暴力から見た「国家」――萱野稔人「国家とはなにか」
- 作者: 萱野稔人
- 出版社/メーカー: 以文社
- 発売日: 2005/06/17
- メディア: 単行本
- 購入: 12人 クリック: 142回
- この商品を含むブログ (118件) を見る
最近読んでたのが渋谷望の「魂の労働」や酒井隆史の「自由論」などの、ネオリベラリズム関係の、政治と権力と労働と自由と、といった論題を扱っていて、内容を追い切れない部分が多かったので、この平易さは助かった。その酒井隆史の「自由論」や「暴力の哲学」と併読することを著者自身が後書きで勧めている通り、この本は国家を暴力の運動として捉えるという視点を据え、一種の暴力論として書かれている。
これは私にはかなり新鮮な分析だった。これまでの国家論というのは「想像の共同体」論に依拠して国民国家の幻想性を批判したりするものが多かった(国家批判というのが差別批判の側面を持っていた点が影響しているのだろう)と思うのだけれど、本書はその国家観とは異なる地点から分析を始めている。国家がそのひとつのよりどころとしている国民国家・ナショナリズムがいかにフィクションに満ちたものであることを証明したところで、それは国家批判として的をはずしたものでしかないということを丁寧に論じている。国家を幻想として論じることには決定的な欠陥があるということだ。以下で見るとおり、本書での著者の国家観は身も蓋もないほど現実的で物理的だ。
●暴力の独占
まず著者はウェーバーの国家論から始める。
国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。 |
12P |
つまり、自らの行使する暴力だけが正当であると実効的に主張しうるためには、国家は社会のなかでもっとも強大な暴力を行使できるのでなくてはならない。 |
13 |
死刑における殺人が合法なのは、殺人をおこなう主体と、合法/違法を判断する主体とが同一であるからである。殺人を合法なものと違法なものとに分ける権限をもつもののみが、合法的な殺人をおこなうことができるのだ。 |
21P |
暴力が法=命令を正当化するということから、以下のことが導かれる。
国家が他のエージェントに暴力の行使を認めないのは、けっして正義をめざすからではない。そうではなくそれは、法がみずからをまもるために、みずからを措定し維持する暴力以外の暴力を非合法化するからである。 (中略) そのロジックをくみたてているのは、合法的な暴力の自己準拠的な構造にほかならない。つまり、より強い暴力が、その優位性にもとづいて法を措定し、みずからの法的ステイタスをその法によって根拠づけるという構造だ。みずからを合法的だと規定しながら、他の暴力を違法なものとして取り締まることで、はじめてその暴力の合法性は確立されるのである。 |
29P |
酒井隆史は「暴力の哲学」のなかでこう書いている。
戦争は、それがどんなに侵略的性格であることがはっきりしていても、「自衛」を口実になされます。だから戦争とは逆説的ですが、根本的に反戦的なのです。 |
117P |
こうして、合法化された暴力は、不正な暴力に立ち向かう対抗的な暴力としてみずからを正当化することになる。つまりそれは、不正な暴力があるためにやむをえず行使される暴力として、したがって根本的に「反暴力的な」暴力として定立されるのだ。 |
したがって、国家必要論が述べるのとは反対に、国家は「不正な」力をおさえるために「必要だから」存在しているのではない。そうではなく、暴力をめぐるヘゲモニー争いの帰結として国家は存在しているのである。 |
35P |
要するに、国家がまずあるのではなく、暴力の行使が国家に先行するのだ。あらかじめ存在する国家が、あらかじめ合法化された暴力を独占すると考えてはならない。そうではなく、暴力のヘゲモニー争いに勝利しているという事態が国家を構成していると考えなくてはならない。 |
38P |
●暴力の物理的効用
乱暴なまとめだけれどここまでが一章。次の二章では、「暴力の組織化」と題して、国家が暴力を手段とする動因が論じられる。ここはアレントやフーコーを介して権力と暴力の関係などについて論じているのだけれど、ちょっとはしょる。
私見だがここでのポイントは、暴力は、特定の文脈に依存せずに命令に従わせることができるという点だ。「暴力が持つこうした機能が、秩序や支配を保証する」。
この場合、国家を定義づけるのは、暴力の蓄積をつうじた秩序と支配の確立という運動そのものとなる。 |
45P |
国家の成立基盤には、暴力と権力のあいだの相乗的な関係がある。つまり、一方で権力は、暴力の組織化を可能にし、それによって暴力をより強力なものにする。と同時に、他方で暴力は、否定的なサンクションの発動可能性として機能することで、人びとから特定の行為を導きだし特定の行為関係を重視する権力のはたらきを補強する。国家は、暴力をつうじた権力の実践と、権力を通じた暴力の実践との複合体として存在するのだ。 |
74P(傍点を強調に変更) |
●富の徴収・租税
カール・シュミットは「政治的なものに固有の指標」として敵/友の区別を導入し、この敵対性において暴力が組織化されるとする。しかし、と著者はここにホッブズを挿入し、その概念に修正を加える。
敵/友の区別はけっして基底的な原理ではない。みずからが有益であると判断するものをあらゆる手段で獲得しようとする運動が、敵と友の区別を生じさせる。 |
