「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

内田樹の言説の批判的検討・2

前回の続きです。


●贈与をどう考えるか

さて、「贈与」ですが、この語については、内田氏および荒井さん、kawakitaさんそれぞれでどうも定義がかなり違っているようなので、ややこしいことになっているようです。そもそも、kawakitaさんは贈与を「対価が得られないこと」と定義していますが、これはおそらく「贈与」ではない、少なくとも荒井さんはそのようなものを贈与とは呼びません。では、内田氏はどうか。内田氏は上でも引用したように、「非等価交換」「仕事」「贈与」は一つながりのもののようです。三人全員違います。

内田氏はまた「サラリーマンの研究」では「自己を供物として捧げることで共同体を維持する」という言い方をしています。しかし、これは果たして「贈与」と言い換えることが可能かどうかは改めて疑問に思います。贈与や供犠などについては全くの不案内なので、適宜文献を参照していきます。

境界の発生 (講談社学術文庫)

境界の発生 (講談社学術文庫)

「自己を供物として捧げることで共同体を維持する」とは、いわば「人身御供」を指していると思われます。人身御供とは、赤坂憲雄が「境界の発生」での「人身御供譚の構造」で述べているように、共同体を創設し、維持するための暴力的な犠牲です。赤坂氏はこう書いています。

媒介者=イケニエを供犠によって破壊(殺害)することで、内部/外部の分割はなしとげられる。それゆえ、供犠とは不断にくりかえされる境界更新のメカニズムでもある。供犠の象徴的機能は、境界の設定・維持にかかわる共同体の儀礼カニズム、としてとらえかえすことができる。
(中略)
連続する切れめのない空間に境界標識をたてるということは、ある秘められた根源的な暴力、つまり供犠であることを、あらためて確認しておきたい。
236P
「供犠」とは「共同体の創設・維持」のためにもちいられる「根源的な暴力」であって、心理的な問題ではまったくないのです。交換というものでもない。「不当に収奪される」かどうか以前に、自己を供物として捧げる、ということは死を意味し、対価が得られるか得られないかという水準での問題ではありません。内田氏は、自己をむさぼり食われることで自分の存在を知る、と言いますが、犠牲に供された人間はむさぼり食われたときにはすでに存在しません。快楽を得ることもできないでしょう。

この時点で、自己を供物として捧げること、と「不当に収奪されているという実感」がどうやっても結びつけ得ないものである、そもそも感情の問題と物理的な暴力との水準の差を無視した短絡であることがわかるかと思われます。

では、「労働」は「贈与」あるいは贈与的契機を含むかどうか。ここは阿部謹也の「中世の窓から」を参照します。

中世の窓から (朝日選書)

中世の窓から (朝日選書)

まずもって、贈与は対価を求めない行為ではないということを確認しておきたいと思います。日本での贈答物が、基本的には返さなくてはならないものであることからも分かるとおり、儀礼として、贈与に対しては贈与で応えなければならないのです。これは、貨幣経済以前の社会においてはより強固な義務として観念されており、贈与に対する返礼を怠った場合、直ちに戦争状態に突入することにもなります。

こちらも参考になります。交換(贈与交換)

思うに、そのような社会では、交換そのものが目的であったのではないかと考えられます。交換することで人的な交流を保障し、名誉を誇示したり、敵対していないことを証明したりする。

人類学的な意味での「贈与」とはこの種の交換形態を意味しているようです。つまりこれもある意味では等価交換なのです。この見解に従うとすると、Gilさん、荒井さんの意見に衝突します。

