「壁の中」から

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イアン・ワトスン――冗談のような話

●「エンベディング」

エンベディング (未来の文学)

エンベディング (未来の文学)

ルーセル本で触れたイアン・ワトスン「エンベディング」については、bk1に書評を投稿してみた。SlowBirdさん、中村びわさんと私だけが書評をつけているという、何とも微妙な状態。

「エンベディング」ではレーモン・ルーセルの「新アフリカの印象」はある意味小道具で、作中に突っ込んだ記述があるわけではない。着想のネタにはなっていそうだけれど、ワトスンの主眼は現実を越える認識であって、ルーセルそれ自体ではない。

ただ、アフリカが主人公たちの過去に因縁を持つ場所として出て来たり、子供に「新アフリカの印象」を聞かせ続ける実験をしている男の名前がクリス・ソール“Chris Sole”で、ロクス・ソルスLocus Solus”のアナグラムっぽかったりして、いろいろ匂わせてはいる。他にもあるかも知れない。

「エンベディング」自体は書評にも書いたとおり、SFの王道を貫きつつ最後にワトスン一流の冗談のようなオチをつけるという素晴らしい頭のおかしさを発揮した作品。タガの外れた作家だ。ネタばらしはしないので、読んで頭を痛めてください。

そういえば、これを読んでいて、最初の方はかなり読みづらい感じがした。わかりづらい語りをしているわけでもなく、二つ三つの出来事が交互に出て来る構成も話を追えないほど混乱しているわけでもないのに、なんでこんな読みづらいのか、とかなり疑問に思った。訳文のせいかとも思ったけれど、同じ山形訳の「暗闇のスキャナー」や「死の迷路」なんかは別に読みづらかった覚えはない。ただ、いくつかの文章に違和感を覚えたし(どこか忘れてしまった)、ワトスンの他の本ではこういう感じがなかったので、山形訳と私の相性が合わなかったのかも知れない。ただ、口語体にしすぎているきらいはある。もっとも本文もこうなのか知れないが。

あと、ワトスンは小説のキーになるSF考証の説明を端折ってしまうことが多い。きちんと説明すればそれほど難解なわけではないものであっても、具体的に展開されていないために、ある程度前提知識を持っている人でもないと、かなりわかりづらくなってしまう。「エンベディング」での「埋め込み」という重要なモチーフについても、関係代名詞を連ねまくったものなのか、多重括弧を用いた「新アフリカの印象」のようなものなのか、具体的なイメージが掴めない。「新アフリカの印象」をちょっと引用したりすればもっとわかりやすくなると思う。そういうことは「わかっているもの」として話が進んでいく場面が多く、先の場面できちんと説明が行われるのかな、と思っても、結局ちゃんとした説明がなかったりする。

これ、ワトスンの小説が頻りに、難解だとか観念的だとかいわれる一番の理由なんじゃないか。否定的にであれ肯定的にであれ、ワトスンを紹介する時にかならず「観念的」「難解」だと書かれてしまうほどには、彼の小説がそういう特徴を持っているとは思えない。核となるアイデアのとんでもなさと、その説明不足、そしてマジメに読むと肩透かしなクライマックス、この三つの要素がワトスンのいま流通するイメージを形成したのかも知れない。


で、ついでに「オルガスマシン」と「ヨナ・キット」も棚から引っ張り出して読んでみた。気がつけば、私はワトスンの邦訳された本をすべて持っていることになる。「マーシャン・インカ」も、ビショップとの共著「デクストロII 接触」もある。短篇集「スローバード」も読んだし、内容はほとんど覚えていないが、「川の書」「星の書」「存在の書」のファンタジーSF三部作も読んでいる。


上段左から「オルガスマシン」「エンベディング」「マーシャン・インカ」「ヨナ・キット」
下段左から「存在の書」「星の書」「川の書」「スロー・バード」「デクストロII 接触


●「オルガスマシン

オルガスマシン

オルガスマシン

で「オルガスマシン」は、ワトスン初の長篇ながら英語圏では過激さ(というか、フェミニストから叩かれることを恐れて)ゆえに出版されておらず、わずかフランスでのみ刊行されていた。それが日本で翻訳されるという慶賀に見舞われたのは、ワトスンがスピルバーグの「A.I.」の脚本を書いたという意外な繋がりのおかげのようだ。ちなみに「A.I.」の原案であるオールディスの「スーパー・トイズ」もその時翻訳され、オールディスの小説の単著としてはおよそ二十年ぶりのものだった(はずだ)。こういうことが起こるならドンドンSF映画を作って頂きたい。

