「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

最近読んだ本 SFマガジン、石川淳


SFマガジン 2005年4月号 通巻588号
クリストファー・プリーストの短篇、飛浩隆の長篇序章、イーガンのノヴェラ(中篇)、他にもウルフ、ウィリス、神林長平、と今年度「ベストSF」上位作家の作品集。このラインナップに、普段買わないSFマガジンをつい買ってしまった。SFマガジンを新刊で買うのはラファティ追悼特集以来だ。表紙は安倍吉俊lainはSF?)。他にも撫荒武吉、緒方剛志といったイラストレーターが描いているところがいかにもSFマガジン

グレッグ・イーガン「ひとりっ子」“singleton”
なかなか期待して読み始めたのだが、この、冒頭のイーガンの中篇「ひとりっ子」からして楽しくない。
人為的にプリセットされた機能をもって生まれた人工生命の子供と、それを育てる親との家族ドラマという体裁で、フランケンシュタイン以来の人造人間テーマの変奏(自然に反する生命を生み出す側の苦悩、そして生み出された側の苦悩)なんだろうが、肝心の量子コンピュータにかんする説明がまったくわからない。

家族ドラマ部分はそれでも普通に読めるのだけれど、“クァスプ”なる装置を人工生命に埋め込むかどうか、というこの小説で主人公や妻が最も悩んでいる部分で、まったくその理由がわからない、という致命的に読みに支障をきたす事態が出来し、なんとも消化不全な読後感となった。

ただ、あくまで感触としてだが、悩んでいる理由が把握出来たとしてもあまり面白い小説になるとは思えない。

飛浩隆「空の園丁 廃園の天使II」
飛浩隆の「空の園丁」は冒頭部分だけで未完だが、飛氏の基本的な筆力が信用できるものであることを示す好感触なでき。基本線は(むかしSF作家が少年むけに書いていたような)ジュヴナイルもののフォーマットに近いものがあり、そこに「グラン・ヴァカンス」で見せたような飛氏の趣味(フランス文学的残酷さ)を少しずつ混ぜていく、という方向で、第一部と繋がっていくのだろう。「象られた力」は積みっぱなしなので、そのうち読んでおこう。あと、雑誌発表の中篇群も本にして欲しいところだ。

神林長平「罪な方法、模型・模倣・消去」
なんかの短篇連作シリーズらしいが、単体でも充分読める。掲載作のなかでは最もスタンダードにSFで、普通に読んで普通に面白いSF短篇としての水準作、だろうか。ただ、オチの付け方に妙なところがある。最後の逃亡のくだりは蛇足ではないのか。

クリストファー・プリースト「火葬」“Cremation”
プリーストの短篇は、以前にもひとつ読んで、あまり面白くなかったのを覚えているが、これも特に面白いものではなかった。長さの割りにアイデア(というほどのものでもない)が単純で、昆虫の気持ち悪さは印象的だが、それ以外の部分にあまり魅力がない。島の奇妙な風習などの設定は、いったい何のためなのだろうか。シリーズの他の作品で生かされるものなのかも知れないが、これ単体では、正直別に読まなくてもいいと思った。

コニー・ウィリス「からさわぎ」“Ado”
言葉狩り」をテーマにスラップスティックを書け、というレポート課題にまじめに取り組みました、という印象。言葉狩りシェイクスピアがずたずたにされる、危ないぞ! というセンスはさすがにいま読んで面白いものではない。

ジーン・ウルフ「録音」“The Recording”
これ、なにがどうなった話なのかさっぱり理解出来ないのだけれど、なにがゴーストストーリーなのか、だれか教えてくれませんか? レコードを掛けながら、そにまつわる痛々しい記憶を回想している、だけに見えるのだけれど。二三度以上読み返したけれど、ダメだった。最後のルディー・ヴァレーという人の曲は、なにか意味があるのだろうか。Rudy Valleeというと結構有名な歌手みたいだし、作中の歌も実在のものらしいけれど、どういう意味なのか解らない。

読んだ小説は以上。
全体的に低調で、これだけ豪華な名前がそろってこれでは、普段はどんな内容なのかとても心配になってしまう。また、小説以外の誌面も妙に古くさく、魅力に乏しい(たすけてメイヴちゃん、なるスピンアウト企画とか正気なんだろうか)。大丈夫なんですかね、この雑誌は。いや、是非とも存続していて欲しい存在ではあるけれど。


