正昌樹の鼎談記事というのは読んでもいないので、よくわからない。

この本自体は、七十年代の連合赤軍事件の「総括」を起点として、ここ三十年間の「反省」の歴史を概観するというもので、著者によると八十年代論でもあるとのこと。しかし、私にはよくわからない。そもそも、出現する固有名詞のほとんどが私には縁がない。同世代的にはいろいろ思うところもある本なのだろうけれど。

この本は一種の2ちゃんねる論でもあって、2ちゃんでのやりとりなどに見える「右傾化」はアイロニー・ゲームのなかで偶然的に選択されたものでしかない、という感じの議論を展開していて、それは確かにそうなのだろう。時代が時代なら、2ちゃん的な場で「左傾化」が生じたかもしれないとはいえる。だから、「右傾化」を思想問題として論じることは意味がないというのは私も思う。

ただ、私はこの本での議論より、笙野頼子の近作での分析の方に説得力を感じる。笙野の「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」や「だいにっほん、おんたこめいわく史」等で展開されているモチーフの一つは、「傷つきたくない男たち」とでも呼びうる男たちについての分析で、この分析は2ちゃんねるについても非常によく当てはまるものだと思う。

右翼的な言辞を弄する人たちというのは、思想としての保守などではなく、たんに自分たちが批判されるというのがいやなだけで、だからこそ戦争犯罪の数々を虚構なのだと主張したりするのではないか。朝鮮、韓国、中国などへの反感というのは、加害責任を問われるということそれ自体を、「被害」だと感じることから生まれたものでしかないのではないかと思う。笙野頼子が分析するのは、そういった、加害当事者でありながら、自分を被害者だと自称することで自分の行為を正当化するメンタリティでもある。

まともな紹介としては以下を参照。

梶ピエールのカリフォルニア日記。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050331
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050410
吟遊旅人のつれづれ
http://blog.livedoor.jp/pipihime/archives/24789051.html

梶さんが、「2ちゃんねるシニシズムによる「悪意あるツッコミ」は、一件脈絡がないようでありながら、「朝鮮人」「中国」「部落」「戦争責任」「フェミニズム」といった、80年代的なアイロニズムの雰囲気の元では「重過ぎる」として言及が避けられる傾向にあった「社会的弱者」あるいはそれをめぐる「学校民主主義的」言説への違和感」がある、と書いている。

「学校的民主主義」は措くとして、上に書いたように、「社会的弱者」への攻撃が激化するのはわりと単純にそれが自分たちを責める存在だからだろうと思う。もっと言えば、何かしらの異議申し立てそれ自体への嫌悪。申し立てる、というか、申し立てられることへの嫌悪、と言い換えた方がいいかもしれない。

左翼的な言説、というのは基本的に社会的弱者の救済という側面がある。そこで問われるのは普通の社会に暮らしている「われわれ」が、その日常のなかで何かの抑圧に荷担していないか、ということだ。しかし、たとえば戦争犯罪などに関して言えば、一国民として応答するという形での右翼的言説もあり得るはずなのに、そうではなく、犯罪事実そのものの抹消を志向するのが2ちゃんねるで、彼らは責任を問われたくない以上、右にしろ左にしろ、一貫した思想を持つ、というような主体的選択をするわけがない。そういう選択には責任がつきまとうのだから。

また、2ちゃんねらーが攻撃する話題から、彼らの自画像もまた見えてくる。彼らが攻撃するのは、自分たちに責任を問う自分たちでない人たちであるのだから、朝鮮人でも、在日でも、障害者でも、左翼でも、また右翼でもなく、女でもない、『「普通」の男』というのがちゃねらーの自画像なのだろう。

笙野頼子の分析というのはまったく妥当だというしかない。


高原基彰「不安型ナショナリズムの時代」洋泉社新書y

日本の「右傾化」の構造的分析としてはもっとも説得力がある、かもしれない。この本での議論の主眼は、日本、中国、韓国における経済問題、あるいは雇用問題からくる、若年層の不安だ。

日本でもフリーター、ニートといった言葉で語られるように、雇用の流動化が激しくなっていて、会社主義の年功序列の安定した生活というものが幻想でしかなくなってきたことが言われている。正社員の数をどんどん減らしていき、流動雇用人口を増やすことは経済界の要請でもある。その中では個人個人が競争のただ中に放り込まれ、自分自身の能力によって糧を得なければならなくなる。

そのような状況下で、若者たちは先行き不透明感を持たざるを得ず、その不安感が、高度成長期の総中流の過去の日本というノスタルジックなナショナリズム的心情に回収されているというのが著者の分析。

その状況は日本だけにとどまらず、中国、韓国の経済事情にも触れているところが面白く、各国の若者をめぐる状況を、通俗的な若者論に陥らずに論じている。各国ともに、グローバル化などの影響もあって、雇用の流動化が非常に顕著に現れているという。本書の議論は、経済、雇用の側面からみた三国の歴史的状況のなかで、若者がどのような現実に立ち会っているのか、ということの分析で、ナショナリズム問題というのはいわば傍論としてある。

本書での、「右傾化」自体を批判するのではなく、若者が陥っている経済的苦境にこそ目を向けなければならないという見解には同意できる。しかしこの本では「右傾化」現象を若者のものと考えている節があるけれど、はたしてそれはどうか。

また、「右傾化」する若者たちは自己疎外に陥っているというようなことを著者は言っているけれど、それで思い出すのは、外国人による犯罪が増えている、と騒いで日本を外国人から守らなければならないというようなことを主張する人を見かけるけれど、安価な労働力を調達するという経済的な要請のうえに外国人が求められているのであって、もし「国益」という言葉を使うのなら、外国人排斥というのは明らかに政府やら経済界やらの「国益」に反する主張だなあ、と思うことがある。これがアイロニーってやつですかね。