「壁の中」から

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いま、大人たちが危ない!――本田由紀・内藤朝雄・後藤和智「「ニート」って言うな!」

「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)

一般に「ニート」という言葉でイメージされる人間像とはどんなものか。本文中にもピックアップされている週刊誌などの記事から見れば、「甘えている」「親に寄生している」「自分勝手」「怠けている」「無気力」「ひきこもり」等々、様々なマイナスイメージで彩られていることが分かる。というより、ニートとはいまや否定的な形容詞と化している。

しかし、本田氏の提示する統計資料はまったく違った姿を伝えている。

まず、15〜34歳までの学生・既婚者をのぞく無業者のなかから、就職活動をしている者(希望型・ほぼ失業者と重なる)、就職の意志を示しているけれども具体的な就職活動をしていない者(非求職型)、就職の意志がそもそもない者(非希望型)と、三項目に分類する。

一般にニートと定義されるのは非求職型と非希望型をあわせた数で、2002年段階でおよそ八十五万人。しかし、ニートのなかで、そもそも働きたくないという非希望型はおよそその半分でしかなく、ここ十年でまるで増えていない。就職の意志はあるが就職活動をしていないものが十万人強増えたぐらいだ。

四十万人ほどいる非求職型の男性の半分以上は留学・受験や資格取得の準備をしていて、女性の二割もそれに該当する。非希望型でも、男性の三割以上、女性の二割は留学・受験の準備中である。

いわゆるニートのなかでも、働く意志もなく、特に何もしていない人というのは全体の三分の一に過ぎない。

以上を見ても、怠け者や甘えているというネガティヴイメージがニート全体に無根拠に敷衍されていることが明らかだが、それ以上の問題は若年失業者の問題であるという。

ニートの増え方は十年間に十万人という程度だが、無業者のなかでちゃんと就職活動をしているもの、つまり失業者の数はここ十年で六十万人の増加を見せている。これは十年前に比べて若年失業者が倍増したと言うことを示している。またフリーターもここ十年で百万人増加し、倍になっている。

つまり、ニート議論で見えにくくなっているが、いま現在若年層では、明らかに就職口の不足が起こっているということである。失業者とフリーターの増加はそのことの端的な証左であり、ニートの増え方が問題にならないくらいの激増ぶりである。

いまのニート議論は、数年前の内閣府国民生活白書ですでに指摘されていた、企業側の採用抑制という問題点を結果的に覆い隠す格好の素材として消費されてしまっている。そしてすべては若者の内面および、親たちの教育不足という問題へと収斂し、企業や社会政策には何の問題もないかのように語られる。


本田氏は上記の点を丁寧に詳述し、それに続く内藤氏のパートでは、そのように若者叩きへと議論が収斂してしまう構造の問題を鋭く追求している。青少年の凶悪事件のみが過度に報道され、大人の凶悪事件はほとんど報道されないというメディアの偏向ぶりや青少年ネガティヴキャンペーンのあり方から、内藤氏は若者だけが危険な存在だと印象づけようとする大人たちこそが幼稚なのだと切り返す。

メディアの重要な役職に就いたり、その基本的な方針を監督することのできるいまの大人たち、そしてそのメディアの消費者たちは、少年犯罪も往時に比べ激減し、中高年に比べ殺人者率も低いいまの若者をことさら危険な者として粉飾する。彼らは自分たちが何かしら問題を抱えていたり、修正しなければならない間違いを犯しているということを決して認めようとはせず、その責をすべて若者に丸投げしようとしている。

だから、それが煽動めいていても、昨今の青少年ネガティヴキャンペーンに対抗する意味において、われわれはこう叫ばなければならないだろう。

いま、大人たちが危ない!

