「壁の中」から

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暴力から見た「国家」――萱野稔人「国家とはなにか」

『国家とはなにか』

『国家とはなにか』

国家とはなにか、を原理的に分析するきわめて理論的な本。だけれど、よく整理されていてとてもわかりやすいので、楽しくさらに非常に興味深く読むことができる。

最近読んでたのが渋谷望の「魂の労働」や酒井隆史の「自由論」などの、ネオリベラリズム関係の、政治と権力と労働と自由と、といった論題を扱っていて、内容を追い切れない部分が多かったので、この平易さは助かった。その酒井隆史の「自由論」や「暴力の哲学」と併読することを著者自身が後書きで勧めている通り、この本は国家を暴力の運動として捉えるという視点を据え、一種の暴力論として書かれている。

これは私にはかなり新鮮な分析だった。これまでの国家論というのは「想像の共同体」論に依拠して国民国家の幻想性を批判したりするものが多かった(国家批判というのが差別批判の側面を持っていた点が影響しているのだろう)と思うのだけれど、本書はその国家観とは異なる地点から分析を始めている。国家がそのひとつのよりどころとしている国民国家ナショナリズムがいかにフィクションに満ちたものであることを証明したところで、それは国家批判として的をはずしたものでしかないということを丁寧に論じている。国家を幻想として論じることには決定的な欠陥があるということだ。以下で見るとおり、本書での著者の国家観は身も蓋もないほど現実的で物理的だ。


●暴力の独占

まず著者はウェーバーの国家論から始める。

国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。
12P
「物理的暴力」を独占すること。つまり、それ以外の暴力を禁止することが、国家の大きな特徴の一つだとする。これは、法律や警察、軍隊を考えると納得できるだろう。ここから著者は必然的に導かれることとしてこう書く。

つまり、自らの行使する暴力だけが正当であると実効的に主張しうるためには、国家は社会のなかでもっとも強大な暴力を行使できるのでなくてはならない。
13
暴力の行使を独占できると言うことは、自らのふるう暴力に正当性を付与できるということでもある。法を制定するのも、それを行使するのも国家だ。その具体的な例は国家による殺人、死刑となる。

死刑における殺人が合法なのは、殺人をおこなう主体と、合法/違法を判断する主体とが同一であるからである。殺人を合法なものと違法なものとに分ける権限をもつもののみが、合法的な殺人をおこなうことができるのだ。
21P
なぜ暴力が重要なのか。著者は端的にこう論じる。力関係において優位にあるものは、その力をちらつかせることで、相手に命令を聞かせることができるからだ。暴力は命令が実行力を持つ根拠になる。「法の実効性は暴力によって支えられている」と著者が語るとおり、法に違反したときそのものには最終的には死刑という暴力を課すことができる。

暴力が法=命令を正当化するということから、以下のことが導かれる。

国家が他のエージェントに暴力の行使を認めないのは、けっして正義をめざすからではない。そうではなくそれは、法がみずからをまもるために、みずからを措定し維持する暴力以外の暴力を非合法化するからである。
(中略)
そのロジックをくみたてているのは、合法的な暴力の自己準拠的な構造にほかならない。つまり、より強い暴力が、その優位性にもとづいて法を措定し、みずからの法的ステイタスをその法によって根拠づけるという構造だ。みずからを合法的だと規定しながら、他の暴力を違法なものとして取り締まることで、はじめてその暴力の合法性は確立されるのである。
29P
国家とは暴力をめぐるヘゲモニー争いに勝利したもの、と著者は書く。しかし、その物理的暴力の行使だけではさまざまな抵抗に出会うことになり、効率的とは言えない。そこで、国家は自らの暴力を蓄積するだけではなく、その暴力の正当性を保証する必要に迫られることになる。では、どうやって自らの暴力を正当化しうるか。

