「壁の中」から

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等価交換原理の効用

私の先日の記事についてkawakitaさんから返事がありました。いくつか疑問があったのでコメント欄で質問し、その回答をいただいたのですが、その返事をすると長くなりすぎてしまうので、返答を以下に述べようと思います。

以下の記事はhttp://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060318とそのコメント欄を参照してからお読みください。

●kawakitaさんのコメントについての返信

kawakitaさんは労働について、構造的につねに「オーバーアチーブメント」になる、と仰っていませんでしたか? そして引用している宮台氏の「本質規定」とは、「本来そうである」ということを意味するのではなく、「常に既に」そうなるもの、という必然を意味しているはずです。

そして、「本質規定」が、「そうでない場合もあるが本来はこうである」ということを意味するのであれば、これは明白に規範規定と同一です。なぜなら、私見では規範規定や模範とは「理想的な状態を提示すること」そのものを指すからです。そのことによって、本来的でないものに負い目を持たせ、本来的なるものに近づけさせるための努力をたきつける。「規範」にとって説教したり、理想状態になれ、と命令することは付随的な要素にすぎません。私にとって、kawakitaさんのいう「本質規定」は単に「規範規定」に思えます。

建前を信じているのであれば構造的贈与、と仰いますが、これは定義的に贈与とはいえないと思います。単に剰余がそこにあるという事実があるだけです。贈与に主体的意志が必要であるなら、主体的意志の存在しない対価の移動は違う言葉で指し示すべきです。「剰余」とか。異なるものに同じ言葉を当てはめていませんか?

モースと今村氏の議論は、「構造的」という言葉こそ使われていますが、私には認識の話(感じ)しかしていないように思われます。そこでの議論は、交換なり生産なりに参与するということ、主体的に参与するという事態が人間にやりがい(生命を費やす)なりを持たせる、というものであるように思えるのですが。その場合、その交換が等価交換であるか非等価交換であるかにかかわりなく(資本が上前をはねるかどうかに関係なく)、その主体はそこに意味を見いだす、ということを語っているのではないですか? その場合、どんなに労働がアンダーアチーブメントであっても、その労働者は「よく働いたなあ」と「自己贈与」の感じを持つことが可能です。

kawakitaさんのいう「労働はつねにオーバーアチーブメント」とはおそらくこの事態を指すのであり、実際に賃金が生み出した対価と均衡するかどうかではないのではないでしょうか。感情の問題を賃金の多寡という対価の問題と混同されておられるのだと思います。(内田氏は明らかに対価の問題と混同して語っておられますが)

この意味で、内田氏の労働論はたんに、「労働にはやりがいがある」という言説の一変種です。これを前提に「人間はやりがいのあることをする」から「人間は労働する」という結論を引き出します。しかし、やりがいのあることは労働のみである必然性はとりあえずないので、「労働以外のことにやりがいを見いだす(就労しない)人間がいてもおかしくない」と私は主張します。内田氏は「やりがい」のあることすべてを「労働」と言い換えているのだと思われます。そしてその「労働」をじっさいに賃労働に従事しているかどうかと言う問題と混同しています。働いていない若者はたぶん「労働」以外のことに「やりがい」を見いだしているのでしょうから、「人間」として全く問題ありません。

思ったのですが、kawakitaさんは私が問題にした内田氏の「労働するのが人間なのだ」というのを「本質規定」だから問題ないと仰っていましたが、kawakitaさんの「本質規定」の定義に従うなら、内田氏は「労働しない人間も存在するけれども本来人間は労働するものだ」と語っていることになりますね。これをふつう説教というのだと思います。

しかし、こんなことをしていても揚げ足とり合戦になってしまいますので、言葉の定義にこだわるのはやめにしようかと思います。単に自分の主張の正当性合戦になりつつあるので。


●kawakitaさんの問題意識について

で、以下本題です。kawakitaさんの一連の議論主張は、以下の問題意識に発していると思われます。

今村仁司氏は『交易する人間』で「人はなぜ等価なものを贈与し合うのか」という問いに対して、贈与することで事実が蓄積され社会的な繋がりが生まれるとの趣旨のことを述べられています。同じように「労働」は、「贈与」の意思があろうとなかろうと、自らの必要を満たすためにこそ、外部に迂回して「労働」し、結果的に「オーバーアチーブメント」をなすことで、労働力を自家消費せず、社会的な繋がりを生み出すのです。それを自家消費・自己充足する「動物」と区別して「人間的」と呼ぶのです。「等価交換」の原理および「資源の全的な自家消費」はこれを崩すのです。おそらく東浩紀氏の「動物化」という概念はこのこととも関連するのではないでしょうか。
(強調引用者)
ここに、kawakitaさんの危惧があり、「等価交換原理」が浸透すると社会的な繋がりが絶たれる、だから労働は贈与的非等価交換でなければならない、という感じに考えておられるのだと思いますが、それは杞憂だと思います。

要約された今村氏の考えを素直に理解するなら、交換(贈与し合うこと)によって「社会的な繋がりが生まれる」ということ(クラ交換ですね)だと思います。つまり、等価交換原理こそが、「社会的な繋がり」を生み出す当のものであるということです。

これは考えてみれば当たり前のことです。そもそも、交換がつねに非等価交換であるなら、なぜ交換が成立するのか説明できません。交換というのは、それが成立したとき、つねに等価交換でしかありえません。というより、交換とは原理的に等価交換以外ではあり得ないはずです。

交換というのは、双方がその交換に同意したときにはじめて成立するものです。物々交換で考えてみましょう。自分の持っているある品物と、相手の持っているある品物とを交換する場合、私は、相手の持っている品物を、私の持っているものと同等かそれ以上に自分にとって価値があると判断するから交換するのです。これは相手にも言えます。

その品物の実際的価値がいくらであろうとも、交換が成立するさいには交換されるもの同士は、双方にとって等価あるいはそれ以上です。この大前提があるからこそ、不当な非等価交換を強いられた者(催眠商法とか)は、その交換=売買契約の不成立を求めて法に訴えることができるのです。

というより、交換のさいに「実際的価値」を云々することができるのは、貨幣経済の誕生をまってはじめて可能になることです。物々交換においては、じっさいにそれが交換可能であるということ以外に価値を測定する手段がないのですから。

交換や売買というのは、そのものの実際的価値においてなされるのではなく、誰がそこにどのような値打ちを見いだすか、ということを中心にしてなされます。プレミアやブランドというものが、なぜ価値に繋がるのかを考えればわかることです。その場合原価と取引される価格の差を知っていたとしても、なおそれを等価交換だと見なしているわけです。それがいくら他人の目から見て非等価交換にあたると思えても、交換当事者には等価交換なのです。

交換は、交換当事者にとっては等価交換です。しかし、等価交換が連鎖していくと、最初に交換された価値と最後に交換された価値で多大な落差が生じうる可能性があります。交易を可能にするのはこの原理です。だから、すべての交換が双方にとって等価交換であっても充分に経済・社会は成立するというのが私の考えです。民話「わらしべ長者」はこのことを証明しているのではないですか(この場合は等価の贈与の連鎖ですが)。

こう確認したうえでモースの言葉を想起するなら、生み出したものに対する対価をどれだけ高い金額で支払われたとしても、そのものを生み出したという達成感、やりがいの部分は残る、ということではないでしょうか。つまり、生み出したものを等価交換したとしても主体的にはそれが「贈与」でありうる、ということだと思います。それが主体的に参与するということだと。

こう考えればkawakitaさんの疑問は解決すると思うのですが、いかがでしょうか。