贈与は交換であるとします。しかし、これは現在の貨幣経済下での交換行為とは明確に対立します。阿部謹也は以下のように書いています。

何故貨幣経済は不潔と考えられたのでしょうか一一世紀以前のモノを媒介とする人と人との関係は、人間の共同生活の非常に古い層に根差すものですから、簡単には消えません。贈与慣行は根強い倫理・掟として今日においてさえ部分的にはのこっています。クリスマスや復活祭でもないのに、やたらに物を受け取ることにやや抵抗があるヨーロッパの人でも、食事に招待すれば喜んで応じてくれるでしょう。そして必ず返礼として招待してくれるでしょう。対等の関係を保つための必須条件だからです。
 ところが、モノを与えた人(売り手)に対して、受け取った人(買手)がすぐその場で何ら自分の人格とは関係がない金属片(貨幣)を渡して、何の返礼もせず去ってしまったらどうでしょうか。一一世紀以前の倫理の世界に生きていた人ならば、腹を立てるよりは相手を軽蔑したでしょう。モノの交換の背後には、本来人格と人格のふれあい、あるいは勝負があったからです。
220P

つまり、交換が人間的価値を経ないでなされてしまうこと、交換によって成り立っていた人的交流が破壊されてしまうこと。貨幣経済はそういう事態を招いたわけです。だから、人類学的な「贈与」概念を採用するならば、この点を問題にしなければなりません。「贈与」は対価がゼロなのではなく、交換に貨幣をもちいないという点で、貨幣経済へのラディカルな反抗になるということじゃないでしょうか。つまり、贈与とは貨幣をもちいた価値の測定を拒否するものだと言うことは言えると思います。

その意味で、少なくとも、kawakitaさんの仰る、交換が等価におこなわれないということは「贈与」とは関係のないことだと思われます。「貨幣による等価交換原則」の破壊、ということならば荒井さんおよびGilさんの見解にはそれなりに同意できるとは言えるでしょう。


●労働概念の混乱

内田氏はこう書いています。

労働することは神を信じることや言語を用いることや親族を形成することと同じで、自己決定できるようなことがらではない。
労働するのが人間なのだ。
だから、労働しない人間は存在しない。
はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。
kawakitaさんは以下のように仰っています。

「人間的」であるとは「自己の資源のすべてを自家消費しないこと」であり、それは「社会に何らかの形で参加する」ということです。内田氏はこれを「人間的」と呼んでいるのです。
内田氏の文脈をあえて丁寧に読むとすればそうなるでしょう。氏の人間の定義を最大限に抽象化すると「人間同士のコミュニケーションに参加する」ということになるかと思われます。これ自体には人間の定義としてはわりとポピュラーかつ「それなり」に納得できる言明です。

しかし、その前提を認めた上でもこう言うことができます。

「社会に参加する」ことは労働によってでなければ達成できないわけではない。

つまり、人間である条件に「労働すること」を設定することは誤謬です。十分条件であるかも知れないが必要条件ではないからです。労働が社会に参加することの典型的な形であるとしても、それしか道がないわけではないことは、kawakitaさん自身が「消費もまたオーバーアチーブメント」であると仰っていることから明らかです。このとき、kawakitaさんは「労働するのが人間なのだ。だから、労働しない人間は存在しない」という内田氏の言説には絶対に同意できないはずです。なぜ見過ごしているのですか? この内田発言は、労働のみによってしか人間は社会に参与できないという前提をたてて初めて可能になるものです。

内田氏は、

労働もまたそのような「個人が自発的に演じうるものではない」ところの社会的行動のひとつである。
だから、「仕事をする」というのもまた、「神に祈る」とか「言語を語る」とか「ひとを愛する」と同じように、「するか、しないか」を自己決定することも、「どうして」そのことをしなければならないのかの理由を合理的なことばで説明することも、私たちにはできない種類の営みなのである。
という風に「労働」を概念設定しておきながら、その次の段で、「労働」しない若者を議論しています。もううんざりします。前段の「労働」と後段の「労働」は明らかに違う概念を背景にしてもちいられていることは明らかです。自発的に演じるということができないはずなのに、労働を自発的に選択しない若者を論じるという摩訶不思議な文章を内田氏は書いています。

1・労働は自発的に演じることができない人間存在の本質
という内田氏による独自の意味づけをされた抽象的「労働」と
2・賃労働に従事すること
という一般的な使い方での「労働」とふたつの「労働」が内田氏の文章には混在しています。

それをふまえて内田氏の文章を読むとこうなります。

労働することは神を信じることや言語を用いることや親族を形成することと同じで、自己決定できるようなことがらではない。
労働するのが人間なのだ。
これは1の労働概念によって書かれています。そこに続けて

だから、労働しない人間は存在しない。
はたから労働しない人間のように見えたとしても、主観的には労働しているはずなのである。
ここでは2の意味での「労働」、賃労働に従事していない若者を指しています。しかも、「労働」は「主観的」でもありうる、と来た。「主観的な労働」という第三の概念?

