「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

働かない者は人間ではない(?)――内田樹「不快という貨幣」

この記事は前回の続きでもあるので是非そちらを参照してください。

俗流若者論の構図

さて、本田由紀内藤朝雄後藤和智「「ニート」って言うな!」で本田氏は、世に氾濫するニート悪玉論の多くが、事実を無視した青少年へのネガティヴキャンペーンでしかないことを示すのとともに、現在の労働環境の真の問題点とは構造的な失業者の増加であって、それは社会的な制度を変えていくことで解決しなければならないと論じていた。

そして内藤氏は青少年の内面、心理に社会問題のすべての原因を求める青少年ネガティヴキャンペーン(後藤氏に言わせれば俗流若者論)とは、端的に言ってそれに賛同し消費する人間たちの幼稚さを示す証左に過ぎないと批判する。つまり、若者悪玉論やニート悪玉論などは社会構造の問題点を若者が怠けているなどという次元に問題をすり替えるという、責任転嫁の言説とみなす。

彼らの目的の一つは、自らが拠って立ってきた構造(勝ってきたゲームのルール)がもたらす問題を、その構造の側にではなく、構造の問題によって析出された逸脱者自身の努力不足などの内面、心理の問題へと還元することで、構造を温存することだ。

内田樹の論法

以上を確認した上で、前回も示した以下の記事を参照してほしい。
内田樹氏の「サラリーマンの研究」と、その問題点を指摘した「誘惑」

内田氏は、現代においてサラリーマンが報酬に対して過剰な労働を提供しているのは、「わが身を供物として捧げる」という現代的なかたちでの「贈与」だと言う。そして「人間の定義とは「わが身を捧げる」ものである」として、その「贈与」とは「人間」のあるべき姿だと規定する。

それに対し「誘惑」で新井賢さんは、内田氏の記事が資本による搾取の正当化ともとれる、と指摘する。続いて重要なのはコメント欄で、そこでGil氏によって、上記の贈与と労働の短絡が端的に語義矛盾であると批判されており、大変説得的だ。

内田氏の致命的な間違いは、「労働は贈与である」、などと言っている点です。そもそもの定義からして、「贈与」は見返り(対価)を求めない行為であり、だからこそ、それは市場における「売買」や「取り引き」、「等価交換」に明確に対立します。一方、近代社会における「労働」は、労働者が自らの行為を「賃金」と交換し、あるいはその生産物である「商品」を市場において「売買」する行為です。ですから、「労働は贈与である」という言明は、「丸は四角い」という言明と同様に、端的に背理なのです。
もちろん、現実には労働者はつねに資本家によって「搾取」されているのであり、労働と賃金の「等価性」はいわば幻想的なものに過ぎません。しかし、これと「贈与」における<等価交換の不在>は根本的に異なります(例えば、詐欺にあって「金を騙し取られる」ことと「自発的な寄付」がまったく異なるように)。

労働者が過剰労働をしているという問題は、人員配置を是正するとか、残業代をきちんと出すとか、労働基準法を変えるなどの方法で是正しうる事柄(もちろん内田氏が言うとおり、資本とは根本的に労働者を搾取するものとはいえるのだろうが)であり、それなりに了解可能な合意点に達することが原理的には可能な話だ。これはつまり制度、構造の問題である。

その点で「贈与」とは話の次元が違う。さらに内田氏は、その構造によって生み出された過剰労働者のあり方は、「きわめて人間的」なのである、とまで言う。つまり、だ。ここでは労働とは、搾取されることに甘んじることと同義になってしまっている。苦役を負え、と。結果的に苦役になることと、贈与とが混同されている。

また、ここで採られているのは、現状の問題点を何ら変えることなく、渦中にいる人物の心の持ちようを変えることによって解決を図ろうとする態度だ(強姦された女性に、「犬に噛まれたと思え」と言うようなもの)。俗流若者論と相似の構図といえる。

内田氏は、資本から当然引き出されるべき対価が不当に搾取されることと、共同体なり信仰なりのために自己自身を捧げる、というまったく異なる概念を結果的な相似性から短絡させる。「自己を供物として捧げることを拒む人間は定義において「人間」ではない」というとき、その「人間の定義」とサラリーマンの過剰労働とは直接関係のないものだ。この人間の定義自体は一考に値するかも知れないが、それを労働と直結させるのはきわめて危険な考え方であると言わねばならない。それはやはり搾取の正当化だ。しかも資本側にとってのみ都合のいい帰結をもたらしている。

