「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

日本の中世についての三冊

最近読んだ本がちょうどよく日本の中世について、宗教、政治、法それぞれの角度から見たものだったので、まとめて紹介。

佐藤弘夫「神国日本」ちくま新書

神国日本 (ちくま新書)

神国日本 (ちくま新書)

日本中世思想を専門とする著者による、古代から近代にかけての「神国」思想の変遷の歴史を概観する思想史。

古くは「日本書紀」「古事記」での神功皇后新羅遠征の下りに見える「神国」が、時代ごとにいかに変容していったかをたどっていく。具体的には、昭和の「国体の本義」などがその「神国」概念の基礎に置く北畠親房の「神皇正統記」(ジンノウショウトウキ・atokで一発変換!)を読み直すことで、近現代のウルトラナショナリズムの旗印ともいえる「神国」が、じつは南北朝期、中世社会のなかでは、むしろ仏法という普遍を前提としたインターナショナリズムにつながるものであるという、一般通念を覆す結論を提示する。

この本の存在は以下のbk1でのブルース氏による書評で知ったのだけれど、なるほどとても面白い本だった。

「日本史上に大きな影響を及ぼした「神国日本」思想を斬新な切り口で考察!」

基本的な内容については上記リンク先を参照してほしい。本書のだいたいのアウトラインは押さえてあるので。

で、佐藤氏は中世の思想、とりわけ神仏の関係についての研究が専門であるらしく、本書での核心は、中世の神仏習合によって生まれた世界観にある。

通説では、仏の教えが効力を失い悪人が跳梁するという「末法」思想と、須弥山を中心とする仏教的世界観のなかでは日本など辺境の小島(辺土粟散)にすぎないという自己認識とが中世期の社会に広く共有されており、「神国」思想とは、そういった末法辺土の悪国であるという「仏教的劣等感」を「神道的優越感」によって克服するために説き起こされたもの、とされていた。

ここでは、神道と仏教とが相対立するものとして捉えられている。しかし、佐藤氏はこの二者は逆接するものではなく、順接するものとして捉え直す。つまり、末法辺土だけど神国、なのではなく、末法辺土だから神国である、と見る。つまり、末法辺土という自己認識こそが「神国」思想の根拠として存在すると論じる。

そこでキーになるのが中世の神仏習合の中核概念、本地垂迹説だ。それは日本にいる神々は、仏教での様々な仏が神の姿を借りて現れた権現であるという世界観だ。アマテラスの本地仏大日如来であるとかいうのがそれで、ここで、神道と仏教とがひとつのものとして形成される。

佐藤氏は、「神道的優越感」の表れであるはずの「神国」を主張する「神皇正統記」に日本を末法辺土だとする記述があることを指摘する。それではこれまでの通説に従うなら矛盾としか考えられなくなる。そこで、神仏習合本地垂迹説が意味を持ってくる。佐藤氏は中世での「神国」思想というのは、神仏習合的世界観のなかで、日本が末法辺土であるからこそ、仏が神の姿を借りて現れるのだ、という認識であったということを指摘する。

中世において広く共有されていた本地垂迹思想においては、神仏は基本的に同一の存在であり、そこでは「神国」と「仏国」とは排斥しあうものではないという。

インドや中国が神国でなかったのは、仏が神以外の姿をとって現れたからだった。/現実のさまざまな事象の背後に普遍的な真理が実在することを説くこうした論理が、特定の国土・民族の選別と神秘化に本来なじまないものであることはいうまでもない。中世的な神国思想の基本的性格は、他国に対する日本の優越ではなく、その独自性の主張だったのである。
P196197
本地垂迹思想を前提とした、仏と神との習合は、仏法という普遍性を獲得し、一国の絶対的優越を説くものでは全くなかった、というのが本書での重要なポイントだろう。しかし、中世的な世界観の後退にともない、本地垂迹思想は「神国」概念の根拠ではなくなっていく。幕末の対外危機が国家意識の高まりを生み、朝廷政権がそのバックボーンとして天皇を担ぎ上げ、神の末裔としての天皇が、神国の根拠となり、そこから仏教的影響が切り離されることになる。そして慶応四年神仏分離令が出され、それまでむしろ仏教こそが支配的だった日本の宗教体系が、一挙に神道色に染められることになる。