94P |
国家を思考するためには、だから、人間本性が善なのか悪なのかと問う必要はなく、もっぱら、富の我有化を可能にする暴力の社会的機能を問うべきなのだ。富と暴力の結びつきは必然的なものである以上、人間の本性が善だろうが悪だろうが関係なく、暴力の蓄積運度は起こる。 |
98P |
話を戻す。富という観点から重要なのは租税の根拠だ。一般には、租税は国民の安全の保障のために使われるもので、住民は自らのために負担するというような見方がある。著者は、この思考は決して妥当ではないとする。これは結果と原因の取り違えなのだ、と。税を徴収することができるためには、まず暴力の優位性がなければならない。住民による合意形成があって、税が徴収されるのではなく、合意を強要できるほど暴力の優位性をもつものが、税を徴収できると指摘する。そこから、住民の安全のことも導かれる。
国家が暴力を蓄積することでまもろうとするのは、住民の安全ではなく、みずからの保全である。国家にとって「軍事的保護」が意味するのは、他のエージェントによる攻撃からその土地におけるみずからの暴力の優位性と富の徴収の権利をまもること以外ではない。その点からみれば、税を徴収される住民の安全は副次的な問題にすぎない。 |
104P |
しかしなぜ、設立によるコモンウェルスの考え方が根強いのか。それはいまの国家の形態が自明視されているからということと、じっさいに国家はそれが副次的であれ国民を保護しないわけにはいかないからだ。これは富の我有化にかかわる。つまり、国内に自分以外のエージェントが富を徴収することがあってはならない。成員の富を徴収するのは国家だけでなくてはならない。
ここに、所有と徴税の関係が問われる局面が現われる。著者は端的にこう指摘する。
諸個人の所有する富が最初にあってそれが徴収されるのではなく、まず徴収という出来事があってそれが所有の観念を生じさせる。 |
120P |
所有とは、単なる物理的な占有とは別のものだ。モノが物理的に人びとの手元にあるというだけでは所有は成立しない。それが成立するためには、国家による我有化がいったんは介在しなくてはならない。富を徴収する暴力を背景にしてはじめて、特定のモノが特定の個人に帰属するという事態が確立されるのである。 |
121P |
●拘束するが故に保護する
ここでセキュリティの問題が浮上する。著者が主張するのは、国家が自らの利益の追求活動に付随するものとして治安が求められると言うことだ。
治安の内実をなすのは、第一義的には、国家がみずからの目的のために暴力をじっさいにもちいなくてもすむ状態にほかならない 言いかえるなら、「治安のよい」状態とは、社会のなかで暴力が国家へと可能なかぎり局所化されることで、国家がスムーズにみずからの活動を展開できる状態のことである。 |
125126P |
したがって、国家をめぐる先の発想は裏返されなくてはならない。つまり、社会の治安をまもるために国家が設立されるのではなく、反対に、国家はみずからの利益を追求することで結果的に治安の管理へとむかうことになる、と。「セキュリティの防衛」は国家にとっての原因ではなく、結果なのだ。 |
126P |
国家はみずからの保全と利益にかかわるかぎりでしか、住民の安全に関心をもたない。 |
126P(強調引用者) |
偏った紹介の仕方で申し訳ないが、これがだいたい前半三章までの論旨のポイントだと思う。暴力の運動体として国家を捉えること、富の我有化がそれを動かす動因となること、現在の国家観は転倒して捉えなければならないことなど、ここでの指摘はきわめて示唆に富む。ここでは紹介しなかったけれども、四章以降の議論もまた無視できないものではある。ただ、ちょっと議論が入り組んでくるので、紹介しづらいし、本書での核心はやはり前半三章だと思うので、これまででやめる。
で、たぶん、著者がつぶさに引用してみせる思想家哲学者の読者などにしてみれば、ここで論じられている国家観というのはそれほど新味のあるものではないのかも知れないとは思う。私自身は、暴力の運動としての国家や、ホッブズの社会契約論読解、ホッブズを継承するスピノザ像を描くところなどはとても面白かったし、所有と税の関係などについて論じた部分は新鮮な驚きがあった(以前税を再配分のための募金として捉えていたりしたので)。
この本のスタイルの重要な点は、そういった思想、哲学の言葉を非常に明快かつ明晰な形で展開したところにあると思う。わかりやすいうえに奥深い。ただ、こういう風にクリアに語ることができると言うことは、クリアに語りうることを語っているからだという印象も残る。ネットで見た評には、アジアやアフリカの国家形態はどうなるのか、という疑念を呈しているものがいくつかあったが、そう考えると、この本で引用しているのはほぼ西洋哲学の範疇での国家論だった。
あと、やはり後半での系譜学的考察の部分で、具体的な例がほとんどないことが物足りない。ただ、これを本格的にやるとなるとフーコーにならなければならなくなる気がするので、原理的な考察にとどめておいたのだろうけれど。
参考
[本]のメルマガバックナンバー | [本]のメルマガ vol.217
著者萱野稔人氏と前瀬宗祐氏の対談が真ん中くらいに載っている。
Arisanのノート 『暴力の哲学』
酒井隆史「暴力の哲学」の詳しい紹介。