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笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」追記・「群像」2006年1月号

二回目は画像サイズを大きくして載せてみました。

群像 2006年 01月号

群像 2006年 01月号

笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」追記

前回の記事に追記しようと思ったら文字数制限を超えてしまったのでここに書いておきます。

●火星

後半部分がわからないわからない、と書いてきたが、本当にわからないのは「火星人」だ。作中には何度も火星人についての言及があるのだけれど、具体的な像がぜんぜんわからない。記述を拾っていくと、どうやら火星と連絡があり、火星人というのも、比喩ではなく実在しているという設定のようなのだけれど、彼らの存在がどのような意味をもっているのかが判然としない。

後半の語り手の一人である埴輪木綿助が火星人だったりして、火星人落語という、ほとんどおんたこのいやらしさだけが前面にあるような奇妙な落語を語るシーンがあったりして、違う文化圏として書かれているようでもある。

また、七歳までに性別が判明するとかしないとか、火星人のためのスーツを着て体を地球人の形に変える纏足みたいなものが用意されていたりということが説明される(彼らの実体はいわゆるタコ型の「火星人」だろうか)が、彼らがいったい「にっほん」でどんな存在なのかはおぼろげにしかわからない。「にっほん」のなかでも特に差別的に扱われている存在だと言うことぐらいはなんとなくわかるのだけれど。火星人少女なんかは金のために海外の娼館で働いていたという「からゆきさん」を下敷きにしたようにも思える。

おんたこ、みたことタコのイメージが多用されていて、「おたい」の語りのなかにもタコっぽいものが出てくるあたり、この作品では「タコ」が重要な意味を持っているはずなのだけれど、この火星人がどんな意味合いで作品に登場しているのかはちょっとわからない。


●群像二月号の創作合評について

ところで、二月号には創作合評で笙野頼子「だいにっほん、おんたこめいわく史」が取り上げられているのだけれど、これがひどい。すでにいくつかのブログでも批判的なコメントがなされている。ただ、わざわざ合評のためだけに群像買うのはばからしいので覚えている範囲でだけふれる。

合評のメンバーは高井有一玄月田中和生の三氏で、特に玄月氏の発言がひどい。最初に笙野が作中で百五十枚を三日で書いたという部分について、むっと来たとか言っているところは個人の感じ方だからどうでもいいのだけれど(私は前半から自省的な後半に移るクッションだと思う)、氏はどうにも笙野頼子が気に入らないようで、文芸誌を読んだことのない人間が、これをここまで読んだらどう思うか、なんてことを言い出す。

氏はほかのところでもその喩えを持ち出して、一般の読者がこれを読んだら、文学に対する畏れや憧れをもてなくなるだとか批判しているんだけれど、そんなものは自分がわからないということのいいわけとして持ち出されただけで、こういう批判の仕方は単に卑屈だ。わからないならわからないといえばいいだけだ。私にしてみれば、そんなことをいっている玄月氏自身の群像掲載作「人生の決まり方」の方がよほど、「一般の読者」に文学ってこんなんでいいんだ、という軽侮しか与えないつまらない作品だ。

あと、「おんたこ」が内輪ネタに甘えている、と批判している人がいるが、これも、自分がわからないということの理由を作品の側に投げつけているだけの卑屈な態度にしか見えない。じっさいに笙野頼子の小説は具体性や固有の状況を問題にするあまり、作品として前知識を要求しかねない部分はある。けれど、合評では、自分が何を言っても許される存在だと言うことに甘えている、などという意見すら飛び出してくる。「文学」がだめだとか言う連中に真っ向から批判していたらどんどん仕事をする場がなくなっていったとか、それでも数人の友人や編集者は残ってくれた、と書いてある部分を穿ってとったにしては穿ちすぎで、なんとか作品を否定しようと言う悪意ばかりが感じられる。

それにしても、この合評者たちの「読めなさ」は致命的なほどで、自分たちのそういった言説のあり方が、当の「おんたこ」で批判されているものと同型同質であることに気づけない。それに“おんたこ”が何なのかわからないというのは文字通り書いてあることそのものが読めていないとしか言いようがない。

「おんたこ」を肯定的に捉えているのは田中和生だけだが、彼もかなり的をはずしている。田中は後半で小説内小説が挿入されている理由を、作者自身がフェミニズム的な図式の限界を感じたからだとか、大人の女になることがどうとかロリコン的な欲望がどうとか(覚えてないので)言っていたが、文字通り読めば、作中ではそんなことまったく書かれていない。小説内小説が必要とされるのは、笙野が「私」の領域を保持して作品に臨んでいるからであって、田中和生が述べているような理由ではない。また田中が致命的なのは、「おんたこ」をフェミニズムの枠組みでしか見ていないことだ。フェミニズムの理屈をいろいろこねて語っているところはほとんど関係がないようにしか見えない(これが西哲ライターか)し、「水晶内制度」の読みまでおかしかったりして、いったい何を読んだのかと思う。

