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笙野頼子「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」群像2006年8月号

群像 2006年 08月号 [雑誌]

群像 2006年 08月号 [雑誌]

群像1月号に発表された「だいにっほん、おんたこめいわく史」の七ヶ月ぶりの続篇。だいたい三百枚弱。

前作の狂騒的な文体とはうってかわって、かなり落ち着いた雰囲気がある。冒頭の木の描写など、静かななかに嵐を訪れを感じさせるようなものがあり、それが今作全体の印象につながっている。次作を読まないことには確定できないが、今作は、次の段階へ向けての地固め、足慣らしという位置づけになるのではないかと思う。

今作では、前作「めいわく史」で首を吊って死んだみたこ教信者埴輪木綿助の妹、埴輪いぶきをメインにして語り始められる。このいぶきという女性、いったんおんたこの遊郭で殺されていて、それが蘇ってきたという存在だ。そして、舞台となっているS倉では、この死者の蘇りという現象は日常的な光景として定着しつつあるようだ。

いぶきは何かを手伝おうと街をうろつき、そこから見える情景のなかに、2060年のだいにっほん、S倉の置かれた状況が見えてくる。「めいわく史」で描かれたみたこ教弾圧事件からもずいぶん経ち(実際何年経ったのかははっきりしない)、死者の蘇りという異常事態も、おんたこ政府の黙殺により特に問題化しているようにはみえず、とりあえずの落ち着きがあるようだ。

しかし、蘇った死者が、おんたこアートでできた小さなフィギュアに入り込み、それを買ったおんたこを殺してしまうという事件が相次いで起きている。それもまたおんたこは無視している。おんたこ殺しのフィギュアに死者を入れる施設などがあるにもかかわらず、あまりアングラな雰囲気はない。今作では、おんたこの無為無策ぶりがかなり強調されている。

話がとくに進んでいるわけではないが、今作の時間軸は「めいわく史」から数十年ほど経過しているらしいことがわかる。一応確認した限りでの作品の時間軸を書いてみる。(全部チェックしたわけではないので、明確な記述があれば訂正します)

浄泥の死亡年 1760年
野之百合子の生年 1950年代
ウラミズモとS倉の利根川の橋 2002年
めいわく史 2010年あたり(百合子失踪から十年と数えて)
おげれつ記 2060年

めいわく史(みたこ教弾圧事件)がいつの出来事なのか見た限り判然としなかったが、百合子失踪の時期から逆算すると、以上のようになる。「めいわく史」からおよそ五十年が経っているらしい。しかし、数十年経ってるとすると不思議に思える点もある。

「おげれつ記」は二、三度読み返したが、前回の延長上にあるので、あまり書くことがない。これだけだと記事として短いかと思ってまとめずにいたら読んでからずいぶん時間が経ってしまった。

目新しい点としてはネオリベラリズムへの言及がある。それについては参考に挙げられている以下の本は問題を知るには適当かと思われるので、IMFがどうしたのか、という人は読むと良いと思う。私も、IMFの下りはよくわからなかったが、融資と引き替えに政策への干渉(ネオリベ化への)を行っているというのを読んで腑に落ちた。

ネオリベ現代生活批判序説

ネオリベ現代生活批判序説

IMF Wikipedia

作品の感想としてはPanzaさんのこのエントリがある。ポイントを網羅していて私の記事より有益。

さて、Panzaさんは様々な事柄が「線的にではなく全体として族生している小説」と評している。「だいにっほん」の連作で大々的に取り入れられている新機軸として、複数の人物の複数の語り、複数の思考が重層的に折り重なっていることが挙げられる。一人称での暴走気味にドライブする語りが特徴的だった笙野作品としては初めてではないだろうか(複数人物を据えた作品があったか思い出せない)。

もちろん、全三部予定の大部の作品を成立させるのには「水晶内制度」や「金毘羅」的な一人称文体では無理だということなのだろう。前作でも、火星人落語やら「おたい」やら小説内小説やら、とかなり多彩な語り口を用意して見せたが、今回はそれほど派手ではない。が、「おげれつ記」では、各人の思考がたどられていくうちに、焦点人物となっている人物のあいだに微妙に緊張関係が存在することが示唆されている。冒頭での主人公、埴輪木綿助の妹、いぶきは、兄に対しても、知り合った「おたい」に対しても時に批判的なことを語る。また、作中での「笙野頼子」の語りに対しても、部分的にしかわからないといい、また笙野らに対しても距離のある態度をとっている。

