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生きることが肯定される条件・1――立岩真也「ALS 不動の身体と息する機械」

ALS 不動の身体と息する機械

ALS 不動の身体と息する機械

まえにちょっと触れた、ALS=筋萎縮性側索硬化症(Amytrophic Lateral Sclerosis)をあつかった本。この病気がどれだけ知られたものなのかは私はよく知らないが、私自身はこの病気のことを、ほとんどこの本で初めて知ったようなものだった。宇宙論ホーキング博士が筋肉の萎縮する病気であることは知っていたが、病名は覚えておらず、この本を読んではじめてホーキング博士の罹患しているのがこの病気だとはっきりした。

ALSそのものについてはwikipediaにもある程度情報が載っている(筋萎縮性側索硬化症)。簡単に言えば、全身の筋肉が萎縮していく病気で、二、三年のうちに呼吸筋の麻痺により、人工呼吸器を使わなければそこで死に至る。人工呼吸器を付ける気管切開をすると会話が不可能(代替手段がないわけではないらしい)になり、何らかの手段を使ってコミュニケーションを図ることになるけれど、さらに進行すると、眼球筋の麻痺により、意志を外界に伝える手段がすべて遮断されるロックトイン(トータリィ・ロックトイン・ステイト Totally Lockedin State=TLS)という状態に至る。この場合、意志はある(脳波などで観察可能)し、視覚(眼球は動かせない)聴覚、触覚等の感覚は生きているという。それでも、呼吸器と介護があれば生きることは可能であり、ロックトイン状態においても意思の疎通を図ろうという研究も行なわれている。

罹患の原因は不明。wikiによれば「1年間に人口10万人当たり2人程度が発症する。好発年齢は40代から60代で、男性が女性の2倍ほどを占める。日本では紀伊半島に多く、高齢化の影響も加味すると発症は1年間人口10万人当たり10人に及ぶ。グアムも多発地域である。90%程度が遺伝性を認められない孤発性である」誰にでも、突然起こり得るということだろう。治療方法も今のところない。

この本は、A5判で約450頁もの分量になる大著だ。そのなかに、五百を超える夥しい引用があふれている。少なくとも本書の半分以上(三分の二はあるかも知れない)はすでに書かれていることの引用となっている。だから、異様なことだけれど、段落下げも一行開けもせずに引用文が並んでいて、後でその部分を即時に参照できるように、引用にはすべて番号が振られている。そうやって、とりあえずは既に何が書かれたのかをまとめ上げたのが本書で、主に患者本人やその配偶者、医療関係者などの証言をかき集めている。

本書はALSがとりあえずどんな病気で、どんな状態になり、どんなことが起こるかを、数名の固有の名を持った人間の証言を介して紹介していく。それとともに、そこにどんな問題が起こっているのかを露わにしていく。だから、その具体的な部分を読むためには是非とも本書にあたってほしい。やはり本書の核にあるのはそのような個々の証言だろうからだ。だから、以下に書かれることは、あくまでもその本を読んだ結果書かれたものに過ぎず、この本に書かれていることの正確な要約であるはずがない。書いていくうちに、自分の考えの部分と本書で書かれていることがどれがどれだかわからなくなってしまってもいる。充分注意をしてほしい。

で、私見では、ALSをめぐる問いの核は「自己決定」にかかわる。

●イメージの形成

この病気についてまず本書で言われることは、ALSについて流布しているきわめて絶望的な印象だ。患者の人たちは病気を告知されたり、病名のみ告知され、その病気の内実を医学書で知ったり、自分の症状に不安になり自ら医学書を読んでそこで、この病気が発症すると、ほぼ二、三年の命であると知る。

しかし、呼吸筋が麻痺しても、人工呼吸器を付ければとりあえずは生きていることができる。それで数十年生き延びることができる。本書ではそのような人たちの書いたりしたものを多々引用し、具体的にそのことを跡づける。しかし、医学書や医者たちに流通するALSという病気の印象には、生き延びられると言うことがあまり重視されていないようだったりする。最近は変わってきてはいるようだけれど、それでも、日本で人工呼吸器を付ける人は、付けないで死んでいく人より少ない。それには、医学書の記述が、延命しないことを当然視して書かれているらしいこととも通底するのではないだろうか。