●三段論法的強弁

そもそも、サラリーマンたちがその搾取に甘んじざるを得ないのは、端的に働かなければ喰っていけないからであり、職場を変えることは相応のリスクを伴う以上軽々と転職などできないからそこでやっていくしかないからだと考えるのが妥当ではないか。彼らは生活によって過剰労働に耐えることを要求されているのであり、それが生活、家族のためである以上、家族に対して「オレがあいつらを喰わせている」ということはそれ自体は哲学的戯言を経由せずとも充分理解可能ではないか。(しかし、単に苦役であるというわけではなく、仕事そのもののやりがい、達成感、意義を認めた上で、その過剰労働を許容している面もあるだろう。内田氏はそういった面を省みない)

しかし、内田氏はそれを持ち出したパラグラフ以降でほとんど理解しがたいアクロバットを披露する。特に、

しかし、これは彼らの偽りなき本心であり、まさに「オレが〈あいつら〉を食わせている」という構文こそが資本主義社会における労働者の心性を端的に表しているのである。
「あいつら」というのは抽象的な概念である。
別に特定の誰かを指しているわけではない。
しかし、彼らはその状態を「停止せよ」とは言わない。
「〈あいつら〉がオレを食わせる」ような状態を望んでいるわけではない。
その承認さえ得られるならば、「オレ」はいつまでも〈あいつら〉に貪り食われるままになっていることを厭わない。
サラリーマン諸氏はそうおっしゃっているのである。
という展開の部分はまったく無根拠だ。私にはここがどういう論理によって正当化されているのかさっぱり理解できない。

断定を重ねて無根拠な論理を通すウチダ式レトリック。

(ひとつ、興味深いのは「人間的」生活のために過剰労働からふせぐ意味合いで定められた法定労働時間の超過状態を、「人間的」と形容するやり方だ。従来活用されてきた権利闘争の大義名分を逆用されてしまうこと。これはネオリベラリズムを分析する文章でしばしば目にする現象だ。だからこそネオリベラリズム批判は困難になるのだろう)

ドロップアウトすることの意味

上記記事を参照したのは以下の記事での論理の前提となっているらしいからでもある。
「不快という貨幣」

先に言うと、私には内田氏の言っていることが全面的に与太だとしか思えない。

まずおかしいのは以下の部分だ。

学業から降りることで達成感、有能感を抱く若者が増えた、という苅谷剛彦「階層化日本と教育危機」の議論を引きつつ、こう続ける。

「比較的低い出身階層の日本の生徒たちは、学校での成功を否定し、将来よりも現在に向かうことで、自己の有能感を高め、自己を肯定する術を身につけている。低い階層の生徒たちは学校の業績主義的な価値から離脱することで、『自分自身にいい感じをもつ』ようになっているのである。」(有信堂、2001年、207頁)
(中略)
「学ばない」というあり方を既存の知的価値観に対する異議申し立てと見れば、それを「対抗文化」的なふるまいとして解釈することはできない相談ではない。
彼らはそうやって学校教育からドロップアウトした後、今度は「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる。だが、どのようなロジックによってそんなことが可能になるのか。
だが、そのロジックを問う前に、「学校教育からドロップアウトした後、「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年になる」という因果関係の根拠をお聞きしたい。これは苅谷氏の本に統計的に議論されていることなのだろうか? 当該書籍を読んでいないので断定することはできないが、まずこの議論に疑問を抱いたのはここだ。

私が抱いた疑問とは、学ばないことと働かないことの無根拠な同一視(内田氏の偏見を元とした)が行なわれており、それによって、働かないことに有能感を得る青年の存在を捏造することで議論が開始されているのではないかというものだ。しかし、苅谷氏の本に具体的な根拠があるならこの疑義は撤回する。

これと関連する記事に内田氏の「内田樹の研究室: 階層化=大衆社会の到来」があり、これに反応した「祭りの戦士 : センセーそれはあんまりじゃございませんか………その2」でも指摘されていることだが、内田氏は業績主義的価値観から離脱した者が有能感、達成感を得ることについて、深い疑問を抱いているらしい。

しかし学ばないこと、業績主義的価値観からの撤退が自己有能感をもたらすということの理由はそれほどむずかしいものではないと思う。学校の成績だけが人間の価値ではないなんてよく言われることであるし、学校外での活動に意味と価値を見いだす人間は少なくないだろう。芸能、芸術、職人系の仕事、車を乗り回す趣味が高じて運送業なんていうルートにおいて、学力競争ゲームの勝敗とは異なる価値観だし、そうであれば学力競争ゲームから降り、その競争のストレスから解放されることで=自分にとって真に価値あるものに打ち込むことによって有能感を得るというプロセスを想定をすることは充分以上に可能だ。

むしろ、業績主義的価値観を降りることで有能感、達成感が得られるというなら、次のことを証明してしまわないだろうか。つまり、業績主義的価値観がその成員に加える自己無能感とはそれほど強いのだ、と。だから、内田氏が学校教育からのドロップアウト組と働かない組をほとんど同一視していることは首肯しがたい見解だと言わざるを得ない。