作中での「笙野頼子」が主張するような様々なおんたこ批判は、確かに「だいにっほん」連作の根幹でもあるのだけれど、決してそれが小説内で無批判に是とされているわけではない、ということだ。いぶきのような人物によって、それは不断に相対化され、批判的に眺められることになる。いぶきにとって、「笙野頼子」らの言うことにはどこか違和感がつきまとい、どうにも信頼しきれるものとは思われていない。これは、「水晶内制度」がそうだったように、見えなくされていたものを見えるようにする、という抵抗の運動が、またさらに何かを見えなくしてしまうのではないか、という疑念から来ているように思う。そのような疑念が、今作では複数人物の相互の距離感によって表現されているのではないか。

小説のストラテジー

小説のストラテジー

佐藤亜紀が「小説のストラテジー」で読み込んでみたように、笙野頼子の文体には相互に矛盾し合うような要素を一緒くたにしたような猥雑さがある。単線的にある主張を述べるのではなく、一つを語ったと思ったらそれに反する要素がすぐさま投入されて、相互矛盾する諸要素が反発しあいながら語りを駆動するところがある。それが「だいにっほん」連作では一人称文体での異様なドライブ(「金毘羅」「水晶内制度」)を抑えつつ、登場人物同士の距離感として、面的な広がりを持つように構成されていると考えられる。まあ、長いものを書こうとすればこうなるのは当然か。

●宗教に関して
作中で言及されている、熊楠の合祀反対論。
●南方熊楠 神社合祀

村上重良「国家神道岩波新書

国家神道 (岩波新書)

国家神道 (岩波新書)

宗教学者による国家神道の概説書。この本には様々な批判があるが、通説的な手堅い概説としては良い。(これへの批判として、葦津珍彦や新田均神道見直し論があり、さらにそれらへの再批判として子安宣邦の「国家と祭祀」が書かれている。子安のは買ったのでいずれ読む)

冒頭で村上が解説している宗教学における二分法が興味深い。そこでは、民族などの共同体のなかで生まれた信仰と、特定の創始者を持つ宗教とを分けて、前者を民族宗教自然宗教、後者を創唱宗教と呼んでいる。民族宗教とは、神道、原始宗教、ユダヤ教ヒンズー教道教などの、共同体に由来し社会的共同体と宗教的共同体が一致するもので、創唱宗教ではそうではない。これは伝播形式による分類で、つまり、民族宗教とはそれが生まれた共同体以外には広まらないもので、創唱宗教は世界的に広まりうる普遍性を持ったものだと言う。

民族宗教もまた発展していくと創唱宗教と類似していき、特定集団以外にも進出していくが、神道はそれとは異なった道をたどるという。神道は、仏教、儒教道教キリスト教などと習合し展開してきたが、核心は「原始宗教以来の共同体の祭祀」であり、「日本社会の外に伝播する条件を完全に欠いた」「原始宗教的な特異な宗教」だと村上は述べる。

「改めて指摘するまでもなく、原始社会で営まれる民族宗教は、小規模な社会集団の全成員による、生活と生産の共同体を維持するための儀礼であった。民族宗教の集団は、そのまま社会集団であり、この共同体から脱出することは、当然のこととして、その人間の死を意味した。共同体の成員は、個人として存在しているのではなく、その集団の構成分子としてのみ存在していたからである。かれらには、神を捨てる自由も、神を選ぶ自由も、本来、ありえなかった。
 近代天皇制国家が強調した家族国家観も共同体意識も、その淵源は、民族宗教の構造原理に発している。民族宗教の原理は、個人的内面的な契機をまったく欠いた、どこまでも原始的な宗教観念によって組み立てられており、近代社会はもとより、成熟した封建社会に置いても、とうてい通用するべくもない素朴な思考であった」
P11・強調引用者
ここで、笙野頼子がしばしば用いる用語を上の文脈につなげると、こうなる。

基層信仰=民族宗教=共同体

普遍宗教=創唱宗教=個人

共同体の祭祀、儀礼といった自然発生的なものを起源に持つ民族宗教と、創始者という個人が起源にある創唱宗教との違いはわかりやすい。笙野が、個人の内面を強調し、明治政府の宗教政策を批判するのは、この違いを意識してのことだろう。そして注意すべきなのは、神道が政府に国教化されることには猛烈に抵抗し批判するが、民俗的な信仰を拒否するのではなく、あくまで個人の立場からそれを信仰しようとしていることだ。明治政府を、基層信仰を個人的内面の圧殺のために用いたとして批判するが、笙野は逆に、基層信仰に個人の内面という問題を導入する試み、といえるかも知れない。