最初にあげた通説で、仏教と神道とが相対立するものであるという認識が前提となっていたけれど、おそらくそれは明治以降のきわめて近代的な観念なのではないかと思われる。本書で天皇すら、即位において仏教的な儀式(即位灌頂)をしていたことが指摘されたように、中世において神仏の境界はかなり曖昧だったようだ。

「神国」概念の洗い直しとして興味深いのとともに、中世期の神仏習合を知る上でもかなり面白い本だと思う。この著者のほかの本もそのうち読んでみる予定。


今谷明「室町の王権」中公新書

室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

上記でリンクしたブルースさんの書評でも指摘されていたように、中世においては天皇は神孫として君臨したわけではなく、大寺院などとそれほど違わない存在となっていたという。

天皇はもはや国家そのものではなく、支配体制(荘園制支配)維持のために、国家を構成する諸権力によって祀り上げられた存在だった。より端的にいえば、中世の天皇は国家体制を維持するための非人格的な機関であり、手段にすぎなかった。
P178
この本では、天皇を廃絶し国王になろうとした足利義満の王権簒奪計画を叙述している。

元々、実権は武家が握っており、天皇は形式上将軍職を任命したりするという権威ではあったけれど、それはほとんど名目上のものだった。しかし、義満は、その形式においても自らが天皇よりも上に立とうとしたという。

本書では上述の叙任権をはじめ、祭祀権や元号改元への関与といった国内の権限を掌握していくのとともに、明の冊幇体制にはいることで、「国王」位を対外的に認めさせるなどの方策が、義満の地道な王権の簒奪計画であった、と論じていく。

じっさい、祭祀や儀礼の場などで、天皇の権威がどんどん低下していき、朝廷の人間までもが天皇をないがしろにし、義満の方をばかり向くようになる過程などが語られていて、説得力がある。

「今谷明.権力から権威へ」

上記リンク先によると、この本のタイトルは本来、「室町の天皇」であり、王権簒奪は皇位簒奪でなければならないのに、出版社の自主規制で、著者の意図は通らなかったようだ。

上記ページの下の方にあるのだけれど、本書へのコメントで、義満がこれだけやっても天皇を廃絶できなかった、ということは、天皇の権威がいくら下がっても大丈夫なほど天皇制という制度(レジーム)が強靱である証拠、というのがある。権力がなくても、権威がなくても、天皇制は存続してきたということだろうけれど、では、なぜ制度としてそれほど強いのか、という問題がある。まあ、これこそ日本史最大の謎、という訳なんだろう。この本を読んでみると、なんとなく、自己の権力の正当化を自身によってではなく、天皇という機関に担保させるという、権力と権威の分立がいい感じに相互依存してたんかななんて思いますね。


●清水克行「喧嘩両成敗の誕生」講談社選書メチエ

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ)

これもまたブルースさんの書評で興味を持った本。ブルースさん、ありがとう! 面白いよ、これ!
簡潔に紹介しているブルースさんの書評。
「喧嘩両成敗という独特な法が生まれた背景を探る興味尽きない歴史書」

これ、裏表紙の煽り文が秀逸。

「中世、日本人はキレやすかった!」

と、冒頭で、金閣寺北野天満宮との間で、数人の死人を出し、時の権力者足利義教が出張ってくるほどの大乱闘事件が発生したことを述べるのだけれど、その原因は立小便を笑われたことだという。そのほかにも奈良の町の人混みで遊女に「比興の事」を笑われた田舎人が、その遊女はおろか遊女屋の主人まで殺害し、切腹して果てたうえ、その田舎人の支援者たちが奈良に大挙し、かなりの死傷者を出すほどの騒ぎになったことなどを挙げていく。著者はここに室町人の強烈な名誉意識と自尊心を見て取っている。