とにかくひどい合評で、いくらなんでも普通に読めばここまで読めないなんてことはないと信じられないくらいだ。が、笙野頼子が「おんたこ」や「徹底抗戦! 文士の森」で批判しているものが実際に目に見える形で存在してることを証明しているという点では面白い。


●群像一月号掲載のほかの小説

笙野頼子目当てとはいえ、せっかく買ったので小説をあらかた読んでみた。

舞城王太郎「SPEEDBOY!」

もう読まないような気がするといったけれど早速読むことになった舞城王太郎
七篇の断片が少しずつずれながら繋がっていく構成はなかなか楽しいし、最初の方の空中からたくさん落ちてくる石を踏み台にしてどんどん空に駆け上がっていく男の描写はとても面白かった。ああいう馬鹿っぽい幻想シーンは好きだ。ただ、最終的になんかセカイ系っつうか自意識の話にまとまるあたり、すごい安易な感じがした。疾走感と軽快さはいいんだけど、なんで今更こんな話なのか。

群像誌上では巻頭に笙野頼子、次に舞城王太郎って並んでいて、饒舌でドライブ感のある文体が特徴的な二人の作家を並べてみたという編集なんだと思うけど、二人の文体ってかなり対照的。笙野頼子の文章はサイバーパンクというか、説明しなきゃならんような事についてもとりあえずすっ飛ばしていって次に次にといくんだけど、そのじつ二度読みを要請するような書き方になっていて、飛ばして読むことができない(読むのにえらく時間がかかる)。逆に舞城は饒舌に見えてもかなり計算して読みやすいように書いているので、どんどん先に進まされてしまう。昨日のリンク先では笙野を交響曲、舞城をメタルにたとえてたけど、言い得て妙だと思った。笙野の文章は特に語りの位相自体に頻繁にずれが生じたりしてしまうことで、ドライブ感があるんだけど非常に重い感じがある。

桐野夏生「タマス君」

だまされて友人の引きこもりの息子を引き取ることになった四十過ぎくらいの独身女性が、その引きこもりと肉体関係を結んでしまう。以上。
はあ?と思った。なんか、中年女性の性的妄想がそのまま垂れ流されてる感じ。

清岡卓行「点と線」

基本は普通に私小説なんだけど、最後は多少驚かされる。

玄月「人生の決まり方」

普通の「文学」っぽい小説。幻想を入れてくるところは多少面白いけれども、年を食って自分の人生を微妙な気分で自己肯定する話。文芸誌に毎月一篇は載ってそう。

赤染晶子「花嫁おこし」

ある意味、一番気になった小説。名前を初めて聞いたし、小説を読むのはもちろん。
深堀骨の笑いを薄くして文学風味を付け足した、といって誰に伝わるかはわからないけど、そんな感じ。極端に短く切りつめられた文章をどんどん連ねていく文章は逆にわかりづらくなるほどで、独特の緊張感があるが、話がかなりよくわからない。ちょっとファタンジーが入っている不思議な話なんだけど、話がどこに向かっているのかが判然としないまま最後まで読んでしまった。いまもよくわからない。
とにかくよくわからない。
このリンク先の人も書いてますが、バスクリン不可」が耳に残る、そういう小説。

小島信夫を読むために買った新潮2月号には、この人の随筆が載っていた。短い文章をどんどん連ねて訳のわからない方向にがんがん進んでいくのはほとんど小説。面白いけどわけわからん。あれか、絶対自分に突っ込まない岸本佐知子、か。ボケ通しか。

調べてみたら2004年下半期の文学界新人賞受賞者とのこと。まだキャリア一年程度の人なのか。というか、何者なんだろう。今号笙野以外で一番気になった作品。

町田康宿屋めぐり(1)」

恥ずかしながら読んだことのなかった町田康をはじめて読んだけれど、面白い。独特の文章とSFと時代劇が一緒くたになったような妙な世界観が楽しい。これ、石川淳の「六道遊行」っぽくもある。あと、作中の「へいっ」と返事してしまう場面が笑えた。これは連載小説の第一回だけど、この次群像を買う予定はないんで、町田康のほかの小説を読もうと思う。