オルガスマシン」自体は、女性が性的対象物としてのみ消費されている状況を過剰にかつパロディとして描き、その中から抵抗と革命を求める女性たちの物語を語るもので、ある意味きわめて普通なSF。全体主義的に女性が搾取され、男性の性的欲望を満たすためにのみ居場所を与えられている。この描写がネックで出版にこぎ着けられなかったのだろうけれど、今読むと結構平凡だ。

作中の女性たちはすべて人工的に「製造」される。人工授精で出来た赤子をカプセルで急速成長させながら、身体の部位を客の注文通りに改造される。その結果、主人公ジェイドは眼が特に大きく、一緒に工場で育ったハナは、乳房が六つついており喋れない。また、全身を毛に覆われた獣娘や、乳房に葉巻を入れる引き出しをつけられた女性もいる。男の欲望に都合のいいように改造され、脳に直接流れ込む放送によって精神状態を管理されている。

そういう過激な設定とは言えるのだけれど、ある意味男性中心主義的社会の諷刺として巧くはまりすぎている。つまり、まったくその通り過ぎて小説として面白味をあまり感じない。「ヤプー」は通読したことはないけれど、少し拾い読みした限りでは、男が徹底的に下層階級におかれているのだけれど、それはマゾヒストのユートピアでもある。「ヤプー」にはそういう果ての果て、という迫力があるんだと思うけれど、「オルガスマシン」はもっと良心的だ。全体主義的な状況は打ち破るべきものとして描かれるのだし、男たちの醜さと女たちの虐げられ抵抗する様子は読者の感覚からしても理解できないものではない。ワトスン自身、作中の状況を冷静に書いていると思う。非常に倫理的で理性的なのがこの作品の特徴だろう。

というか、現代型オタク表現―漫画にしろアニメにしろ―を見慣れた人間からすると、欲望充足装置という即物的な段階に留まっているところは逆に健康的にすら見える。

で、これを出版しているコアマガジンという会社は、リンク先を御覧の通り成年ものの写真、漫画、ゲームに関連するコンテンツが盛りだくさんの会社であって、ワトスンが「オルガスマシン」で諷刺しているようなポルノグラフィ的対象としての女性というものを商業的にに活用しているところ。ここから出るというのがすごい。

で、さらにすごいのはこの本の装幀。


カバーを広げ帯を取った状態。こんなの外で読めない。

一転、渋い。ずっしりと重く、高級感が漂う。

カバーをめくると。

横尾忠則
過剰なポルノ描写でそれを批判していく構成のこの小説が、これほどまでにポルノグラフィックな色彩をまとっているのは、ある意味で正しいとも言えるのだけれど。

カバーには全裸のジェイドのドールが堂々と横たわっていて非常に買いづらいが、カバーを外すと一転、黒一色で重量感があり、渋い。が、ページを開くとカラー写真のドール。数ページそれが続き、ラストには横尾忠則。わけがわからんと思っているうちに本文をめくっても、ドール制作者によるイラストレーションが各章の頭についているという凝りよう。やりすぎ。

ちなみに、この作品の冒頭は舞台が日本に設定されていて、日本人の作った工場でジェイドたちが製造されている。そして、作中にはTズ・ガール(忠則の女の意)という、横尾忠則ファンの女性というのが出てくる。で、彼女が言及している忠則作品が巻頭に載っているわけだ。それなりに素直なSFの体裁をとっているこの本の中で、このくだりはワトスンならでは(だと私が勝手に思っている)の冗談が炸裂している。反撃を開始して逃げているところでそのTズ・ガール(すぐ後に、ノリと改名する)に出会うのだけれど、彼女はずっと市内最大のゴミ処理場で、忠則作品の模倣を演じ続けている。がらくたで張りぼてをつくって、忠則作品を再現してその絵のなかの女性として自分が収まるというパフォーマンスだ。
二つほど引用。

何やら考えながらTズ・ガールはニッカーボッカーの脇から脇を親指でなでた。口をとがらす――何十年も前、一九六八年というフラワー時代[引用者註・作中の歴史での時代区分らしい]に学芸書林から出版された『横尾忠則遺作集』の十八頁と十九頁にある、すばらしく皮肉な肉体の仕種そのままだ。
171P
「お願いです、離陸しましょうよぉ。こういうゴミ捨て場には夜になるとギャングがうろつき回るんです」
「ノリ、あんた、ギャングのことで困ったことあったかい」マリが訊く。
「Tの画像のおかげで連中、寄ってこなかったわ。あの画像はとても強力なのよ。ブロンドの海岸監視人や象はね」
「朝まで、あれをヘリのまわりに立てとこう」
173P
下のものはゴミの山で横尾忠則作品をパフォーマンスしていると、ギャングたちも近寄らない、というとんでもない場面。このキャラクタだけ、すっごい妙。学芸書林の名前をここで見るとは。基本はスタンダードなディストピアSFなのに、やはりワトスン、こういうどうしようもない冗談を忘れない。

