「壁の中」から

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内田樹の言説の批判的検討・1

先日の内田氏への批判について、kawakitaさんからトラックバックをいただきましたので、以下の記事に応答することにします。直接批判するわけではなくて、どうも「誤読によって仮想的を批判している」内田批判派のひとり、という以上には言及されてはいませんが。

内田樹氏のエントリー「不快という貨幣」関連の言説は「俗流若者論」か?


●労働は贈与か?

中心的な問題になっているのはまえに内田批判の記事で紹介した荒井さんの新しい記事および「労働は贈与である」というかたちで内田氏の記事を要約したコメントについてです。

当該記事の三章以降でkawakitaさんは内田氏の記事に即して、内田氏は労働は贈与であるとは言っていない、と論じています。違うんじゃないでしょうか。「資本主義の黄昏」にはこうあります。

自分が「他者への贈与」の主体になること(それが「労働」ということの本質である)
労働の本質は他者への贈与の主体になること、つまり労働=贈与と明確に仰っています。少なくともこれは以下のkawakitaさんの記述と明確に食い違っています。

内田氏は「労働=贈与」とはみなしておりません。内田氏は「労働とは常にオーバーアチーブメントの非等価交換である」と述べています。
内田氏は言っていることに論理的一貫性も用語の統一も概念の設定もなく、心理と事実とをまったく混同してしまうクセがあるのでまともに読もうとするだけ無駄だと思います。


●内田氏はつねに心理を問題にする

まあ、とりあえず続けます。長くなってしまうので言及対象を「サラリーマンの研究」に限定して以下述べますが、その「サラリーマンの研究」において内田氏が言っていることは、上記のこととは違います。内田氏は

「労働に対する対価としての賃金」はつねに労働が生み出した価値よりも(すごく)少ない
と、労働が常にオーバーアチーブメントである、ということを事実言明のようにして語った後、なぜかそれとは一義的には関係なく「「不当に収奪されている」という実感」こそが「自己を供物として捧げる」ことであると言っているのです。

この「不当に収奪されている」という実感が「自己を供物として捧げることで共同体を維持する」という太古的・呪術的な社会観に深いところで通底している。
サラリーマンの基本心性はむしろこれを倒置した「享受される」に近いであろう。
ここで内田氏はサラリーマンの内面を焦点化してしまっています。これは事実として労働がオーバーアチーブメントであることとは別の問題を語ってしまっているのです。おそらく、半ば意図的に。その点でkawakitaさんは内田氏の記事を初手から誤読してしまっています。

この、「不当に収奪されている」というのをどのように捉えるかはまた微妙な問題です。私はこれをいわばサービス残業労基法違反の過剰労働と実体的に捉えて批判したわけですが、なるほど内田氏はそうは言っていません。ここは私の誤解であったと訂正しましょう。しかし、過剰労働ではないということもまた言っていません。

内田氏の文章にはつねに具体性が欠如していますが、ここでも、サラリーマンのよく働く、ということがどのことを指しているのか不明です。給料に対してよく働く、労働時間内にがんばるということなのか、サービス残業などの過剰労働を指しているのかが判然としない。むしろぼかされているといっていい。就職した卒業生が感嘆するほどの「働き」であり、「滅私奉公的オーバーアチーブ」と内田氏が書いていることから、私はこれは過剰労働のことだろうと判断したわけです。時間内にきっちりと仕事をし、定刻通りに帰っていくのを見て、あの給料でよくあれだけ働きますね、という印象を与えることはむずかしいかと。

まあ、それはとりあえずどうでもよろしい。内田氏にとっての問題はやはり心理的な側面です。内田氏は他の記事でもつねに心理的な側面を主題にします。このことをkawakitaさんは読み落としておられますが、内田氏の当該文において重要なのは、「不当に収奪されている」という「実感」が、「自己を供物として捧げること」(以下「贈与」とします)と通底するということです。現実に不当に収奪されているかどうかではありません。これを忘れてはいけません。