ALS研究に携わっているらしいajisunさんのブログ「What’s ALS for me ?」(非常に参考になるのですが、まだちょっとしか読めてません)のこの記事ではこうある。

イギリスでは0.1%しかTPPVを行わず、呼吸筋の麻痺を終末期と捉えるのに対して、日本ではおよそ30%の患者が呼吸不全にはTPPVを行い、20年以上の生存が可能である。
TPPV=人工呼吸器 
本書では、呼吸器があればまだ何年も生きていくことができるのに、なぜ呼吸器をつけない方向で選択がなされてしまうのかと言うことを問題にする。治療を処置を行なえば延命が可能である場合に、その延命が断念されてしまうというのは何故なのか。

●医療の側

立岩氏はこう書いている。

なおすことが仕事であり仕事の価値であるなら、なおらないことは無価値であったり価値の否定でありうる。そこから「意味のない延命」という言葉までの距離は比較的近い。[316]に引用する文中には、「学会の権威者」が「ALSには人工呼吸器をつけるべきではない。なぜなら不治の病であるから」と言ったとある。緊急事態への対応として呼吸器を付けてしまうことがあるが、それは、なおらないから、望ましくないと考えられる。そして、死の方に向けて積極的に何かするのではなく、死にゆくのを見守っていさえすればよいのであればそれほど抵抗感はないかも知れない。
54P(強調引用者)
このような考えが、病気に関するイメージや、告知の際の余命二、三年といったものに繋がることもあるだろう。さらにここには、直接手を下すのはできないが、見過ごすことはできるという、少し奇妙な考えがある。人工呼吸器を一端付けると、本人はもうはずすことはできないから、患者自身が生きているうちは、ロックトインになってもずっとつけたままか、あるいは本人以外の誰かがはずさなければならない。本人以外の人間がはずすことにはやはり問題がある。それは直接相手に死をもたらす殺人に他ならないからだ。それを避けるために、人工呼吸器を付けられない、というのしかしやはりどこか奇妙だ。さらに、呼吸器があれば生きられると言うことを知らされないまま死んでいくALSの人もいる。技術があるのに、それが使われない、使うべきではないとされる。

医療の側としては、そうしたやっかいな問題に手を下すよりは、患者に自発的な死を選択してほしいのかも知れない。そういう意志を明確にするものもいる。もちろん、そうではない人間もいる。しかしそこにはまた違う問題もある。

【195】≪ある高齢のALSのご婦人Aさんは、家族の強い希望によって、病名を告知されることなく、人工呼吸器もつけることなく亡くなっていかれました。/主治医の市原医師は、最後の最後まで、人工呼吸器をつけてはどうかと、ご家族に説得されましたが、それは受諾されませんでした。[…]/今でも、あのときご家族の反対を押し切って、Aさんに「あなたの気持ちは…」と話していたら…もっとよい結果がでていたのではないか…と、考え込んでしまうことがあります。≫
110P
ここには告知の問題がある。この場合、本人に先立って告知された家族が、本人への告知を断ったということだろう。その理由はおそらく、患者の介護を家族が拒否した、ということなのだろう。ALSは24時間体制の看護が必要で、その労力は計り知れない。しかもその負担は否応なく家族にもたらされる。そのとき、家族は患者の生存に対して利害関係を形成してしまう。立岩氏はだから、ALSの告知の際には家族を介するべきではないという。

つまり家族は最大の利害関係者である。それはなぜ家族が告げられるかの理由でもあるが、家族だけには告げられてはならない理由でもある。
135P

●自己決定の形成

ALSの人たちが生きるのには、制度的な保障や支える人たちが必要不可欠のものになる。身体がまったく動かないという事態は、丸二十四時間(あるいはそれ以上)の介護を必要とし、生きていくためにはそれらをサポートする制度の存在が必要不可欠になる。逆に言えば、それらの制度が縮減され、介護が受けられなくなってしまえば、それは死を意味する。