ただ、作品自体は微妙。普通のSFという感じで、面白い!というほどではない。1970年という時点でフェミニズムを導入したSFとして興味を持つなら面白いかも知れないが。基本的に、定価2800円を装幀やワトスンを応援する意味に費やしても大丈夫という人むけ。どうも、もう品切れらしいけれど。ちょっと前までは手に入る感じだったから本屋に在庫が残っている可能性もある。

●「ヨナ・キット」

で、余勢を駆って「ヨナ・キット」も読む。

これは「エンベディング」で山形浩生が解説していたように、物語展開や設定状況などが「エンベディング」によく似ている。同工異曲というのもうなずけるほど、基本的な枠組みが共通している。こう見ると、「オルガスマシン」はちょっと作品歴のなかでは外れた位置にあるものなのだろう。

「エンベディング」のネーミングに沿って名づけ直すなら、「ヨナ・キット」は「インプリンティング」とでも題することができる。人間の意識を植え付けられたクジラと、人間の大人の意識を植え付けられた子供とが物語の鍵になっているからだ。クジラに人間の意識を植え付け、それによって人間とクジラとのコミュニケーションの回路を開こうという計画である。そして子供の方は日本に亡命してしまい、彼とその付き人を保護した科学者たちの鼓動が第一のプロット。

「エンベディング」で「言語」を扱っていたけれど、今作ではそれが「意識」になっている。異なる意識と接触しようという、ある意味ファーストコンタクトものであることも「エンベディング」と似た部分。そこに、メキシコで天文学を研究している科学者が新しい宇宙理論を発表し、それが全世界にセンセーションを巻き起こし、騒乱が起こり始めるというのがもうひとつのプロット。

そして、やはり今作にも日本が出てくる。「エンベディング」ではイザナギ何とかっつう奇っ怪な名前の日本人が出てきたくらいだったけれど、「オルガスマシン」では舞台設定や横尾忠則が日本だったし、「ヨナ・キット」も日本がひとつの舞台になっていて、物語にかかわる重要なファクターを与えられている。それは三島由紀夫にについてで、彼の切腹が世界に衝撃を与えたことが語られる。そして、それとリンクするように、ある日本人科学者が切腹してしまうのだから頭が痛い。だいたいここらへんからこの小説は暴走していく。この小説の一番頭が痛い部分は山形氏が「エンベディング」の解説でネタを割ってしまっているけれど、まあ、とんでもない話だ。

山形氏はこの小説には反捕鯨の稚拙な政治的メッセージがあるといっているけれど、あまりそうは読めない。というより、作中人物が「日本人は鯨を食べないと飢え死にしてしまう」と発言するんだけど、そんなことねえだろ、と笑ってしまってそれどころではないという感じだ。

鯨に限らず、ワトスンの小説では、進んだ科学に対して自然の側からの対立を設定することが多いようだ。「エンベディング」でのゼマホア・インディアンなどがそうだ。それは安易な非西欧的思考の称揚とも取られかねないのだけれど、対立を冗談としてスラップスティックじみたオチに収斂させてしまうところが彼の持ち味だろう。だからといって、小説全部が冗談のために作られているといいたい訳ではない。構築と破壊を自分でやってしまう作家だということであって、安易な希望や安易なペシミズムに与しないというスタンスなのだろうと受け取っておきたい。その破壊の仕方がすごい面白いというだけ。

まあ、私のなかではイアン・ワトスンは、確信的な冗談を持ってくる小説家というイメージが定着してしまったので、これからもそういう方向で読んでいきたいと思います。ただ、「マーシャン・インカ」はストーリー展開がほとんど同じだろうことが予想されるし、「デクストロII 接触」はどういう話かよくわからないので、後回し。私は奇想小説にシフトしてからの、つまり「エンベディング」解説で山形氏が挙げている、Deathhunter以降のやつが読みたい。そっちの方が彼の冗談小説家としての資質が発揮されているのではないかと思うからだ。誰か訳して。

SlowBirdさんが書いている落語作家という評言も的を射たものだと思う。レムの「枯草熱」は確かに、オチがすごかった。この手のバカSF方面というのはもうちょっと人気が出て欲しい。ベイリー、ラッカー、ラファティとか。