「厳正なる公平性」という不平等――「〈野宿者襲撃〉論」生田武志・2
●もうひとつの視点
最初にも書いたが、この本の趣旨に賛同した上でそれでも無視してはならないのは、以下のような視点だ。
なぜ、だれもホームレス生活の豊かさを語らないのか?
野宿者支援として、彼らを自立させ、野宿生活から脱出するための支援というのは行政などがやらなければならないことだとは思うが、それはそれとして、野宿という行為そのものが間違ったものであり、なくさなければならないものであるかどうかはまた違う問題ではある。人が生きている以上そこにはさまざまな文化が生まれるだろうし、それは一概に否定できない。それが公園や路上を不法占拠したうえでのものであったとしても、だ。違法、不法なものを一概に否定するのならば数々のアングラ文化もまた否定されねばならなくなる。(とはいっても、私にはそういう豊かさを持つアングラ文化って何なのかぱっと思い浮かばないけれど)
さらに、野宿生活を視点として、われわれの生活そのものを見返すこともまた重要なことだとは思う。以下の本にも、
- 作者: 青木秀男,中根光敏,狩谷あゆみ,田巻松雄,西沢晃彦,山口恵子
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しかし、こういう視点は野宿者のための社会保障制度の完徹や、行政支援を要求する場合には、むしろマイナスになりうる。さらに、野宿者生活の豊かさを喧伝することが、逆に野宿者自己責任論に利用されてしまう側面もあるだろう。
また、「自立」を前提とした野宿者観が、野宿者をさらに分断してしまう可能性(これはもう事実としてあるらしいが)もある。自立しようとする前向きな野宿者と、自立しようともしない野宿者という形で、選別が行なわれてしまう。
失業問題、住宅問題、社会保障問題として解決を図ることは最低限必要なこととして前提した上で、このもうひとつの視点も重要だと思う。
●「厳正なる公平性」という不平等
「〈野宿者襲撃〉論」に以下のような記述がある。
作家のアナトール・フランスに「厳正なる公平の精神のもと、法は貧乏人と同じく金持ちに対しても橋の下で寝ることを禁じている」というアフォリズムがある。もちろん、金持ちは「橋の下で寝る」必要など全然ないのだから、これは一種のブラックジョークである。そして、この「橋の下」は「公園」と言いかえても当然成立する。こうして貧困のために住む場所を失った野宿者は、「厳正なる公平な精神のもと」、橋の下であれ公園であれ「寝ること」自体を禁じられる。かりに、他に行くところのない野宿者が橋の下や公園で寝ていれば、それは「不公平」なのである。では、こうした「公平の精神」とは何なのか。それはいわば「金持ち」だけに意味をなす公平であり、ここで言う「みんな」とは住む家のある者(経済的勝者)のみを指すのではないだろうか。 |
101P |
リンク先で、実質的平等と形式的平等についての議論がコメント欄で行なわれている。議論の本筋はいまは踏み込まない。ここでコメントをつけているkusomusi氏の発言に見られる考え方は非常に興味深い。ちょっと乱暴だが要約すると、百人いる内のひとりが不都合を被っているという理由のために制度を改革するということは、そのひとりの利害を九十九人にも負担させると言うことだから、不平等である、ということだ(コメントでの議論がとても長いため、斜め読みしたんでちょっと自信がないが)。
氏は「厳正なる公平の精神」が現状維持、それも制度的優位の恩恵を得ているものにとっての優位を保持するためにしか用いられないというブラックジョークを体現してしまっていると思うが、「〈野宿者襲撃〉論」でも論じられているとおり、おそらく、こういう考え方はかなりの人に共有されているのではないかと思われる。そして、かなりの人間が、野宿者などのために自分の払った税金(!)が使われることに反対している。つまり勝者と敗者とが峻別された上で、勝者が不利益を被ることを不平等と称して禁止しようとする。
(私信 ゴミみたいな世界ですね!)