そうした介護制度の変更に際して、家族によるのではなく、家族外のものによって介護を受けている人は、こう言わざるを得ない。

移行直前の二〇〇三年一月、一日四時間程度のところにサービス供給の上限を設ける方針が伝えられた。連日、数多くの障害者が厚生労働省の前に詰めかける大きな反対運動が起こった。この動きを伝えるNHKのテレビ番組で、橋本みさおは庁舎前でインタビューを受け、上限が設定されたらまっさきに死ぬのは私です、と答えている。これは、制度を使いはじめ、それで生きてきたALSの人たちにとって、他の障害の人たちに比してさらに深刻な問題であり、まったく文字通りの意味での死活問題だった。
310P 適宜文献等を指示する括弧や記号を略した。
ALSに限らず、重篤の障害を持つ人間が生きていくためにはどうしても多大な公的支援が必要になる。死活問題に直結する以上に、これは自己決定を患者自身に委ねることがどうしても死への選択へ傾いてしまうこととも直結する。上記の橋本みさお氏というのは、家族があってもその介護を家族外のものに委託することによって、家族に全人格的な介護を担わせてしまうことを避けることができた、という例だろう。もし、いまALSになったとして、そういう例を知らず、どうしても家族が介護を担わなければならないと観念した場合、患者に自己決定を迫ることはどういう意味を持つか。それはどうしても、家族の人生と自分の生とを天秤にかけることを迫られていることになるだろう。

そうした利害関係のあり方が、患者本人の自己決定にも強く影響する。患者は多くが壮年の働き盛りだったりするいい大人であることが多く、経済的なことや実際に負担しなければならない家族のことを考える分別をもってしまっている。そのような状況下で患者に自己決定を迫ると言うことは、果たして中立的な態度といえるのか、と立岩氏は問いかける。そもそも中立的態度なるものは存在しないだろうと立岩氏はいう。最大限患者の生きるという選択がすぐさま家族の負担になってしまわないような制度、保障を確立しなければならないはずだ。

現状では周囲は中立を自称し、自己決定を迫ることは、その決定が死に傾くように囲われてしまっている。自己決定それ自体はいいとしても、それをめぐる周囲の状況がまずは問題にされなければならないだろう。

彼にとって、この世において、自分とその身体とそれが置かれるその境遇は否定的なものである。とくに周囲に迷惑をかける存在であることによって、自身が否定的な存在であることは、自らにとって動かないこととされる。
250P
生きることを積極的に勧めず、その意味で中立の立場をとるのであれば、それは、否定性があってなお生きていくだけのものが与えられることにならないのだから、その人は死ぬだろう。否定をそのままにして、その人の価値や決定に委ねるなら、その人は自発的にこの世から去っていくことになる。ALSにかかる人の多くは分別盛りの年代の人であり、その分別のある人が去っていく。
253P
その人の価値や選好が社会的に形成されたものであるからといって、それをその人の価値や選好として認めないと言うことにはならない。しかし、このことはわかった上で、その価値や規範――ここでは生存に対して否定的に作用する価値や規範――の内容を私たちは問題にすべきだと言える。つまり、その価値を社会が与えているからその人の決定でないとするのでなく、与えているその中味が間違っていないかと問い、それを考えることができる。そしてそれが間違っているとなったら、それを取り消し、別のもの、具体的には生存が肯定されることを提示することである。そして生存が実際に可能な状態を設定することである。
254P
それでも生きていたいという望みを持つものが、中立的なインフォームド・コンセントとして、医者などから病気のこれからの経過やそれにまつわる負担の話を聞かされれば、「おまえはそれらの負担を家族に負わせてまで生きていたいというのか」と言われていると感じるのではないか。じっさい、本書で引用されているある医者の報告(引用番号【504】)には、患者が人工呼吸器を付けることをやめさせる選択を促すためにインフォームド・コンセントを徹底した、としか読めない記述が存在する。

そして、人工呼吸器を付けない選択をする比率は、女性の方が高いのだという。書中の記述から勝手に推測すると、これは、つまり、夫が発病した場合は妻が介護をし、妻が発病した場合は、離婚させられ、呼吸器も付けない、ということなのか。これはどういうことなのか。