もちろん「不当に収奪されている」ことは、「贈与」とは水準の異なる概念です。Gilさんが言うとおり、「自発的な寄付」と詐欺られることは全然違う意味を持ちます。しかし、金を失うことでは共通している。これを通底、というなら内田氏の言うことも妥当かも知れませんが、ふつう日本語ではそういう言葉の使い方はしません。

前にも書きましたが、「サラリーマンの研究」での根本的な誤謬は、「贈与」と「収奪」とを結果的な相似性から短絡させていることです。ことが心理的な問題である以上、心理的にまったく異なるこの二つの行為を混同することは許されません。

しかし、内田氏は俗流若者論お得意の、内面の問題をつねに云々します。構造的問題を内面の問題に収斂させることを私は俗流若者論と呼んでいますが、ここでもその手続きがとられています。

そもそも、サラリーマンが、「「不当に収奪されている」という実感」を抱いているかどうかの具体的事例は一つもありません。よく働いているサラリーマンの内面に、内田氏が勝手に「「不当に収奪されている」という実感」があると想像しているだけです。この時点ですでに以下の議論がまともでないことがわかります。よく働いているサラリーマン自身が仕事大好き人間である場合、好きなことをやって、それなりの金を貰えるんだからありがたい、と思っている人間がいるという想像もまた充分に可能です。数の傾向を問題にするのであればそれは本質規定ではあり得ません。

仕事好きの人間は提供した労働力に対して不当に低い対価を得ていると言えるのか。早出や残業をカウントしないで自主的に滅私奉公的に働いているのであれば、支払われるべき対価が支払われていないにもかかわらず、彼は「不当に収奪されている」とは考えないでしょう。

労働がつねにオーバーアチーブメントであるかどうかは、心理的な問題に限定するかぎり、人それぞれと言うしかありません。「実感」を内田氏が問題にするかぎり、「労働はつねにオーバーアチーブメント」という本質規定は決して成立しません。そもそも、滅私奉公的サラリーマンを前提にした労働観など無意味としか言いようがないのです。心理的な側面における「労働のオーバーアチーブメント」は成立し得ない。これは明白でしょう。


●労働はつねにオーバーアチーブメントか?

では、事実言明として「労働はオーバーアチーブメント」であるかどうか。これもやはり成立しないと言わねばならないでしょう。

kawakitaさんは以下のように定義します。

贈与・・・生み出した価値に対して、見返りを求めないので、得られる対価は0。
等価交換・・・生み出した価値に対して、等価の対価を得ること。
労働・・・生み出した価値に対して、得られる対価が低いこと。
まずこの定義が間違っています。労働がオーバーアチーブメント(非等価交換)であるかどうかを論じるに当たって、まず労働が非等価交換であると定義しています。典型的な論点先取りの誤謬ではないですか? 上記引用の「労働」の部分には「非等価交換」と入れなければならないはずです。その後、労働が非等価交換であるかどうかを論証するのが正当な手続きです。

用意されたグラフも同断です。「労働が生み出した価値」が「得られる対価」を上回ることを証明しなければならないのに、「生み出した価値」がつねに「得られる対価」を上回ることを前提として作られているからです。このような議論を私は論理的とは呼びません。

労働がオーバーアチーブメントであるということは、賃労働に限って言えば、雇用者、資本の側が儲けている、利益を得ているということに他なりません。しかし、雇用者は常に儲けを得ることができるわけではありません。これは常識に属します。ならば、「労働はつねにオーバーアチーブメント」である、という言明は以下のことを言いかえた言葉に過ぎないと言えます。

「雇用者が提供する賃金以上に労働者が働けば働くほど、雇用者は利益を得る」

つまり、雇用者が利益を得るためには、労働者に賃金以上に働いてもらわねばならない、という規範言説を、傲慢にも労働の本質規定へと変換したものが、「労働のオーバーアチーブメント」であるということです。

sivadさんの返答に対してコメントするkawakitaさんは、「給料をもらいすぎる労働者は存在しない」というのは個別的な事例としては妥当するかも知れない(この時点で本質規定としては失効ではないですか?)が、その場合でも企業全体は労働者が生み出した価値をより高い価値を得ている、と仰いますが、それは成長しつつある企業においてのみ妥当することでしかありません。