酒井隆史は「暴力の哲学」のなかでこう書いている。

戦争は、それがどんなに侵略的性格であることがはっきりしていても、「自衛」を口実になされます。だから戦争とは逆説的ですが、根本的に反戦的なのです。
117P
これと同じことが国家による法の正当化のときにもいえる。暴力を合法と違法に分割し、その違法な暴力を取り締まることで、暴力は合法化される。このとき違法な暴力はただ違法であるだけではなく、「秩序や平和を破壊する道徳的な悪としても表象されることになるだろう」。

こうして、合法化された暴力は、不正な暴力に立ち向かう対抗的な暴力としてみずからを正当化することになる。つまりそれは、不正な暴力があるためにやむをえず行使される暴力として、したがって根本的に「反暴力的な」暴力として定立されるのだ。
ここの部分は酒井隆史の上掲文を下敷きにして書かれている気がする。それは措くとして、つまり、ここで著者が注意を促しているのはこういうことだ。道徳的に正しいという暴力の正当化の論理は、逆転して捉えられなければならない。道徳的に悪だから取り締まるのではなく、取り締まらねばならないからそれは悪として表象されるというプロセス。そこで重要になるのは、最初に確認したように暴力において優位に立つものが、それ以外のエージェント(代行者)による暴力を抑圧する、という図式だ。つまり、ここで問題になるのは暴力のヘゲモニー争いという構図だ。

したがって、国家必要論が述べるのとは反対に、国家は「不正な」力をおさえるために「必要だから」存在しているのではない。そうではなく、暴力をめぐるヘゲモニー争いの帰結として国家は存在しているのである。
35P
要するに、国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行するのだ。あらかじめ存在する国家が、あらかじめ合法化された暴力を独占すると考えてはならない。そうではなく、暴力のヘゲモニー争いに勝利しているという事態が国家を構成していると考えなくてはならない。
38P
現代においては唯一国家のみが合法的な暴力を行使しうる。それはきわめて現代的な現象だと。中世ヨーロッパや戦国時代を考えるとわかるように、そこではいくつもの暴力を行使する団体がひしめいていたのであり、現代のように国家のみが暴力を独占するという形ではなかった。ウェーバーの引用で、その現象は近代以降のものであることが指摘される。

●暴力の物理的効用

乱暴なまとめだけれどここまでが一章。次の二章では、「暴力の組織化」と題して、国家が暴力を手段とする動因が論じられる。ここはアレントフーコーを介して権力と暴力の関係などについて論じているのだけれど、ちょっとはしょる。

私見だがここでのポイントは、暴力は、特定の文脈に依存せずに命令に従わせることができるという点だ。「暴力が持つこうした機能が、秩序や支配を保証する」。

この場合、国家を定義づけるのは、暴力の蓄積をつうじた秩序と支配の確立という運動そのものとなる。
45P
端的にまとめると、直接的な暴力である物理暴力では、相手にこちらの望む通りの行動を起こさせることができない。そこでもちいられるのが、暴力をちらつかせたとした相手への命令、つまり権力となる。秩序の確立においては物理的暴力は有効だが、支配の確立においては権力が重要となる。

国家の成立基盤には、暴力と権力のあいだの相乗的な関係がある。つまり、一方で権力は、暴力の組織化を可能にし、それによって暴力をより強力なものにする。と同時に、他方で暴力は、否定的なサンクションの発動可能性として機能することで、人びとから特定の行為を導きだし特定の行為関係を重視する権力のはたらきを補強する。国家は、暴力をつうじた権力の実践と、権力を通じた暴力の実践との複合体として存在するのだ。
74P(傍点を強調に変更)

●富の徴収・租税

カール・シュミットは「政治的なものに固有の指標」として敵/友の区別を導入し、この敵対性において暴力が組織化されるとする。しかし、と著者はここにホッブズを挿入し、その概念に修正を加える。

敵/友の区別はけっして基底的な原理ではない。みずからが有益であると判断するものをあらゆる手段で獲得しようとする運動が、敵と友の区別を生じさせる。
94P
有益なもの、端的に言って富を己のものとする運動こそが国家の基底的な原理なのだということだ。暴力はそのさい、富の我有化においては自律な手段になるという。それは、富を相手から奪う際には、前述のように言うことを聞かせる必要がないからだと著者は書く。ここで、以下の指摘は重要だと思う。