という文章をbk1に投稿した。あえてアジってみたけれども、どうだろうか。言われたことをそのまま反転させて返すというのは対抗言説の質としてはどうかと思うが、まあこうでも言わなきゃやってられねえよ、ってところ。しかし、問題はこういった「若者がわるい」論はつねに大人の側からなされるわけではないということ。ニート悪玉論が暗示的に前提としているのは、「いまの社会(われわれ)が変わる必要はない」という一種の保守的メンタリティ(主義、とはいえないだろう)であり、こういったことを言うのは大人に限らない。

字数が足りなくて後藤和智氏の章に触れることができなかったけれども、bk1レビュアーからはじまって、ブログ(「新・後藤和智事務所 〜若者報道から見た日本〜」)へとメインの場所を移しての継続的な「俗流若者論批判」は非常に価値のある仕事だと思う。

付け加えておくと、上掲文で示唆した二〇〇三年に内閣府が刊行した「平成十五年度版 国民生活白書」については本書で本田氏が次のように要約している。

この白書のなかでは、「フリーター」問題は企業が若者、特に新規学卒者の採用を抑制したことから生じており、一番重要な原因は企業側にある、と言い切っていました。採用がきわめて抑制されているので、若い人たちが希望するようなポストに就くことができず、元気をなくし始めている。そしてその元気をなくし始めた若者をみて、企業がさらに採用意欲をなくす……という風に、悪循環のスパイラルが生じているという見解を示していたのです。
53P
問題は、このような認識が示されていたのにもかかわらず、その後の「ニート論の絨毯爆撃」によって、企業側の問題が覆い隠されてしまったことにある。

ただ、この本は若者全体に何の問題もないと主張しているのではないだろう。非求職型のニートには「就労の意志」があるとしても、それでもなにもしていない人間というのはやはりいるし、単に自己欺瞞として働く意志はありますよ、ということを表明しているだけと見なすことはできる。フリーターの増加にしても、正社員になりたくないからフリーターという層も明らかにあるだろう(それにしたところで、労働がきわめてハイリスクとなりつつある状況での合理的判断とも言える)。

しかし、だ。だからといってニート全体を怠け者だとか社会の病理だとか、と形容することが許されるわけではもちろんない。本書ではニートへのネガティヴイメージをは事実を無視したデマゴギーでしかない、ということを統計資料を用いて証明している。そもそも、いまのニート論は問題の認識そのものが間違っており、そこからは何の建設的な議論が起こりえない。だから、まずは統計資料などの具体的な裏付け(もちろん、統計は統計でしかないから絶対ではない)をもとに、そこから議論を進めるべきだ、ということだ。

で、上記投稿ではアジるために削除せざるを得なかったのだけれど(そこが拙文の最大の欠点)、この本のいいところは、単に若者批判の言説を論駁しているだけではなく、そこから建設的な議論を積み重ねようとしているところだ。本田氏の、若者のみが努力を強いられるのではなく、社会制度の側もまた積極的に変化していかなければならないという方向性はきわめて妥当であり、説得力のあるものだと思う。

非典型雇用に対する処遇を現在よりも手厚くすることによって、正社員の処遇を一定程度切り下げる必要が出てきますが、それはやむを得ないと考えます。不安と生活苦を一部の層だけに押しつけるのではなく、社会全体で広く薄く担ってゆくことが必要だからです。
78P
しかし、絶対にこの手の改革提言を拒否する層は存在するだろう。いまのゲームのルールで勝っている人間は、そのルール自体が変更される事態を嫌がる。

内藤氏の社会憎悪のメカニズムを分析した章も白眉のできで、リベラリズム理想社会を描こうとしている点もいい。それが具体化可能かどうかという点は措くとして。さらに内藤氏の理論を補足し説得力を担保する形で、後藤和智氏の具体的言説批判が位置する。わりと鉄壁かと。


●ゲームのルール

ゲームのルール、と書いたが、これは非常に重要な問題だ。私がここ最近野宿者問題について(臆面もなく本からの情報だけで)書いてきたことと、密接な関連がある。

生田武志氏が「〈野宿者襲撃〉論」で提起した重要な問題の一つは以下のようなものだ。

彼の「何かをしなければ生きる価値がない」というセリフは、むしろ彼自身が学校や家庭でさんざん言われてきたことではなかったか、ということだった。いい成績をとることが、そのまま学校、家庭、友達関係といったあらゆる場面での優位を保証するとすれば、一生懸命勉強して、成績に関して有能な人間であるための努力を続けることを余儀なくされる。そうしなければ、精神的な意味での自分の居場所がなくなるからだ。
「〈野宿者襲撃〉論」23P
つまり、少年たちは自分たちが生きなければならない過酷な学力競争ゲームのルールから降りることを許されず、逆に過剰なまでに適応してしまい、そのゲームにおける敗者になるかも知れないというストレスを、学力競争ゲームと相似のゲームである、就労競争ゲームの露わな「敗者」へと差し向けるというのだ。