たとえば、客の入らない飲食店を考えればすぐわかるはずです。商売には採算分岐点というものがあり、それを下回る業績しかあげられない場合、従業員に支払う給料は雇用者にとっては明らかに損失です。その損失を上回る利益を上げてもらわねばならないのが企業です。つまり、こう言いかえるのが正しい。

「儲かっている企業においては、労働はオーバーアチーブメント(働き過ぎ)であるが、儲からない企業においては労働はアンダーアチーブメント(もらいすぎ)である」

潰れる企業が何故存在するかを考えれば、これは当たり前のことです。つまり、内田氏による「労働はつねにオーバーアチーブメント」である、というのは資本、企業、雇用者が利益を得るための規範言説(労働者はつねに給料以上に働け)を、本質規定に言い換えているだけなのです。

こういうのを詐術と呼びます。

また、kawakitaさんは本質規定と規範規定が違うことを主張し、規範規定でないから問題がないかのように仰いますが、この態度はきわめて問題の多い態度(犯罪的だとすら思います)であることに注意して頂きたい。このことは最後に繰り返しますが、とりあえず「サラリーマンの研究」を読めば分かるとおり、当該記事のなかでは、労働の本質規定をおこないつつ、卒業生らがそれを賞賛し、それに内田氏が同意しながら、「キリストの受難」と並べてみせることで、それが規範として機能するように語っています。自分は客観的に本質規定を学問的におこなっていると見せかけて、その言説全体として規範を設定する。これが内田氏の多用するレトリックのひとつであります。


●デタラメ

また、「サラリーマンの研究」においてはこうも書かれています。

「〈あいつら〉がオレを食わせる」ような状態を望んでいるわけではない。
そうではなくて、「オレが〈あいつら〉を食わせている」ことを承認せよ、と迫っているだけなのである。
その承認さえ得られるならば、「オレ」はいつまでも〈あいつら〉に貪り食われるままになっていることを厭わない。
サラリーマン諸氏はそうおっしゃっているのである。
サラリーマンは自らが「不当に収奪されている」という実感を盾に、(あいつら)にオレを承認しろと迫るわけです。これは対価を求めていると言うことです。不当に収奪されている、ということは、当然得られるべき対価が得られていない、つまり対価の支払いを求めているということになります。これのどこが「贈与」なのですか? それが金銭的な価値でないだけで、不当に支払われていない対価を「承認」で支払え、といっているわけです。

つまり、サラリーマン諸氏は「不快という貨幣」の債権者なのです。内田氏の言うことに従うなら、労働者は「贈与」なんかしていません。支払われていない得られるべき対価に対して承認せよ、という交換を求めるわけですから、その承認が得られれば、労働はこの時点で完全な等価交換に変貌します。

いやあ、びっくりですね。内田センセイは労働では等価交換が成り立つと考えておいでのようですよ。

最初に書いたとおり、内田氏は同じ一つの記事のなかでも、特殊に設定された用語と一般の言葉(たとえば「労働」)、主観の問題と事実言明とをきちんと腑分けして語らない。だから、いかようにでも読みうるし、自己矛盾をいくつも抱えることになる。

そういう言説をふつう「デタラメ」と呼ぶのです。

デタラメを正しく読むことは不可能です。たとえば「資本主義の黄昏」においては

「仕事」というのが「とりあえず何か余計なものを作りだして、他人に贈る」という「非等価交換」である
と述べられています。内田氏においては「仕事」と「贈与」と「非等価交換」はどうやらイコールらしいです。なんか、これまで書いていたことすべてが台無しになるようなめまいを覚えるのは私だけでしょうか。kawakitaさんはこの文章をいったいどう読んだのでしょう。

続きます。