「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

再度「Gunslinger Girl」について・1

この漫画をはじめて読んだのは確か連載第二話目のリコのエピソードで、電撃大王に載っているのを某人に読めといわれたからだった。第一印象からいわくいいがたい違和感を覚えた。その次は確かフランカがスペイン広場でヘンリエッタと遭遇するエピソードで、その時は明らかに嫌悪感があったのを覚えている。で、その後いろいろセカイ系だとかの議論が盛り上がっている頃に単行本をまとめて読んだりして、その某人やその他の人たちとこの漫画をどう思うか、という話をよくしていたのが去年の夏あたりで、その辺の話をまとめて十一月の文学フリマで発刊した幻視社の同人誌に載せた。

だからわりと私のなかでは「終わった」感があるのだけれど、(六巻も読んでないし)下記のURLで私の記事に対して批判があり、それについてコメントしていたら下記ブログで独立記事としてエントリされたので、それに応答する形でガンスリについてまとめをを書いておこうと思う。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060104#1136355365
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060105
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060106

上のコメントは私の過去の記事を参照しているので、下のURLの記事を一応みておいてください。内容が被っていますが。

http://inthewall.blogtribe.org/entry53a3c2d9faa4c26e8d6080ab091508a4.html
(この記事はわりと挑発的に書いたので、今見かえすと削りたい文章が散見されるけれども、それは措いて話を進めることにする)


まず上記の私自身の記事について補足をしておきます。
私が「ガンスリ批判」において採用した「基準」について。

上記の私の「ガンスリンガーガール批判」の記事はあくまで「私自身にとってガンスリという漫画が気持ち悪い理由」を作品に原因を求めて考えたものです。だから、作品選定もその批判理由も極めて私的な印象に発している。私的な「基準」が根底にある。だから、あまり使いたくはなかったのだけれど、幾つかのコメントのなかで私自身の批判や他の幾人かの批判文を「倫理的批判」と呼んでしまっている。こういう言葉を使うと、ガンスリが扱う「薬漬けの少女」や「可哀想な少女」を一律に、道徳的に断罪しているかのように思われてしまうのだけれど、私がガンスリを批判するのはそういう理由ではありません。私自身は、作品内の事象にかんして断罪しているのではなく、作品をどう構成するか、どう語るか、という点について、その自己批評性のなさにおいて批判しているつもりです。

で、なぜ「ガンスリ」をことさらに取り上げて批判するのかということが問題になるのだけれど、その理由は上記記事でもあるとおり「少女と暴力」という問題にかかわってきます。しかし、「少女と暴力」というだけなら、少女自身が戦闘に巻き込まれてしまう作品として富沢ひとしの「エイリアン9」などを挙げることもできます。このふたつは共に「戦闘美少女」という括りが可能だし、ロリコン趣味でいうなら富沢ひとしの諸作の方がその「真性」具合においてはヤバイんじゃないかと思うくらい(セクシャルな暗示・示唆が頻出する)ですが、私自身は富沢ひとし作品というのはむしろ好きだったりするし、批判しようとは思いません。

エイリアン9」に限らず富沢ひとし作品というのは、少女や子供たちへの「暴力」を描くが、それは常に不気味なものとして描かれています。「ブリッツ・ロワイアル」では子供たちを強制的に暴力にさらして訓練させる様子が描かれるのだし、「エイリアン9」でも、エイリアン対策係になることを強制された主人公の「イヤな感じ」がたびたび表明されています。丹念に読み返していないので大まかに語るけれど、富沢ひとし作品では、少女や少年に振るわれる暴力が、不気味さと共に描かれる事によって、その「暴力性」が際立つように描かれています。さらに、基本的なストーリー自体がつねに説明不足かつ唐突で、「次のコマで誰が死んでもおかしくない」ような展開は、読者の感情移入をはねつけてしまう。ある意味、富沢作品に対して読者(私)は、つねに傍観者的に、そしてそこで展開されている暴力などを不気味な違和感のあるモノとして受け取らざるを得ないようになっている(クリーチャーデザインの気味の悪さも特筆すべきか)。作品世界で振るわれる暴力も容赦が無くて、「エイリアン9」ではヒロインたちはそれぞれエイリアンに浸食されて二度と元に戻れないような取り返しのつかない変化を被る。暴力が残虐なものとして、取り返しのつかない痕跡を残すものとして、気持ちの悪いものとして描かれる。