これは、酒井隆史「暴力の哲学」にも通じる問題だ。「暴力の哲学」の主眼の一つは、暴力を禁ずるという美名が、結果的にその時点での暴力的構造を温存するというかたちで暴力に荷担してしまうという逆説を衝くことだった。が、いま気がついたが私がbk1に投稿した書評ではその観点が抜け落ちている。ちょっといま「暴力の哲学」を読み返している余裕がないし、しっかりと書かれたすぐれた書評がすでにあるので、そちらを参照してほしい。
上の書評ではサルトルの言葉を引いている。
「たとえばフランスでは、知識人たちというか、自分で知識人だと称している人たちが、普遍性の名において、アルジェリア人のテロ行為を、フランス人の弾圧行為とおなじ資格で非難しました。『テロリスムにしろ、弾圧にしろ、私はあらゆる暴力を非難する』と。これこそ、ブルジョワ階級のイデオロギーに奉仕する、ニセの普遍性の実例です」 |
この両著には他にも、新自由主義的状況の分析や、自分たちの願望を対象に投影した上で対象を排除する身振りについての分析など、共通した問題意識が多々ある。ある程度の土台を共有しつつも暴力をそれぞれ異なる側面から論じたものとして読み比べてみるのも面白いだろう。
●「情けは人のためならず、めぐりめぐりて己が身のため」
ところで、税金を払わない人間が公共物を利用したり社会的保障を受けるのに反対する人たちがいる。「〈野宿者襲撃〉論」でも、103ページ以降の一連の記述において、「そもそもホームレスは税金を払ってない」「だから働かないホームレスのためにわれわれの税金が使われるのは絶対納得できない」という意見があることを例示している。そこで生田氏は以下のように述べる。
近代国家は、仮に納税が不可能なほど困窮したとしても、その成員の最低限度の保障を重要な課題の一つとしてみなしてきた。日本国憲法第二五条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」という「生存権」、そして「国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行ない、その最低限度の生活を保障する」とする生活保護法はその実例である。 |
106P |
税金を払わない、働かないことを理由に野宿者に保障を行なうことを拒否することはできないと思う。そもそも、国家に対する命令である憲法において国民に対する「納税の義務」「勤労の義務」が定められていること自体疑問だという説がある。これは確か宮台真司も言っていたと思う。
それは別の話とするとしても、一部の人のいうように、税金を払うことを対価として公共サービスを受けるという考え方はきわめて不思議だ。というか、この考え方は「消費者」のものでしかないのではないか。課税制度は所得税の累進課税性を見ても分かるとおり、所得の再分配であり、一種の福祉思想が根にあるのではないかと思う。何も勉強せずに私的な考えに拠って書いているので間違っているかとも思うが、私自身は税はサービスを受けるための対価ではなく、一種の募金だと思っている。だから、払う人は払えるだけ払い、あまり払えない人はそれなりに払う。そしてその恩恵はより困っている人に有利に働く。強制的に徴収されるものではあるので、同列には並べられないが。
そもそも、税金が公共サービスを受ける対価であるなら、払った税金の多寡で得られる恩恵に差が出てしまう。これは日本国憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と衝突しないだろうか。
いや、話を戻そう。相当に譲って税金の多寡により受ける公共サービスの内容に差が出るとしよう。その場合、野宿者はサービスを受けられないか。私はそうは考えない。対価として考えるならば、払った税金がいくらかを計算する必要があるが、五十代の失業者を中心とする野宿者は、おそらくそれまでの生活において何らかの職に就いていたはずだし、所得税、消費税、住民税などなど様々な税を払い続けてきたはずだ。その額はかなりものになるだろう。
その場合、四十代くらいまでの定職と住所を持った非野宿者と、野宿者になるまではとりあえず普通に働いていた野宿者を比べた場合、野宿者のほうがこれまでに払った税金の総額が非野宿者を上回る可能性は充分以上にあり得ると思われる。
以上の議論には相当突っ込む余地があると思うが、「税金を払っていない」といういま現在の状況のみによって野宿者が行政サービスの対象外になるなどという論を私は支持しない。その考え方はいざ、自分自身がリストラなどによって失業したさい、自分の首を絞めることになるだけだ。
つまるところ、私は自分が野宿者などになった場合にも行政サービスを受けられるような社会であるべきだ、と自分自身のために言っているということでもある。落伍者を即刻排除しようとする国家機関のもとで、果たして安心して生活することができるだろうか。
参考 日本国憲法