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「普通」の男とは誰か――笙野頼子「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」・2

絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男

絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男

私は知っている。最悪のこばと会よりも凶悪なもの、それはごく普通の善良な男性。
説教師カニバットと百人の危ない美女
カニバットからもう一度戻って、続篇の「絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男」をざっと拾い読み。

作中での知感野労批判が一面的ではないか、という疑念を書いたけれど、その前に、作中での「知感野労」というのが具体的にどういうものなのかを見てみる必要がある。「知感野労」はイコール「オタク」ではないけれど、「オタク」的なものを含んでいることも確かで、では、どう関係しているのか、という問題がある。

「徹底抗戦! 文士の森」を読んだ人や笙野頼子の純文学論争を追っていた人ならわかるとおり、ここでタコグルメおよびそれに類する知感野労と批判されているものの原型は明らかに大塚英志だろう(もちろんそれ以外の連中も含むのだけれど)。戯画化され誇張されているし、あくまで笙野頼子による大塚英志観をカリカチュアライズしたものではある。そのせいか、「日本の知識人」的問題と「オタク」的問題とが一緒くたになっているという感じを私は持っていた。とはいっても笙野が見いだしたオタクと知識人とに通底するものがあるのも確かだ。

一般の「オタク」や「ロリヲタ」連中が国家権力を牛耳るという想定は現実的とは言い難い。むしろ、彼らの消費するポルノグラフィはいまや表現規制の対象になりかねないという状況もある。まあ、それは国がオタク産業を国策化しようという動きと連動しているかららしいのだけれど。雑多な文化世界から無害なものと有害なものとに区別して無害なもののみを称揚する動きがあり、たとえば秋葉原の都市計画は明らかにそれを映し出している。

現実的ではないとはいったが、近作で笙野が描き出す国家権力化したオタクという設定にはけっこうリアリティがあるようにも思う。ひとつにははむしろ権力論との関係で、酒井隆史らがいうように、権力とは常に自身をアンチ暴力の側に置こうとするということとかかわる。知感野労やおんたこの作った国家が、つねに反権力を標榜することときわめて相似の状況だ。

笙野の描き出す国家ではなぜつねに反権力を標榜するのか。そして、それを支える「普通」の男とはどんな人間なのかという問題がある。ここにリアリティが兆している。たとえばThornさんが「おんたこめいわく史」評でこう書いている。

だから本来批判されるべきは、大塚英志柄谷行人小泉純一郎などの文化人知識人為政者の類ではなく、彼らを暗に支えているもの、例えば「やはりメイド喫茶はもはや日本の文化ですね。サブカルこそがこの国の華。儲けるためには萌えですよ、萌え!」などと、被害者意識を装いつつも何の躊躇いもなく口にしてしまい体制翼賛に乗っかかる、名もなき無数のイデオローグたちの拗けた性根なのであろう。
この指摘は妥当だろう。笙野頼子は「タコグルメ」の作中でネット内キャラクタ山墓二円という男を設定し、こう描いている。

どうせパソコン内の存在なのだから、顔もIQも素晴らしくし、サキソフォンマイケル・ブレッカー並みの腕前とでも単に設定しておけば良さそうなものだが、しかしそれが出来ない事情というのはいかにもこの国らしい。というのも二円とはこの国の「普通」の男を表徴しているからだ。てっとりばやく言えば、何の取り柄もないのに受け身のままで、つまりいっさい自発的欲望を表現せぬままに特別な存在となり、ガールフレンドをとっかえひっかえし、痩せ型キレイ系の彼女と恋愛をしておいて、その後母性的美少女と結婚したい、というような、要はきつい性妄想だけを持っている「普通」の男の代表であるからなのだ。そのため本人は何もかも低レベル、一方、周囲の女性は低年齢がよりどりみどりなのに全員くっきりした二重瞼、ブリブリ、令嬢ばっかりなどという非現実的設定の中で何もかもを進行しなければならないという無理が生じてきているのである。
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 そういうわけで、この国の「普通」の男達が二円に同化するというか自己を投影してうっとりするために、二円にうかつな長所や特技を持たせてはならないという縛りが掛かっていた。というのも知感野労達はとても傷付きやすく、例えば文学が一行も読めない知感野労が、作家全員に「死んで貰いたい」などと言うのは無論の事、プロの音楽家や、サッカーの選手等はその存在を想像するだけでも「普通」の男達にとってはトラウマになるのだった。
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二円は受け身の癖にプライドが高く、自分より小さい子供が自発的に戦って命を捨ててくれないと嫌なばかりか、彼女らが自分より強い敵を倒して、つまり二円より強い女の子になってしまう事にも我慢ならないからだ。なんでも負担に感じるヤツなのである。その上二円は相手に負担を感じると速攻で死んで欲しくなるという「普通」のタイプに設定されていた。
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この二円をとことん保護することがこの知感野労共の国是なのであった。
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彼らが二円をカッコ悪い設定にしておくのは、決して現実的で覚めた性格だからではない。僻みに僻んだ自分というものを保持したまま、ひたすら都合のいい妄想の世界に突入したいというだけの事なのである。
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笙野がとりだす「普通」の男とは、一言で言えば「傷つきたくない男」のことだ。傷つきたくないというのは、この場合ダブルスタンダードの自分だけは傷つきたくないという意味で、まわりの人間が自分のために傷つくのはかまわない、という人間のことを指している。笙野頼子が「知感野労」や「おんたこ」という名で指し示そうとしたものの一端は、知識人だろうがオタクだろうがその他大勢だろうが差異はないこの性格類型そのものだろう。