こうして複数の労働概念が定義を明示せず混在させられていることがおわかりかと思います。この種の言い回しは他の記事でも見つけられます。1と2の意味での「労働」が概念的には全く異なっているのにもかかわらず、同じ単語を使っていると言うだけでごっちゃにして使っているのです。ここまで非論理的な文章を書くことができるということには本当に驚嘆します。

続けます。「不快という貨幣」が全面的に与太であると私は以前の記事で書きました。それは上記のようにそもそも用語の使い分けがデタラメだからです。労働がすべての人間に本質的なモノであるなら、ある人間が就労しているかいないか、賃労働しているかいないか、という行為を「労働」という概念から語ることは不可能になります。「労働」といいつつもっと抽象的なことを指しているわけですから当然です。だから、上述したように「不快という貨幣」はサラリーマンも使っているのですから、「働かない若者」のことを考えなくても成立してしまいます。これについてはsivadさんの仰るとおりです。

理由は簡単で、「コンスタティブ」な分析に耐えるものではないからです。データどころか、定義すら明示していない訳ですから、逆にいえばどうとでも取れるわけで、それをコンスタティブに分析しようとすることは単にその書き手の価値観や姿勢を表明するに過ぎません。

●本質規定は差別の口実

私は以前の記事でも内田氏の

「労働しない人間は存在しない」

を問題にしましたが、もう一度繰り返します。上記のような概念的混乱と「労働」の定義を明示せず、この文章が書かれるということは、一般の意味での「労働」としてこの文章を読むことができるということです。つまり、働いていない若者に対して「働かない者は人間ではない」という言葉を投げつけることを可能にします。

kawakitaさんが内田氏の言説は本質規定であり、規範規定でないから問題がないかのように仰いましたが、これは私には犯罪的態度であると映るものです。とりあえず以下のように本質と規範とを考えることができます。

○規範=教化
○本質=排除

「規範規定」とは、ある理想を想定し、それに及ばないものを何とかして理想に近づけようと言う教化・馴致の言説に関係します。そして「本質規定」とは、ある抽象的な定義を想定し、その定義に満たないものを除外するという排除・差別の言説に関係します。

内田氏の言説をオヤジ的規範規定だと解釈するなら、若者への説教ですが、内田氏の言説を本質規定と解釈するなら、若者を排除するということになります。

つまり、「労働しない人間は存在しない」という言いぐさは、働いていない人間への決定的な排除・差別に繋がるものです。私はこのような傲慢な言動を絶対に許容するつもりはありません。

労働しようにもけが、病気、障害、その他様々な理由で(賃労働という意味での)労働に従事することもできない人たちが存在します。概念設定を混乱させた上で「労働しない人間は存在しない」などというということは、そういった非労働者を完全に否定する言説として機能します。

上山和樹さんが「人間ではない」という記事で仰っていることはきわめて正当だと思われます。

そもそも、人間の本質規定に「労働」を持ってくること自体がおかしいのです。これがたとえばコミュニケーションであるならまだいいでしょう。病人でも障害者でもひきこもりでも、その様々な局面で他人とのコミュニケーションをして生きています。ひきこもりは引きこもるという行動によって他人とのコミュニケーションを撮っているわけです。

ALS 不動の身体と息する機械

ALS 不動の身体と息する機械

しかし、意識だけは残っていても、身体の自由が全面的に奪われ、外部とのコミュニケーションをとることが不可能になるという場合もあります。いま読んでいるところですが、立岩真也の「ALS 不動の身体と息する機械」には、全身の筋肉が萎縮し、呼吸をするのにも機械の助けを借りなければ生きていけないALSの人たちが、コンピュータなりを使って書いた文章などをさまざまに引用しています。彼らは眼球の動きなどを使って外部とコミュニケーションをとります。しかし、それでも症状が進行し、最終的に

