「壁の中」から

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移民の歌ヨーデル風電気ノコギリ演奏――笙野頼子「説教師カニバットと百人の危ない美女」

説教師カニバットと百人の危ない美女

説教師カニバットと百人の危ない美女

タコグルメ記事を書くときに読み返したのだけれど、ちょっと気になったのでカニバットをさらにもう一度ざっと目を通してみた。

やっぱりカニバットは傑作だと思う。笙野頼子という作家の特質、美質がわかりやすくかつうまく出ている。ホラー漫画経由かと思われる笑えるスプラッタ、徹底して私に即してその内面をサラしてしまうことで既成の通俗観念が隠蔽するものを容赦なく暴き立てる強靱さ、そして悪趣味でぶっ飛んでて強烈な独特の言語感覚。「醜貌の女性」といういまでもまだ「見えない存在」っぽい問題について、徹底的に自分を素材にすることで可視化し得た希有な作品。

この小説では、偏執的な結婚願望(結婚によって救われる)に取りつかれた女ゾンビたちが、結婚していないくせにその境遇に不満を抱いていない主人公八百木千本に、独身・醜貌の惨めさを認めさせようと徹底的な攻撃を繰り返してくる。で、「巣鴨こばと会残党」を名乗るゾンビ―百人の危ない美女―たちのその攻撃、八百木千本のファックスに一日で二万以上の紙代を費やすほどの文書が送られてくる。

その文面がまた強烈。上品な言葉遣いを志向していながら書かれている内容はきわめて差別的かつ暴力的で、古風な結婚観や道徳観、差別的な女性観が、グロテスクなまでに誇張され戯画化された形であらわになっている。理想の女性がどうの、こんな女は男に嫌われる云々、といった男尊女卑思想の露骨なパロディが、延々悪趣味な文章でつづられるあたりは「レストレス・ドリーム」などでも用いられた彼女の“得意技”といっていい。そこでは単に言論的に暴力的ばかりではなく、じっさいにゾンビたちによって行なわれた様々な虐殺行為が連綿と語られる。こういうところでグロ・笑い描写で笙野の文は冴えまくる(それはそれでどうだろう)。

対する八百木千本(作者笙野頼子とは別人)は、自らをブス作家であると規定し、自分の醜貌を意識的に鍛え上げて芸能にまで高めていることを自負している。ここが“笙野頼子”と”八百木千本”の顕著な差を見せる部分で、作中では繰り返し注釈の形で笙野による八百木への突っ込みが挟まれたり、八百木千本が笙野頼子のブスであることの自覚の足りなさを非難したりするという、妙な構造が現われてくる。たとえば、こんなところ。

自覚のないブスの作家というものを私は嫌いだ。それは決して私が容貌差別をしているからではない。つまり、芸能者としての私が笙野にある監視意識を持っているからである。と言っても別に尊敬し嫉妬する、だとかまたは、親しみ縁を感じ競争する等の、美しいライバル関係では決してない。この名匠八百木千本に匹敵する程のまずい顔を持ちながら、なんら芸能に生かせず滑っている、その勘の悪さが私の、「名人気質」に引っ掛かってくるのだ。
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と、“笙野頼子”へと罵倒が延々投げつけらるばかりか、最終的には倍角文字で“笙野頼子”を大罵倒大会大開催。自虐的ともいえるのだけれど、それが自己憐憫に結びつかない荒々しさがあって、痛快な笑いとして描かれている。

後半、八百木千本がなぜ巣鴨こばと会残党による攻撃を受けたのかを想起する下りで、封建的な結婚観、道徳意識、女性観を内面化しすぎてゾンビ化してしまった女性たちの苦しみへ共感する視線が生まれてくる。醜貌ゆえにか、封建的な結婚道徳にすがるよりほかなかった女性たちは、当の男尊女卑的女性観をより深く内面化していく。そもそも、巣鴨こばと会残党たちが崇拝する説教師カニバットとは、「タカ派文化人にして女性差別的女性論を書き続けた貴族趣味エッセイスト」であり、「古風な日本の妻との正しい結婚」やら「きれいごとと男尊女卑とを並べたてたような「男の物の見方」講義」を女性に「説教」するというねじくれた存在だった。

八百木千本もまた、

例えば夢の中で、私はよく女ゾンビになり切ってしまう。そして「こんな古風で貞淑な心の美しい賢婦なのに、時代が悪いせいで結婚出来ない」という恨みつらみを、実体験さながらに夢の中で見せられるのだ。
という体験を経て、自分自身が結婚もしないで満足していることを、結婚したくても出来ないこばと会の面々の前で悪意を込めて語ってしまったことで、彼女たちの逆鱗に触れてしまったのだと理解する。そこから、恋愛と結婚を拒否した立場から世の女性たちに感じていた優越感を省み、その苦しみの根源は何かと問うていく展開はなかなかに感動的だ。