これを解決するには、ひとつは、ゲームのルールから降りること、またはそのルールが絶対ではなく、他の生き方があるということを知ること。もう一つは、敗者に過酷な地獄が待っているようなルールそのものを変えることだ。決してそのルールそのものの絶対性を強化してはならない。それは単に非生産的であるばかりではなく、野宿者襲撃のような暴力的な帰結をもたらすだろうからだ。逃げられない単一のルールでの勝敗ゲームにさらされ続けるストレス。

私たちにはそのような過酷なストレスを強いるような環境、状況を相対化したり変えていったりするスタンスが求められているのであって、かような暴力的ルールを堅持したりすることではない。


私の「〈野宿者襲撃〉論」評にリンクして頂いた秋風碧さんの「SocioLogic」に以上の文章と関連して面白い記事があった。
「sociologic: 「ゲームのルールを変える」ゲーム」
ゲームのルールを変えることについての記事だが、途中いまゲームのルールそのものを変えずに自らの価値観を変えるという方向性があることに触れている。

1つは1年ほど前に飛び出し、一躍有名になったのが「働いたら負けだと思っている」発言だ。多くの人はこの発言を馬鹿にしたが、これほど大きな反響を呼び、感情的な議論を巻き起こしたのは、少なくない人がその発言の中に込められた、ある種の真実性に気づいているからだろう。モノ余り、情報余りの時代にあって、現代は消費者の立場が非常に強い時代であるということが言える。逆に言えば、商売をする側(=働く側)は「顧客満足」を題目にいいように搾取されているのであり、常に消費者の立場にいられればこれほどラクなことはない、という訳だ。従来の、一定の年齢になったら働くのが当然という価値観からすれば噴飯モノだが、ひとたびその「常識」を疑ってみると、その「当然」性には何ら根拠があるものではない。しかし、現実問題として、多くの人は家族を抱え、生活するためには働かざるを得ないのだから、疑問を差し挟んでしまってはいけないのであり、それゆえ感情的に否定してかからずにはいられないのである。普段の自分の仕事に何の疑問も持っていなければ、一笑に付して全く相手にもしないだろう。
労働は端的に生活していく上で継続的に金銭を必要とするからだという必要性、あるいは労働に内的に価値を見いだしているという自発性の問題であり、働きたくもなければ生きていける金があるなら働く必要性はそこで消えてしまう。だから、働きたくないけれども金がほしいから働かざるをえない人間にとって労働しているやつは敗者なのだ、と指弾する当該発言が真理を衝いてしまっていることは確かだ。

また、既存のルールにおける過酷な(勝ち負けでの格差の増大)ゲームに参加することはそれ自体でストレスであり、そんな不気味なゲームに参加することはできないという表明かも知れない。しかし、上記記事でも言われているとおり、これはその最大の問題であるゲームのルールそのものを改訂するものではない。

しかし、既存のゲームのルールによる問題点を決して認めることをせず、問題をほとんどそのルールからの逸脱者、敗者の側に負わせようとする人はおおい。

その点、上記記事からリンクされている「祭りの戦士」というブログでの内田樹批判の一連の記事は非常に興味深い。私はこの批判はきわめて正当だと考える。その記事以外でも、内田樹氏の「サラリーマンの研究」における問題点を指摘した「誘惑」もぜひ読んで頂きたい。

内田樹氏は知的な意匠を纏ってはいるが、「俗流若者論」的構図を強化することにきわめて積極的なスタンスであると思われる。次回、具体的にそれを検討したい。