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死に過剰な意味を与えようとする「死の哲学」の批判のために――小泉義之「病いの哲学」

病いの哲学 (ちくま新書)

病いの哲学 (ちくま新書)

●病いの哲学

「病いの哲学」といわれてもぴんとこないと思う。なので、著者が「病いの哲学」に対置している「死の哲学」の方から見てみる。

死に淫する哲学は、末期の病人のことを、死ぬこと以外になす術のない、死ぬしかない人間と決め付けている、治療不可能と宣告しさえすれば、善をなす他者の手によって死を与えること以外に、何も為すべきことも考えるべきこともないと決め付けている。だからこそ、死ぬことに意味を賦与したがる。
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著者は「死の哲学」とは「死に淫する哲学」であり、死に過剰な意味づけを与えようとする哲学であるとする。ここで著者がとっているスタンスはきわめて明確だ。それはあらゆる場面での生の肯定、立岩真也風にいえば「生の無条件の肯定」ということになる。

「死の哲学」が死に過剰な意味づけをあたえるとき、そこで毀損されるのは生だということが肝要だろう。「死の哲学」は、生を高次元の生と低次元の生とに分割し、低次元の生を、尊厳ある死よりも下に置こうとする。病人の悲惨な生より、選ばれた安らかな死を称揚する。それが「死の哲学」であり、つまりこれは「尊厳死の哲学」でもある。

犠牲の構造は、死へ向かうこと、死なないで生きていることを無意味と決め付け、あっさりと、ある種の人間を死へと廃棄してしまう。その残酷な過程はさまざまな幻想や言動によって飾り立てられている。例えば、「死ぬ権利」「死ぬ自由」をとってみる。死ぬ権利に対比されているのは生きる権利ではなく、権利を喪失したと見なされる生、すなわち、ただの生、低次元の生、生き延びるに値しない生である。だから、死ぬ権利の行使を主張することは、必ずや、そんな生を死へと廃棄することを含意する。他方、死ぬ自由に対比されるのは、生きる自由なのではなく、自由を喪失した生を生かされる不自由である。だから、死ぬ自由を主張することは、不自由な生を死へと廃棄することを含意する。
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しかしこれはおかしい。立岩氏だったか著者小泉氏だったか忘れたけれども、ある人はこう言っている。低次元の生、悲惨な生があったとき、それと対置されるべきなのは尊厳ある死ではなく、高次元の生であるはずだ、と。この言明は絶対的に正しいと私は思う。「死の哲学」は死に淫するあまり、生を死よりも劣等なものとする。そこでは生きることがむやみに低位におかれ、死を選択することを迫られる。

著者がこの本で論じているのは、そのような「死の哲学」の系譜をソクラテスハイデガーレヴィナスらのなかに批判的に見いだす作業と、生を肯定する「病いの哲学」の系譜をパスカル、マルセル、ナンシー、パーソンズフーコーから取り出す作業だ。

基本的には本書は各哲学者らのテクストを読み込む作業にあてられていて、割合にむずかしい議論が続く。その部分をきちんと紹介する能力はないが、いくつかかなり興味深い論点が提示されている。そしてその根本には尊厳死批判、生の肯定があり、死に近づきつつある「病人の生」を生として肯定する試みはとても重要な意味を持っている。

本書は立岩真也の「ALS 不動の身体と息する機械」と基礎的な姿勢を同じくしているし、なんとなく文体も似ている気がする。こちらが哲学の側面からアプローチしているとすれば、立岩氏は個別具体的な病気、患者から、尊厳死に追い込まれる生を批判していこうとしているといえる。どちらも重要な仕事だと思う。


興味を引かれたところをいくつか。

●肉体の「奴隷」

冒頭におかれたソクラテスについて。ここで面白いのは、ソクラテスの魂についての議論だ。プラトンの「パイドン」から孫引き。

魂が純粋な姿で肉体から離れたとしよう。その場合、魂は肉体的な要素を少しも引きずっていない。なぜなら、魂は、その生涯においてすすんで肉体と交わることがなく、むしろ、肉体を避け、自分自身へと集中していたからである。このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それはまた、真実に死ぬことを練習することに他ならないのだ。
これに反して、思うに、魂が汚れたまま浄められずに肉体から解放される場合がある。というのも、そのような魂はいつも肉体と共にあり、肉体に仕え、これを愛し、肉体とその欲望や快楽によって魔法にかけられて、その結果、肉体的な姿をしたもの、すなわち、人が触ったり、見たり、飲んだり、食べたり、性の快楽のために用いたりするもの以外のなにものをも真実とは思わなくなるからである。……肉体との交わりと結合が、そのような魂の中に肉体的なものを自然的なものとして植えつけてしまったのだ。……そういう魂は、善い人々の魂ではけっしてなくて、卑しい人々の魂なのだ。
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これについて小泉義之は、ソクラテスは、死期が迫ったその時に、まさに死にかけているその肉体の世話にひきずられることを忌避しているのである」と指摘する。これが「死の哲学」の一端だという。

