「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

「死ぬということは偉大なことなので」 ――杉作「与那国」

大学からの友人であり幻視社同人でもある杉作氏の自主制作ドキュメンタリー映画「与那国」が、来る三月十八日、渋谷のイベント会場において上映されるそうです。(3/11表記等修正)

「ねりけしクッキング」より

ずいぶん前から撮っていると言うことを聞いていて、実質編集に一年以上掛かってやっと完成したという代物で、以前試写会をしたときに見せてもらいました。

この映画は杉作の友人菅谷氏が若くして死んでしまったことを発端とするのですが、その死の原因(統合失調症であったらしい)とか、高校時代の不登校やいじめなど、死の遠因として考えられるようなポイントに対する追求をするというものではありません。そういう社会派ドキュメンタリーの方法論はここでは排除されています。

この映画が写すのは、死の数ヶ月後の、菅谷氏の両親、兄、友人知人たちが、菅谷という存在について何をどう語っているのか、ということです。残された人たちが、死というどうしようもない喪失にどう対応しようとしているのか、ということです。また、カメラマンであり監督であり、なによりも死んだ彼の友人であった杉作氏が、その死をどう受け止めようとしたのかの試行錯誤でもあるのだと思います。

だからこれは、きわめてプライベートな映画だと言えます。写されている人も、撮っている人も私的な関係によってつながりを持つ人たちです。写されているのも、生前の部屋、遺族友人たちの親睦会などの場面や、生前菅谷氏が作った音楽や高校時代の彼が杉作氏と撮ったシュールなコントなどの映像も挿入されています。一緒にコントを撮った杉作氏が、菅谷氏を知る人たちにカメラを向け、話を聞いていく。個別な、具体的なあるひとりの人間の死が周りの人たちに何をもたらし、何を語らせたか。

この映画では亡くなった菅谷氏がどういう人物であったかとか、なぜ死に至ったのか、という点からのアプローチをしていません。生前の姿はコントという形でいくつか見ることができますが、人となりを写すというやり方ではありません。菅谷氏の人物像は残された人たちがぽつぽつと語るその語りのなかから、ごくかすかに知れる程度です。つまりこれは、菅谷という人物の死を悲しめ、という風には撮られていません。この冷静な距離感。私がこの映画から感じたのは、こういっては変ですが、人の死というのは不思議なものだ、という感覚です。あったものがもうない、いたひとがもういない。これはとても不思議なことだと思います。悲しみや悔しさといった言葉では収まらないなにかを伝えようとする親族友人たちの姿、そしてそれをカメラに撮っている杉作氏から私が感じたのは、そういうことです。

もうひとつ、これを見ていて思い出したのは、小島信夫のある短篇のタイトルでした。私はまだ読んでもおらず表題を知っているだけなのですが、そのタイトルは次のようなものです。

「死ぬということは偉大なことなので」