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「私」不在の無責任共同体――笙野頼子「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」

絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男

絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男

一言でいえば、これは、「だいにっほん、おんたこめいわく史」の前哨戦だ。

「だいにっほん、おんたこめいわく史」(以下「めいわく史」)で全面展開される、オタク男たちが支配するディストピア国家が、ここでは八百木千本の視点から観察され、批判され、ぶった切りにされている。近未来小説というよりは、現代日本の知識人批判とでも言うものに近く、同時に彼ら自身の権威主義や暴力性を隠蔽しながらグロテスクな少女趣味に耽溺する心性の構造を剔抉して、現代日本の無責任体制を撃つ、という構図。

これはそのまま「めいわく史」に引き継がれているテーマで、「おんたこ」という言葉こそ使われていないが、ここで批判の俎上に上っている男たちの基本的な心性の構造は同じものだ。さらに、語り手八百木千本は、「説教師カニバットと百人の危ない美女」の語り手でもあり、その彼女が今作では「だいにっほん」から「ウラミズモ」に移送されることになる。その意味で、「カニバット」「水晶内制度」と「めいわく史」とを相互につなぎ合わせる蝶番のような位置にある作品でもある。

今作で問題にされているのは、たとえば以下のようなものだ。

小さい共同体の中に埋没してしまい、自分の自我と大きい世界を対決させる事の出来ない「祈りなき人々」これが私の見つけた次の新しい素材、現代日本で頂点を究めた、日本人の病的心性でした。
185P
たぶん、欲望や所有という行為の中で生まれたはずの「私」というか自我を、そんなものは存在しないと主張する事で、そこから生まれるはずの責任や苦悩を、なかったことにする、それが「知感野労」、「おんたこ」だということだろう。冒頭二十頁目くらいで解説されているのはそういうことで、ある地位を手に入れたなら果たさなくてはならない責任から逃避する、ということだと思う。さらに、その責任を共同体全体がなかったことにすることで、誰も責任をとらなくて良いという空気、状況、構造が存在しているという指摘だと思われる。自我が生まれ、内面が生まれ、共同体の神祇祭祀から独立した個人となったはずなのに、そこから生じる苦悩をなかったことにしたくて、共同体に再度潜り込もうとするグロテスクさを描こうとしている。

これはまえにthornさんが「めいわく史」評で言ったように、「日本文化の根底にある中心を欠いた視座」、ベタな言い方をすれば「空虚な中心」を基底にすえた日本を問題にしようとしているように思える。

余談になるけれど、「空虚な中心」、日本の無責任体制といえば、印象深いのは大西巨人の「神聖喜劇」で分析される「責任阻却の論理」だ。私はそれが書かれている前後数十頁しかまだこの大作を読んでいないのだけれど、簡単に説明すると、軍隊のなかの問題が起きた時に、下士官は必ず「忘れました」と言い、「知りません」と言ってはならない、という儀礼的慣習が存在する事が発端となる。ここから語り手が推論することは、もし、上官からの命令において否定的結果が得られた時、下級者が「知りません」と応えたならば、それは知らしめなかった上級者の責任となる。しかし、下級者が「忘れました」と言うなら、それは下級者自身の責任であり、上級者の責任は問われない。ここから、つまり、軍隊においてはつねに、上級者が責任を問われない構造になっているのではないか、と推理し、その究極は、上級者が存在しない天皇は最終的に責任をまったく問われない位置に存在するということを帰結しないか、と考える。命令が指示されて、否定的結果、失敗が出来した場合、その責任はつねに下級者に存在する、というなら、最終的な全権限を担う「統帥大権者が、完全無際限に責任を阻却せられている以上、ここで責任は、最終的に雲散霧消」するのではないか、と論じる。で、軍隊はおろか日本自体がそういう無責任の体制にあるのではないか、と。

ここで大西巨人が提示する天皇制の問題と笙野頼子が問う無責任の構図が果たして重なり合うものかどうかは、まだ微妙なところではあると思う。しかし、ある点でこの両者は関係していると思うし、笙野が天皇の問題をかなり初期から作品のなかに組み込んでいることは確だ。ただ、「西哲ライター」を批判する笙野が、そんなわかりやすい天皇制批判を作品に組み込んでくるかどうかは疑問。


●微妙な点

で、私は先に「めいわく史」から読んでしまったせいか、「絶叫師タコグルメ」がそれほど面白くは感じられなかった。この作品ではオタク批判が前面に出ているのだけれど、彼らの虐待的な少女趣味のグロテスクさや、権力を握っていながら自らが反権力の無垢な抵抗者であると自称する屈折した権威主義のあり方などは、「めいわく史」でのほうがより突っ込んで分析されていると思う。

それに、どうにも小説として単調な感じがする。狂騒的な文体がやはり魅力的ではあるのだけれど、今作ではそれが空回り気味に思える。今作で私が面白いと感じたのは、ブスである自分を戦闘的に自己肯定してみせる「ブ貌」関連のところ(ここはかなり笑える)と、「ウラミズモ」に移送された八百木千本の微妙な心境が語られる「センカメの獄を越えて」の部分だ。