ここで内田氏が明示せずに採用している前提は不気味だ。以上のような問題の立て方が可能になるためには次の前提を必要とする。つまり、業績主義的価値観のなか以外の場所で肯定感、有能感をもてるわけがない、という驚くべき偏見。しかしこれは内田氏にとって暗黙の前提だ。

●働いていないこと

「「働かない」ことにある種の達成感や有能感を感じる青年」というのはいったい誰なのか? 内田氏のブログをきちんと読んでいるわけではないので、どこかで具体的に提示されているのなら取り下げるけれども、これは暗示的にニートを指していると見ていいだろう。というか、ここでイメージされている若者像はきわめて恣意的に決定されている。ニート、ひきこもり、パラサイトシングルといったネガティヴイメージを一緒くたにして扱っている。その時点ですでに誤謬というべきではないだろうか。

さらに驚くべきは、内田氏は現在増えているという「働いていない若者」を「働かない若者」と言い換えていることだ。これが内田氏の議論がすべて与太だと判断した大きな理由のひとつだ。内田氏は、働いていないという事実を、働かない、という意志の問題に変換した。

そこを譲るとしても多くの若者が働かないことに達成感を得ているなどと言う話を聞いたことはない。「「ニート」って言うな!」で提示された意識調査でも、そんなことを読み取ることはできない。単なる内田氏によるフィクションではないのか。(働いたら負けかな、の例を敷衍しているのか、何か他の調査結果でもあるのだろうか)

とするならば、以降の想定もまったく無意味だ。というより、ここ以降で展開されている議論が全部意味が分からない。労働、貨幣、等価交換などという概念がほとんど無造作に連結されていて、フィクションとしてのおもしろみはあるだろうが、それ以上のものではない。

中流家庭への偏見

中流核家族を不快の充満する空間だと表象しているところも問題だろう。ここで家庭生活において不快しか存在しないことになっている。普通に考えれば、そういった退屈な日常のあとで休日などに外食したりレジャーに行くなどということがあり得るはずで、そうやって子供は労働の対価を苦役に耐えると遊ぶことができる、という形で学習する、と想定することができる。というか普通はたぶんそう考える。

また小遣いという習慣に対する考察が抜け落ちている。何かの用事を仰せつかってその達成とともに金銭を得る。普通、こういう作業を通じて労働の学習がなされている。なぜこれを無視するのか。

それに比べて不快に耐えること、という内面的な問題に対して対価を要求できる、という奇天烈なことを多くの若者が考えるなどとは考えにくい。私には内田氏が奇妙なアクロバットを用いて「不快という貨幣」なる概念を考えなければならない理由が分からない。

内田氏の不思議なところは、この記事において、労働を完全に苦役としてのみ表象している点だ。氏は、この文章において遂行的に若者を労働から遠ざけることに貢献している。

●労働しない人間は存在しない

労働することは神を信じることや言語を用いることや親族を形成することと同じで、自己決定できるようなことがらではない。
労働するのが人間なのだ。
だから、労働しない人間は存在しない。
はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。
この論理展開も非常に不思議だ。少なくとも、ここで言われている「労働」は通常の意味における作業と賃金の交換としての「労働」ではない。文章全体から考えて、ここで言われていることは、苦役に耐えることが労働であり、その意味での労働はすべての人間が従事せねばならない、という非常に不気味な論理だ。

元々「サラリーマンの悲劇」で語っていたように、内田氏にとって「労働」とは「贈与(=自己犠牲)」と見なされている。その論理からすれば上記理論も了解可能だろう。というより、それを考慮に入れなければ理解できない。さらに上の方でも書いた通り、労働と贈与は異なる。

そして、内田氏の記事の最大の問題点はここに現われる。
内田氏の考える労働と贈与の概念を明示せずに直結したまま、「労働しない人間は存在しない」などという大変不穏当な言動が出てくることだ。

これはすぐさま働かない者は人間ではないという言説に転化しうる。

しかし、内田氏にとっては労働とは人間存在の本質たる自己犠牲の謂いでもあるようなので、その意味で整合性はあり、働かない人間を差別化するわけではない。内田氏は決して働かない人間を人間ではないとはいってない。逆に人間だからこそ働いているはずだ、と見なす。だから「不快という貨幣」という概念にたどり着いた。「不快という貨幣」なる概念が要請されたのは上記の命題を成立させるためのアクロバットだと思われる。