つまり、私が「エイリアン9」などの作品に見て取るガンスリとの差というのは、「少女への暴力」を表現する際の倫理的態度にある。強制的に戦闘を行わざるを得ないように設定されるような「戦闘美少女」がダメとか、「少女への暴力」そのものを一律に批判したいわけではない。簡単に結論を言えば「少女への暴力」を描くなら、その書き手自身のセクシャリティ、暴力性をつねに意識し、それを書く「自己」への批評性を働かせねばならない、と私は考えているということ。富沢ひとしの諸作にはその「批評性」があり、それがちゃんと作品を構成する重要な要素となっていることが、私が富沢ひとしを評価する理由のひとつです。

また、「萌え作品」でもあるガンスリを、「萌え」に傾倒しているから批判しているわけでもない。作品内から男が消されていて、読者はただ作中人物だけを愛でるように眺めて「萌える」ことができる「苺ましまろ」のような作品だって、いくらでもあるわけだけど、別にそれらに嫌悪感を抱いたり、批判しようと思ったりはしません。私はあずまきよひこの漫画が好きだったりもするので、「萌え文脈」そのものを「サブカル漫画読者」的に嫌いはしません。むしろ私はサブカル漫画的なものの方が好きではない。

問題なのは、ガンスリンガーガールという作品が、少女への暴力的搾取の構図(薬漬けの暗殺者)を、その萌え表現によって隠蔽しているように見えるという点です。(リコをのぞいて)少女たちが決して望んできたのではない場所で、薬による人体実験の素材にされ暗殺者に仕立て上げられるが(これは物語内部の水準)、決して少女自身それが問題であるかのように思わせず、あまつさえそこにいて日常生活を送れることが幸せであるかのように語らせる(作者=語り手の作為の水準)。この物語内部と語り手の作為の組み合わせが私の批判する当のものです。

「倫理的な批判」に対して意味がないとかいう人はだいたいこの機制を理解しないで、感覚的に批判しているように思います。非常に簡単に言うと、「悪を書くならそれが悪でないかのように書くのは欺瞞ではないか」、と私がいっている(または批判派が)のに対して、「悪を書くなっていうならほかの表現も全部批判すれば?」と応答されているような話の噛み合わなさを感じています。

少女への暴力そのものを批判しているわけでも、ロリコン趣味を批判しているわけでも、萌え漫画を批判しているわけでもありません。その組み合わせ方に非常に大きな問題があると言いたいのです。暴力が、まるで暴力ではないかのように語られてしまうのは作為的なゴマカシだと言っているのです。ロリコン趣味や萌え漫画、少女漫画的表現というのはその際に何を目くらましとしているかという点で関係する話題に過ぎないともいえます、

私が上記記事で

この作品では自らの暴力性や非倫理性に対して(ついて)、反省しないことが徹底されている
とか
この作品では少女を暴力にさらすこと(義体にしたり、戦闘させたり)にカタルシスを得ているという状況・設定を、その少女自身の内面語りの感傷(小さな幸福)によって隠蔽しようとしているところが私が嫌悪感を感じる点の一つと言うことだ。そして、その構図を維持するために、少女自身の自発的意志や、主体性、自由意志といったものがすべて排除されていて、かわいい人形としてしか存在を許されていない。そして、そのように少女を人形たらしめていることの問題性は排除される
と書いているのは、そういう意味です。私のガンスリ批判の主眼はそれです。

次回に続きます