上記の引用文はほとんどギャルゲー、エロゲー(本文中にも出てくるんだけど、笙野頼子エロゲーをやったんだろうか)のたぐいを指しているようにしか読めず、無批判にそれを消費するオタク達をも批判している。だから、大塚英志がタコグルメのモデルだろうとは思うが、もうひとり、笙野が敵視しているものを体現しているのは「電波男本田透だと思う。笙野頼子本田透を知っているのか、本を読んだのかどうかはわからないが、笙野の批判する対象とかなり似ていることは確かだ。

電波男」関連の本田透の、恋愛資本主義批判にはそれなりに説得力もあるし、被差別階級「オタク」「キモメン」からの反抗としては肯定できる部分、価値のある部分もないではないけれど、やはり同意できない部分が多すぎる。本を貸しっぱなしにしているので、本文を当たれないので粗雑な議論になってしまうけれど、一言で批判すると、本田透の掲げる恋愛至上主義が、その内実は私を全面的に受け入れよ、という要求にしか見えないところが挙げられる。

本田透は女性を自分を全面的に受け入れ、癒してくれる存在としか見ていないのではないかと思ってしまう。傷つきやすく、弱い僕を受け入れてよ、と主張するだけで、ではあなたは相手の女性を全面的に受け入れることができるのか、と問わずにはいられない。だから本田透は自分を受け入れてよ、と主張することのない二次元の恋愛に没頭するのだろうけれど、この思考それ自体が非常に一方的、いってしまえば差別的なものを含んでいる。本田透がときに保守反動的な性道徳と野合してしまうのはそのせいだ(他人の意見で申し訳ないけれど、ここ等参照トラックバック先も見ておくといいです)。

本田透がしばしば、オタク文化は経済も潤すし、「萌え」は世界を救う的なことを夜郎自大に語っているのに対し、正面から「んなわけねーよ、けーっ」とボコボコにしてしまうというのがまあ「タコグルメ」だといっても差し支えない(かも知れない)。(参考、(O^〜^)さんのレス

自らが醜貌であると宣言し、その自己をサラしていくという戦略面でみれば、笙野頼子本田透は同じスタートラインに立っていたとは言えるかも知れない。しかし、その後二人は正反対の方向に駆け抜けていった。

笙野は近作で「傷つきたくない男」たちが権力と野合したときに現われる脅威を書き続けているのだろう。その脅威とは、男が決して傷つかないことを制度的に構築した世界はいかなるものか、という実体験にして思考実験であり、「私」を隠蔽しようとする構造の歴史的経緯の探索でもある。

で、笙野は繰り返し宗教小説を書こうとしている、と述べている。そしてことは律令制の時代にまでさかのぼるというのなら、やはり天皇は避けて通れない問題のはずだ。「古事記」に出てくる各天皇は、それぞれカムヤマトイレビコノミコト(神武)などの名で呼ばれ、当時は天皇という称号では呼ばれておらず、日本という国号もまた律令制の時代に制定されたものだという。律令国家の時代というのはつまりいまの形の日本の原型でもあるわけで、そこまでを射程に入れようと言うのなら、はずせない問題だと思われる。

というより、「傷つきたくない男」がこちらにいるとして、もう片方には無限に責任を阻却された、決して「傷つかない男」たる天皇が位置するのではないか。Panzaさんに言われて思い出したけれど、一ページ目から「さるところ」(たぶん皇居)が出てきたりするわけで、そこらへんの文脈を意識はしているのだろう。と、なんとオタクと天皇が同じ俎板の上に乗ってしまう訳だけれど、こうなってくるとまるでトンデモ文芸批評をやっている気分になってくる。


知感野労批判が一面的、ということに関してはまだよく考えがまとまらないけれど、作中で八百木千本の命が助かるのは、ウラミズモの資源と八百木千本が交換されたからで、このことはきわめて重要だ。なぜなら、ウラミズモの「資源」とは「水晶内制度」を読んだ人ならご存じの通り、精密な少女の身体データだからだ。いわばウラミズモと知感野労との共犯関係のなかに八百木千本は巻き込まれている。同時に、ウラミズモも知感野労の国も両極端であって、なおかつ双方が微妙な共犯関係を築くことで成立しているという奇怪な状況は、やはり一面的と言って済まされない複雑さを含んでいることは確かだ。