しかし、このソクラテスの魂論は、なんとも不気味なものだ。肉体と霊魂の二元論にさらに善悪の対立を組み込んでいる。これが、低次元の生より尊厳ある死を善しとする思考の根にあるものだろうか。そういえば、今村仁司の「近代の労働観」の冒頭で、古代ギリシャ人は、手仕事を「メカニック」なものとし、それに従事することを恥ずかしいことであるとし、忌避していたということが紹介されている。自由人であるなら、そのような「メカニック」な仕事に決して手を染めてはならなかったらしい。その観念の背後には手仕事を一手に引き受けさせられる奴隷制度の存在が指摘されている。

精神が肉体の下位に置かれるということを忌避していた、ということだろうか。これが古代ギリシャの常識的な価値観ということかも知れない。


●共同体のための死を見いだすハイデッガー

小泉義之ハイデッガーの「存在と時間」から以下のようにハイデッガーの死生観を取り出す。

ハイデッガーは世代交代のことを、ライフ・サイクルの反復のことを、根源的な本来性と評価しているのである。そして、ここに飛躍があると言えば言えるわけだが、この幻想は政治的な共同幻想へと舞い上がっていく。

その現存在の経歴は共同経歴であり、共同運命という性格を帯びるのである。……おのれの<世代>のなかでの、かつおのれの<世代>と共にする現存在の運命的な共同経歴こそ、現存在の十全な本来的経歴をなすのである。(第七四節)
 このようにして、ハイデッガーの哲学は死生観を介して民族共同体論になったわけだが、重要なのは、ここに到った経路である。ハイデッガーは、死ぬことや死へ向かうことの意味を欲していた。しかし、その意味を、死そのものや死に方から汲みだすことはできそうにもない。そこで、ハイデッガーは、無気味な不安を呼び起こす肉体のことを見詰めてみた。振り返ってみるなら、この肉体は、両親や祖先からの遺産ではなかろうか。既に死者となった人びとからの相続ではなかろうか。このことから意味を汲み出すことができるとするなら、死へ向かって死ぬことは、贈与された肉体を返済して、共同体の死者の列に参画することになる。
中略
 こうして、共同体のために死ぬこと、これが死へと向かい死ぬことに意味を与える。裏から言えば、各種の共同体が、「善をなしてくれる他者」となって、どんな死に方であれ、末期の人間を安んじて死なせてくれるのである。だから、各種の共同体が、末期の人間を死なせても、それは殊更には他殺とは語られないし、末期の人間が自ら死ぬように導いても、それは殊更には自殺とは語られないだろう。共同体の名の下に、例えば、国家の名の下に、そして、家族の名の下に、人間を死なせることを覚悟して引き受けること、それが本来的な先駆的覚悟性である。したがって、ハイデッガーの哲学とは、「家族に見守られて死にたい」と「家族に見守られるなら死んでもかまわない」の間を埋めるものであるとも言える。こうして、ハイデッガーの哲学を安楽死に適用することができる。
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死の意味を共同体に見いだすことで、共同体のための死も同時に見いだされている。この死と生のあいだの意味づけについては「弔いの哲学」で徹底して批判していたものだろう。「弔いの哲学」はむやみなまでにラディカルで、びっくりした本だった。常識を覆されることはわりと快楽なのだけれど、常識を覆されすぎるとびっくりする。「弔いの哲学」は生を共同体につなげようとしたりする議論を徹底して批判して、生と死の断絶を強調する。理解も納得もした気はしないのだけれど、非常に刺激的な本ではあった。


「病いの哲学」の後半部分、つまり病人の生を肯定し擁護する部分については、まだわかっていない部分が多いのでここには書かないけれども、「死の哲学」がいかなるものかをとりあえず取り出してみるだけでも、問題がどこにあるのかを知ることはできるということで、以上。


参考 小泉義之『病いの哲学』