また、すぐ切れるというわけではないとして、敵討ちの事例にも触れている。幕府が定めた御成敗式目では禁止されていたが、一般的には容認されていた、むしろ、敵討ちを主張することで罪が軽減される傾向すらあったことが指摘される。そして著者は当時の法慣習について、こう述べている。

中世社会には武家法や公家法・本所法といった公権力が定める法が存在したが、その一方でそれらとは別次元で村落や地域社会や職人集団内で通用する「傍例」や「先例」「世間の習い」と呼ばれるような法慣習がより広い裾野をもって存在していた。しかも、それらの法慣習には互いに相反する内容が複数並存していることも珍しいことではなく、人々は訴訟になると、そのなかからみずからに都合のよい法理を持ち出して、自分の正当性を主張し、「〜と号する」のを常としていた。現代の「法治国家」から見ればアナーキーというほかない実態であるが、そうした多元的な法慣習が、公権力の定める制定法よりも遙かに重視されていたのが、この時代の大きな特徴だったのである。
P40
著者はさらに、当時のさまざまな紛争の事例を挙げていく。

これはいまでも了解しうることだけれど、当時、遺言を残して切腹することが究極の復讐法として採用されることがあったということが語られている。不満、遺恨の表現手法の一つとして、切腹がしばしば行われていたという。ここに、著者は、強い名誉と自尊心とがあることを指摘する。誇りや名誉は命より重いわけだ。

この誇り、名誉意識が、集団同士の争いが激化する原因としても考えられる。室町時代にしばしば起こった、集団同士の激しい復讐合戦は、このことと関連している。

著者はほかにも、当時の興味深い慣習をいくつも例示している。

ひとつは落ち武者狩りで、敗走した武将が荘民などによって略奪、殺害されることがしばしば起こっていた。室町幕府最後の将軍足利義昭も信長に京都を追放されてから、落ち武者狩りにあい、没落していった。この落ち武者狩り、当時において白昼堂々と、当然の行為として行われていたのだと、著者は指摘する。室町幕府の側も、比叡山の僧を見つけたら具足などをはぎ取るべし、などと近隣の村々に指示し、落ち武者狩りの慣習を利用して、敵対者の一掃を図ったりしていた。明智光秀が秀吉に敗れたとき、近隣の村人による落ち武者狩りにあい、命を落としたときも、裏には村々への落ち武者狩り指令のようなものが出されていたという。

ほかにも、都において大名が失脚したりしたとき、その屋敷に人々が押し入って金品を強奪すると言うことが、しばしば起こった。ひどいときには、失脚間近の大名の屋敷に、待ちきれずに白昼堂々と押し入ってしまうことすらあったという。さらに、当時の流罪というのが、流刑地までのあいだに、かなりの場合途中で殺害されてしまうことは常識であり、流罪というのが、権力自らが刑を下さないだけでほぼ死刑と同義であったということなどが語られる。

著者はこうした興味深い事例などを挙げつつ、室町幕府が、制定法による「公刑」を実現しようとしていたのと平行して、当時の自力救済の「私刑」も取り込まざるを得なかったことを示す。

中世社会においては、こうした形で法治主義とは異なる仕方で動いていた。

著者は喧嘩両成敗の下地になるものとして、次のような例を紹介している。

ある酒屋が、妻と密会していた男を「妻敵討ち」として殺害する事件が起こった。そのとき、その密会していた男というのが、赤松という侍所の被官であった。赤松が部下を殺されたことで、その酒屋に対する復讐をしようとしたが、その酒屋にも幕府重臣がバックについており、復讐を断念せざるを得なかった。しかし、収まらない赤松氏は室町殿、足利義政に訴え出ることになった。そこで採用されたのが以下のような判例だった。

――妻敵を殺害したうえで、一緒に自分の妻も殺害してしまえば被害の程度は同等となる。それ以外(赤松の言うように)本夫自身を死罪にして被害の程度を同等とするというのは、道理にはずれている。」