国家を思考するためには、だから、人間本性が善なのか悪なのかと問う必要はなく、もっぱら、富の我有化を可能にする暴力の社会的機能を問うべきなのだ。富と暴力の結びつきは必然的なものである以上、人間の本性が善だろうが悪だろうが関係なく、暴力の蓄積運度は起こる。
98P
国家が存在するのは、畢竟、暴力によって富を蓄積することが「現実的」に可能だからだ、というこの身も蓋もない指摘は、しかし非常に重要だろう。酒井隆史も「暴力の哲学」のなかで、サルトルの「受肉した存在であるわたしたちにとって、暴力は宿命である」という言葉を引用している。暴力や国家を、単になくすべき悪として描くことでは有効な批判たり得ず、いったんそれがわれわれにとって宿命的に持ってしまっているものとして受け入れることからはじめ、それを冷静にコントロールする方向へ持って行くこと。暴力論としての本書や「暴力の哲学」が繰り返すのはそのことだ。

話を戻す。富という観点から重要なのは租税の根拠だ。一般には、租税は国民の安全の保障のために使われるもので、住民は自らのために負担するというような見方がある。著者は、この思考は決して妥当ではないとする。これは結果と原因の取り違えなのだ、と。税を徴収することができるためには、まず暴力の優位性がなければならない。住民による合意形成があって、税が徴収されるのではなく、合意を強要できるほど暴力の優位性をもつものが、税を徴収できると指摘する。そこから、住民の安全のことも導かれる。

国家が暴力を蓄積することでまもろうとするのは、住民の安全ではなく、みずからの保全である。国家にとって「軍事的保護」が意味するのは、他のエージェントによる攻撃からその土地におけるみずからの暴力の優位性と富の徴収の権利をまもること以外ではない。その点からみれば、税を徴収される住民の安全は副次的な問題にすぎない。
104P
ホッブズによる社会契約論の分析も興味深い。ここでは、設立と獲得のふたつのコモンウェルス・国家の成立の過程が論じられる。設立とは、ふつういわれる社会契約論の要諦、相互の契約によって自主的に立ち上げられたという国家観で、租税を自らの安全に使うためのものと考える見方と親和的だ。獲得によるコモンウェルスとは、そもそも暴力の優位性においての強者が、対象を支配することによって生まれるという国家観であり、ホッブズを読んでいくと、むしろ獲得によるコモンウェルス以外には現実的に存在しないと著者は書く。設立によるコモンウェルスが成立するためには、その契約が有効でなければならないが、ある契約が強制力を持つのは、その背後になんらかの暴力を担保としている場合だけだ。理想的ケースとして自主的に契約がなされてはじめて、契約に強制力が生まれる場合を想定するなら、そこには暴力において完全に同程度の優位性を持つものの出会いがなければならない。それは現実的にあり得ないという訳だろう。

しかしなぜ、設立によるコモンウェルスの考え方が根強いのか。それはいまの国家の形態が自明視されているからということと、じっさいに国家はそれが副次的であれ国民を保護しないわけにはいかないからだ。これは富の我有化にかかわる。つまり、国内に自分以外のエージェントが富を徴収することがあってはならない。成員の富を徴収するのは国家だけでなくてはならない。

ここに、所有と徴税の関係が問われる局面が現われる。著者は端的にこう指摘する。

諸個人の所有する富が最初にあってそれが徴収されるのではなく、まず徴収という出来事があってそれが所有の観念を生じさせる。
120P
非常に奇妙な考えに思われるが、きわめて鋭い指摘だ。