「筋肉の動きを介する外部への発信がまったくできなくなる状態、「(トータリィ)ロックトイン・ステイト」(Totally Lockedin State=TLS)がやがてくることがある。
155P
しかしそれでもその人は呼吸器を取り外さないかぎり生きています。外部とのコミュニケーションが全く不可能になってもやはりそれを「人間でない」という風には私は思えません。これと反対であるともいえる植物状態の人間であっても、やはり生きているし、「人間でない」などとは決して言えません。コミュニケーションを人間の本質と規定することには抵抗があります。

内田氏の言説は非労働者を決定的に「人間」から排除します。ALSの人たちにとって、人間か人間でないかというような問いかけは、そのまま命を絶たれる可能性を増大させるものです。ALSの人たちにとって、全く動けなくなってしまって家族にも負担をかけ、それでも生きているという状態はそれ自体で呼吸器の取り付けを拒否するような心の重圧になりうるのです。そういう理由で付ければ生きていける呼吸器を拒否した人がいます。立岩氏は本書で慎重にかつ力強く、「それでも生きたほうがよい」と主張しているのですが、そういう努力を無に帰すような無神経さが内田氏の言説に存在しています。

それともALSの人たちは「自己を供物として捧げている」とでもいうのだろうか? いったい誰に?

そもそも、差別というのは本質規定を背景にするものではないですか? 女は人間(男)ではない、黒人は人間(白人)ではない、という風に恣意的な形で「人間」の本質規定がおこなわれることで、差別、排除が正当化されるのではないのですか?

はっきりいって、本質規定は規範規定よりも悪質な言動でありうると私は認識しています。規範規定は、その規範からはずれた人間の存在をまだしも許容しますが、本質規定はそうではありません。その本質からはずれたものは端的に「人間」ではなくなるのです。これこそ根源的な暴力だと思います。


●与太をまともに論じても無意味

しかし、繰り返し指摘したように内田氏はつねにデタラメを振りまいているのであって、まともに相手をするだけ労力の無駄かと思います。デタラメに本気で怒ってみても暖簾に腕押しでしょう。概念規定が根本的に混乱している内田氏の言説に依拠することはやめるべきだと思います。

知人から言われたことですが、もし内田樹を問題にするなら、なぜ彼がそのようなデタラメを書き飛ばすのかを考えた方が良い、と。私の説は、ちょっと触れましたが、俗流若者論的な、現代社会の問題はいまの若者のせいだ、という言説を、さも自分がスマートに分析しているかのように偽装しているというものです。

自分は客観的に現代を分析している、という自己像を描き出しつつ、問題のすべてを内面に還元するのです。「「ニート」って言うな!」でも指摘されているとおり、構造の問題を内面の問題に還元する操作が、俗流若者論に典型的に見られる論法です。だから、それが表面的に説教という体裁をとっていようがいまいが、内田氏は明白に俗流若者論なのです。

内田氏は言葉の節々で若者に対する批判をおこないます。働かないことが合理的な思考によるものである、と論じつつそれが「病」であると表現したり、「働いていない若者」という事実言明を「働かない若者」という意志の問題に変換したり、問題は若者が労働に対して持っている「意味づけ」である、と動機の問題を云々したり。これは事実言明のふりをした規範言説です。その証拠に、彼らがそのように思考する原因はつねに教育の失敗として語られています。

働くことの意味をきちんと教えてやることができなかった、という意味では内田氏の反省的な思考であるということもできますが、これは同時に、働く意味をきちんと教えられれば若者は働く、ということでもあります。つまり、ここでは根本的に若者の働く意欲が問題にされているのです。内田氏によるおためごかしを振り払ってみればなんのことはない、ただの俗流若者論です。

問題は意欲を持ったとしても、就業機会が提供されないことであるということは、「「ニート」って言うな!」でも指摘されています。

これ以上言うことはありません。