しかし、贈与(一種のコミュニケーション)を本質的人間像と見なすのはまだいいとしても、それを労働と結びつけることは問題だといわざるを得ない。労働者が公正な賃金を要求しうる資格が失われてしまう以上に、不本意な労働を拒否できなくなるからだ。内田氏の言説はこの点、むしろそれを積極的に肯定しようという意図すら見える。人間はすべからく余暇を満喫したりなどせず、馬車馬のごとく喜々として搾取されるべし、という人間観。

その意味で労働しない人間は存在しないという文言は、やはりきわめて危険なものだ。これは労働しようとしない人間に対する決定的な否定のメッセージとなりうる。働かない連中を「怠け者」やなんやとけなすのには飽きたらず、ついには「人間ではない」とまで言うのか、と。そういう論法に容易に転化しうる。

内田氏はおそらくそれは望まないだろう。働かないやつは人間ではないなどというスマートでない論理に与するはずがない。しかし、自分自身はそのような言説に荷担しないかのように見せかけて、そのような言説を生産しうるトリガーをこっそり引いている、そう見える。

内田氏の言説は表面上ニュートラルな態度をできるだけ保持しつつ書かれている(むしろ、発言対象を理解しようという物わかりのいい態度をとる)のでわかりにくいが、節々に対象への道徳的(あるいはそれ以上にやっかいな)批判が見え隠れする。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

渋谷望の「魂の労働」から長くなるが重要なポイントを引用したい。

正規雇用層と非正規の不安定雇用層とのあいだに階層分化が進行しつつある現在、同一労働にもかかわらず歴然と存在する賃金と社会保障の格差が問題になりつつある。ここで問題となっているのは、非合理な格差という以上に、この非合理性を基盤としてかろうじて保たれている「正規」雇用勤労者の自己肯定ないし威信の揺らぎと不安である。自分たちの労働には価値はなく、むしろ遊んでいる者の〈労働〉のほうに価値があるとしたら? 怠け者の方が生産的であるとすれば? あるいはサボりが能動的であるとすれば? 価値が「尺度の彼岸」(Hardt and Nwgri 2000 訳四四七頁)にあるというポストモダン的事態の全面化は、〈マジメ〉な者たちにこのような実存的不安を惹起する。ここに不安を押さえ込む必要性が生じる。彼ら〈マジメ〉なマジョリティに安心を与え、この格差を最終的に正当化するものこそ、勤勉を美徳とする労働倫理ではないだろうか。勤勉な主体としての自己肯定は、〈怠惰〉への道徳的攻撃によってはじめて可能となる。
(中略)
「君たちは働くべきだ」というネオリベラリズムワークフェア言説は、若者にじっさいに勤労意欲を喚起させることを本気で狙っているわけではない。やりがいのない、しかも低賃金の労働を若者が率先してヴォランタリリー行なうなどと、いったい誰が本気で信じるだろうか。
 そうであるなら、「自己実現」、「労働の喜び」、「やりがい」といったことを強調する言説が後を絶たないのは何故だろうか。こうした言説は言う。賃金は低くても、やりがいのある仕事なら満足すべきだ、と。だが真に魅力的でやりがいのある労働であれば、外部からのどんな正当化も不要のはずである。また内在的な「労働の喜び」を有しているなら、そのことを褒めちぎる言説を待つまでもなく、誰かが率先してやっているはずである。とすれば、これらの冗長な言説は、労働倫理を教え込むというより、〈怠惰〉への道徳的攻撃を可能にするという理由で採用されていることがわかる。結局それは、〈働かざる者〉=〈遊ぶ者〉の自己価値化への〈反動〉、すなわち反感ルサンチマンに基づいており、この自己価値化によって生産された価値を再び剥奪するのである。
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これは内田氏の言説にもそのままあてはまる。

内田氏は暗黙の内に、業績主義的価値観、あるいは就労において以外に有能感を抱くことはあり得ない、と前提する。学力競争ゲームから降りて、遊びや音楽や趣味や部活等の活動に価値を見いだすことに対して、内田氏は想像力を遮断する。「不快という貨幣」という議論が前提としているものそのものが怪しいことはもう述べたが、それでもこの概念についてひとつ批判するならば、これは単に彼らは怠けていることそのものに達成感を抱いているのだ、ということの哲学的(ウチダ的)言い換えにすぎない。

哲学的意匠をまとったネオリベラリズムのイデオローグ。

数年前までよく読んでいた内田氏だが、いまの私にとってはそういう存在だ。


●付記
最近以下の記事がちょっとした話題になっている。
はあちゅう主義。:小娘が何か言ってます。
この人のいっていることと、内田氏の(他の記事も含めて)いってることはその俗流若者論的構図において同一ではないかと思う。知的に洗練されているか、そうでないかの違い以外は。
働かない人間は「非国民」、「労働しない人間は存在しない」。私には同種の論理に見える。