所有とは、単なる物理的な占有とは別のものだ。モノが物理的に人びとの手元にあるというだけでは所有は成立しない。それが成立するためには、国家による我有化がいったんは介在しなくてはならない。富を徴収する暴力を背景にしてはじめて、特定のモノが特定の個人に帰属するという事態が確立されるのである。
121P
たとえば、本書「国家とはなにか」が私のモノであるとする。これが盗まれた場合、当然私は本の所有権を主張し、盗んだ相手から正当に取り返すべく警察なり法なりに訴えることになる。このとき、その本が誰の所有であるかを保障するのは法であり国家であることになる。国家が、そのものの帰属を所有権という形で保障している。金銭で権利が移動するときも、その金銭の価値を保障し、その売買の正当性を最終的に保障するのも国家だ。消費税や相続税などの所有権の移動の場合に、国家が税を徴収することができることの根拠は、「国家による我有化がいったんは介在」しているためではないだろうか。そう考えると非常に納得のいくものだと思う。

●拘束するが故に保護する

ここでセキュリティの問題が浮上する。著者が主張するのは、国家が自らの利益の追求活動に付随するものとして治安が求められると言うことだ。

治安の内実をなすのは、第一義的には、国家がみずからの目的のために暴力をじっさいにもちいなくてもすむ状態にほかならない
 言いかえるなら、「治安のよい」状態とは、社会のなかで暴力が国家へと可能なかぎり局所化されることで、国家がスムーズにみずからの活動を展開できる状態のことである。
125126P
したがって、国家をめぐる先の発想は裏返されなくてはならない。つまり、社会の治安をまもるために国家が設立されるのではなく、反対に、国家はみずからの利益を追求することで結果的に治安の管理へとむかうことになる、と。「セキュリティの防衛」は国家にとっての原因ではなく、結果なのだ。
126P
国家はみずからの保全と利益にかかわるかぎりでしか、住民の安全に関心をもたない。
126P(強調引用者)
治安維持といった場合の治安とは、国家にとっての安全であって、住民にとっての安全ではないということだ。両者にとっての安全が重なることはあるだろうが、決して同一のものではない。軍隊が自国の国民に銃を向けることがあり得るのは、そのためだ。



偏った紹介の仕方で申し訳ないが、これがだいたい前半三章までの論旨のポイントだと思う。暴力の運動体として国家を捉えること、富の我有化がそれを動かす動因となること、現在の国家観は転倒して捉えなければならないことなど、ここでの指摘はきわめて示唆に富む。ここでは紹介しなかったけれども、四章以降の議論もまた無視できないものではある。ただ、ちょっと議論が入り組んでくるので、紹介しづらいし、本書での核心はやはり前半三章だと思うので、これまででやめる。

で、たぶん、著者がつぶさに引用してみせる思想家哲学者の読者などにしてみれば、ここで論じられている国家観というのはそれほど新味のあるものではないのかも知れないとは思う。私自身は、暴力の運動としての国家や、ホッブズの社会契約論読解、ホッブズを継承するスピノザ像を描くところなどはとても面白かったし、所有と税の関係などについて論じた部分は新鮮な驚きがあった(以前税を再配分のための募金として捉えていたりしたので)。

この本のスタイルの重要な点は、そういった思想、哲学の言葉を非常に明快かつ明晰な形で展開したところにあると思う。わかりやすいうえに奥深い。ただ、こういう風にクリアに語ることができると言うことは、クリアに語りうることを語っているからだという印象も残る。ネットで見た評には、アジアやアフリカの国家形態はどうなるのか、という疑念を呈しているものがいくつかあったが、そう考えると、この本で引用しているのはほぼ西洋哲学の範疇での国家論だった。

あと、やはり後半での系譜学的考察の部分で、具体的な例がほとんどないことが物足りない。ただ、これを本格的にやるとなるとフーコーにならなければならなくなる気がするので、原理的な考察にとどめておいたのだろうけれど。

参考
[本]のメルマガバックナンバー | [本]のメルマガ vol.217
著者萱野稔人氏と前瀬宗祐氏の対談が真ん中くらいに載っている。
Arisanのノート 『暴力の哲学』
酒井隆史「暴力の哲学」の詳しい紹介。