メインとなるこの近未来国家での権力者、知と感性の野党労働者会議(ちなみに「めいわく史」では「知と感性の野党労働連合」。略称は同じ)の連中―知感野労批判のくだりは、「めいわく史」とかなり重なるので、それについての詳細はまえの「めいわく史」の記事を参照してほしい。ここで分析されている知感野労の心性の構造、オタク趣味が持つ少女趣味のグロテスクないやらしさの分析はかなり妥当ではあると思う。オタク自身による自己批判ともいえるササキバラ・ゴウあたりの論説と通底するような分析を、オタクでもなく男でもない人間がこれだけきちんとやってのけるというのは驚くべきことかも知れない。

ある男は女の子が好きなので女の子になりたい、仲良くなろうとして幼女に近づく、好きなのは女の子の肉体である、どうしてかというと女の子の内面は不可解だからである、同時に彼は女の子の内面を自分はよく知っていると何故か思ってもいる
これなんて、ササキバラ・ゴウの「〈美少女〉の現代史」の身も蓋もない要約みたいだ。

私が感じる問題は、知感野労批判の内容ではなく、書き方にある。後書き代わりの笙野頼子から作中の八百木千本に宛てられた近況報告で「超党派の悪、それも共同体由来の悪を「私」という単調な視点から観測していると不便になってきます」と、笙野自身が語っているような欠点があると思う。八百木千本の語る知感野労批判は、やぱりどこかで単調さに陥っていて、またその批判が正しければ正しいほどその単調さに拍車をかけてしまっている。

また、この知感野労批判それ自体が持っている構造上の問題がある。ここで批判されている知感野労たちは、完全に書き手の敵であり、容赦なく叩き潰してしかるべき存在という位置づけだ。現実問題として群像での合評のような書き手や笙野自身が出会ったさまざまな敵が、この作品の基底として存在しているのだけれど、それが小説として書かれるときに、仮借ない批判を差し向ける時に、どこか一方的で一本調子になってしまっているのではないかと思う。

これは作中で、違うことを書いている時、つまり「ブ貌」と「ウラミズモ」のことを書いた時の方が面白いと私が思ったことと関連している。ブスである自分を肯定し、戦闘的にブスであることを選択することで、「「ブスが自分をブス」だと言うこの体当たり的な反逆自体が、批評精神と攻撃と自己肯定の産物である」ことを宣言する戦略は、自虐をも含んだ強烈な笑いでもあり、同時に痛快な批判となって現われるという二正面作戦でもあった。これは「金毘羅」でも発揮されていて、戦闘的な自己肯定がとてもダイナミックな作品として結実するとともに、そこで噴き出す狂騒的な文体がきわめて効果的に働いていた。また、「ウラミズモ」に移送された部分でも、八百木千本がウラミズモに対して疑念を抱いて葛藤しつつあるという状況(プチ「水晶内制度」?)は興味深く読めた。

つまり、「私」を考えることが、同時に世界に対しても問い直しを迫ることになるというのが私が評価する笙野頼子のおもしろさだったし、それが小説に奥行きというかユーモアをもたらしていたと思うのだけれど、今作ではその側面が後退して、一方的に断罪しているような調子になっているところがある。つまり、「知感野労」という問題が、「私」自身の問題と乖離してしまっているのではないかと思う。

説教師カニバットと百人の危ない美女

説教師カニバットと百人の危ない美女

「説教師カニバットと百人の危ない美女」を読み直してみたけれど、カニバットでは、八百木の醜貌を延々と罵倒するファックス攻撃の嵐と、グロテスクなゾンビと化した美女軍団が、八百木千本の結婚観、恋愛観を矯正せんとするわけで、その女の存在をめぐる猛烈な応酬が笑いと批評性を呼び起こす。で、やっぱり「カニバット」のほうが面白い作品だと思う。「カニバット」では、古風な結婚観恋愛観にすがって八百木千本に攻撃を仕掛けるゾンビたちに対して、批判するだけでいいのか、と疑念を抱く姿勢があるのだけれど、タコグルメではそういう疑念はほとんど兆さない。それはもちろん、「ロリヲタ」だとか「知感野労」だとか「おんたこ」だとか名指された連中のメンタリティなんぞ八百木千本や笙野頼子の「私」の問題には無関係だから当然ではある。しかし、だからこそ、「知感野労」を素材として小説を書くことが作品の単調さに繋がっていると思う。

実は「めいわく史」を読んだ時にも、上記のように「私」と「おんたこ」とが截然と区別されてしまっていないか、と感じてはいた。しかし、「絶叫師タコグルメ」を書くことで、単一視点の単調さを自覚したからか、作品として「めいわく史」はかなりアップグレードされていて、構造も複雑になり、語り手の一方的な断罪という側面はかなり薄れている。それはタコグルメと比べるとはっきりしている。対象を批判することだけでは一方的になりすぎてしまう、だから「めいわく史」では、その起源を探ろうと、宗教的歴史的なモチーフが後半現われてきたのだと思う。

「タコグルメ」では捕まえきれなかった現代人、現代知識人の病理を「おんたこ」と名付けることによって、「めいわく史」でより深く追求しようと言うことだと思う。ただ、いまの段階ではまだ私にはその「おんたこ」なるものが明確に像を結んでいない感じがある。だから、これから書き継がれる「めいわく史」三部作の残りの二部で、どんな展開をするのかがとても気になる。


参考
私の「おんたこめいわく史」記事
笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」
Panzaさんのタコグ評
遊郭というシステム