 彼ら法曹官僚たちは、けっきょく、当時の「常識」を曲げて妻敵討をした者を処罰することはできなかった。しかし、かといって「殺害の科」を見逃し、被害者側の感情を無視することは、もうひとつの「常識」からもできなかった。結果、彼らが独創したのは、妻敵討をした者は一緒に姦通をした自分の妻も殺害するべきだ、そうすれば加害者側も一人の愛する人間を失ったことになり、被害の程度は対等になる、という驚くべきものだった。
 なんといい加減な、そして、なんと女性の生命を軽んじた意見か。私たちなら唖然となるこの法曹官僚たちの「意見」は」、しかし意外にも、当事者たちには抵抗なく受け入れられるものだった。この判決に赤松側は納得し矛を収め、酒屋側は後日、妻を処刑してしまい、この事件は案外あっさりと一件落着となっている。それどころか、この幕府官僚たちの「意見」は、その後の類似事件を処理する際の「法式」として受け継がれ、なんと江戸幕府も三〇〇年間にわたり妻敵討に対する規範として、姦夫と姦婦二人の殺害を義務づけることになる。けっきょく、このときの室町幕府の判断は、形式上は明治時代になるまで、我が国で効力を持ち続けたのである。

P112113
ここで重要なのが、同等、という考え方でありこうしたバランスの取り方が広く共有されていたらしい。これを法制史的には「衡平感覚」や「相殺主義」というらしいが、当時としては「相当(アイトウ)の儀」などと呼ばれていたようだ。

この認識は、加害側も被害側と同等のダメージを負うべき、として復讐の論理にもなったけれど、復讐の行き過ぎを戒めるものとしても機能していた。さらに、ハンムラビ法典での有名な「目には目を」というのが、最近の研究では「受けた損害以上の報復を相手に加えることを禁ずる意図のもとに定められたものである」とするのが通説である、と紹介し、このような同害報復原則が、過剰報復の抑止でもあったと著者は言う。

喧嘩両成敗法の基盤というのは以上のようなものととりあえずはいえる。これ以上はちょっと長くなりすぎるのでやめる。重要な示唆として、戦国時代の分国法のなかでの喧嘩両成敗法には、相手の攻撃に対しての復讐を抑止する意味があったという指摘がある。復讐の連鎖を止めることが、この法の意義の一つだった。

本書は喧嘩両成敗そのものの研究と言うよりは、中世社会におけるさまざまな紛争とその解決手段がいかなるものであったかということを論じたもので、中世の奇妙な慣習の数々を実例を多数交えて解説していて、法の歴史としても、日本中世の社会状況の描写としても、非常に面白い。単一の法が支配する法治国家以前の社会で、いかに紛争当事者たちを納得させるか、という方策として、喧嘩両成敗法が民衆からも支持されていた、という指摘などは非常に興味深いものだ。当時の人々の名誉意識に照らして、どちらかが非とされることは、むしろさらなる紛争を生みかねなかったということだろう。当時としては合理的な暴力のコントロールだったんだろう。

しかし、喧嘩両成敗というと、「調和を重んじる日本人」などというイメージがついて回っているけれど、そうした形での「調和」は、なんらかの事件があったとき、被害者側にも落ち度があったはずだ、という認識にすり替わることがある。著者もメディアの報道状況について危惧していて、喧嘩両成敗的な認識がいまでもそういう形で根付いているとすれば、その「負の遺産」はあまりに大きい、と述べている。本書にも、喧嘩を起こしたこと自体を「穢れ」として喧嘩両成敗的措置を下した例が紹介されていたが、この場合の「喧嘩両成敗」と「調和」というのは表裏一体のものだろう。


ひとつ、本題以外で面白かったのは、日本では当然のように行われている、交通事故での過失相殺というシステム、これは日本と制定当時(1882)はオーストリアにしかなかったかなり珍しい制度だそうだ。