ブス、私にとってそれは栄光、そして至高、そして選良、そして歓喜、でした。つまり、実は私はまったく自己完結した幸福な存在に過ぎなかったのです。その癖、私は被害者になったふりをしていたのでした。ミステイクです。ご婦人方、美人のご婦人方、美人であったが故に不幸で気の毒で、私よりもはるかに選ばれた怒りと憎しみを込めて結婚に突撃し玉砕したみなさん、私が間違っていました。この通り謝ります(ちょっとえらそうだわ――笙野注)。私は自分のオブセッションを晴らすという作家としての欲望に邁進しすぎて、ついあなたがたの苦しみを忘れたのです。その忘れ方は鈍感で変に恵まれていて、例えば、女の小説家をアカデミズムの理論で仕切れると思っている、マスコミ男等に妙に人気のあるあの団塊女性フェミニズム学者のようだったのですっ。でも私は、私こそは、これからは本当に反省して美人を差別しないで、容貌にこだわらぬひとりの人間として生きていきたいのです。
(中略)
 なんという受難。あなた方はサイコパスでありながらただ女性であるというだけであらゆる反社会性の道を閉ざされていた。(中略)悪の主体性を奪われたあなた方に選べる大犯罪への道は、ただ誰かの情婦になって犯罪に荷担する事だけ。そしてまたたとえその大事件の実は自分の方が真の実行者であったとしても、結局自分は「男を唆した悪い女」という形でしか悪の栄光を受け取る事が出来なかった。犯罪にすら「女流」扱いがある。
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これはずっと続くのでこれくらいにして(これ以降もかなり重要な指摘を含む)、まあここでの過剰に演説調の部分は結局こばと会残党に無視されて終わってしまうのだけれど、つまり、この小説は女ゾンビの露悪的な語りを通して、フェミニズムにすら無視されてきた女性たちの怨嗟を掬いあげようとしている。封建的な女性観を否定しつつもその恋愛勝者敗者のヒエラルキーを固持することでこぼれ落ちてしまう醜貌、未婚などの「上品でない」問題を、笙野頼子は暴いてみせる。その批判は単なる批判ではなく、自分自身への鋭い切り込みとともになされていて、その二面作戦を可能にする自省の生々しさと戯画化の悪趣味さがブレンドされたスタンスは、笙野頼子の最大の美(!)点の一つだと思う。


で、忘れてはならないのは説教師カニバットこと、彼女たちの背後にある男の傲慢さに満ちた存在だ。八百木はこう言う。

私は知っている。最悪のこばと会よりも凶悪なもの、それはごく普通の善良な男性。
こばと会の女性たちが内面化して/せざるをえなかったのは、男に都合の良い「良妻賢母」で貞淑なおとなしい主体性のない女だった。カニバットは自身のタレント性を駆使してそのイデオロギーを振りまいていた。それは間接的なかたちでの男の欲望の発露に他ならず、そのイデオロギーをささえる多数の男をやはり問題にしなくてはならない。だから、当然今作の続篇は「百人の「普通」の男」と題されることになる。

ただ、一介の普通の、善良ではないかも知れない男ではある私としては、「悪いのは男」みたいな感じのオチには諸手をあげて賛同しきれないものも感じる。「普通の男」であること自体に失敗する男もいるという状況があるわけで、女性を縛るイデオロギーは同時に男を縛る物にもなりうるし、そのところが笙野頼子の最近のオタク批判に同意しつつも納得しきれない部分だったりもする。私が「タコグルメ」を微妙に思ってしまうのもそういったバイアスのせいかも知れない。しかし、だからといって、僕も被害者なんだ、共闘しようよなどというヤツはただの反動バカだ。そこを履き違えてはダメだと思う。


作中のバラエティ溢れるイヤガラセ攻撃のおもしろさは格別だけれど、「移民の歌ヨーデル風電気ノコギリ演奏」というのは普通に聞いてみたいと思った。ちなみに、ヨーデルなロックなら存在する。オランダのバンドFOCUSの「HocusPocus」、邦題は悪魔の呪文。途中のヴォーカル部分が面白すぎる。

ネットを調べると、説教師カニバット、モデルは草柳大蔵という評論家ではないか、とある。聞いた事のない人だけれど、amazonで調べてみると、確かにそれっぽい本を出している。もしそうなら、カニバットはモデル本人が存命中に書かれたわけか。あと、ドク朗のモデルが村崎百郎ではないか、というページもあった。よく知らないけれど、ペヨトル工房の編集者だったらしい。まあ、余談程度に。