●石川淳「鷹」講談社文芸文庫

鷹 (講談社文芸文庫)

鷹 (講談社文芸文庫)

石川淳最高の短篇(だと私が勝手に思っている(が、それなりに同意する人もいそう))「鷹」含む中篇集。
「鷹」だけ他の本で読んでいた。この本は古書店で見つけたのを友達に貸したらとても好評で、私の読んでいない併録されている「珊瑚」「鳴神」も面白いぞ、と言われたので「鷹」を読み返しつつ読了。

「鷹」はやはり傑作。

ここに切りひらかれたゆたかな水のながれは、これは運河と呼ぶべきだろう。
この一行目を見てもそうだが、石川淳には水を書き出しに含む小説が多数あり、「至福千年」の「まず水。」や「普賢」の「盤上に散った水滴が変り玉のようにきらきらするのを手に取り上げて見ればつい消えうせてしまうがごとく…」や、「佳人」の「…わたしはわたしはと、ペンの尖が堰の口ででもあるかのようにわたしという溜り水が際限もなくあふれ出そうな気がする…」などといった一行目にあふれ出す水のエレメントは石川淳のイメージを決定づける重要なものだ。作中にしばしば出てくる水は、人々の運動のエネルギー、何にも囚われないという束縛を逃れ出る無定型・自由、川にもなり波濤にもなる大量の流れ、といった印象を想起させる。

「鷹」で描かれるのも、そういった運動の極点、革命運動の一場面である。幻想的というか、謎の光に照らされて明日の新聞の文字が浮かび上がるとか、“明日語”(エスペラントが元ネタか?)という不思議な言語など、SF的ガジェットを用いた諷刺小説の体裁を取っているところは非常に魅力的。

だが、それ以上に面白く、興味深いのは、作中に出てくる少女像である。
キュロットスカートをはいていて、男のようとも形容され、中性的なイメージを持った少女が、鞭をしならせる。男勝りの苛烈な性格で、ヒロイックな少女というのは中篇「修羅」や「狂風記」のヒメをことさら持ち出すまでもなく、石川淳に顕著なキャラクターで、ここに出てくるキュロットの少女もその一類型に分類され得るだろう。

しかし、なかでも「鷹」が突出するのは、キュロットをはいて鞭をしならせ、その姿に主人公国助がうっとりとなってしまうところで、ここに現れるジェンダーの妙な混乱、直截に言うと倒錯的な性癖が面白すぎるところだ。中性的な少女、鞭、叩かれることを想像しうっとりする男。

この少女がラストで革命の象徴のように、鷹に変貌し翼を月夜に広げる場面はたとえようもなく感動的で、「鷹」のすばらしさを決定づける名場面だろう。

少女はつまり革命のエネルギーを一身にまとう存在であり、その存在がキュロットスカートの少女という点がこの小説に妙な(変な?)魅力を添えている。石川淳という和漢洋の教養を縦横無尽に繰り広げる孤高の文人の手による、革命燃え=萌え小説である。1953年の作。

そういえば、石川淳というといま書いたように和、漢、洋、の素養を持ったと強調されるが、そこでなお強調されなければならないのは、そのような素養、教養からもまた逃れ出ようという意志であり、その意志の現れたる、ぶっきらぼうで破壊的な文体だ。俗語をとりまぜ硬軟のバランスで文章に起伏を持たせ、さらには車を“カー”、銃を“ガン”と地の文で呼ぶ(この本ではなく、「狂風記」でだが)妙な茶目っ気が非常に魅力的である。

いわば原哲夫劇画漫画のような世界観ながら、核心にキュロットの少女のような「萌え」風キャラクタを持ってこれるところが石川淳のすごいところだと思う。革命的英雄主義と、これを貸した知人は言っていたが、石川淳にとってその「英雄」とは決して男に限られない。

●「珊瑚」「鳴神」

革命的な運動を描くという点においてこの二作は「鷹」とも共通する。しかし、自身が公言する、決った筋をなぞるようなものは小説にあらずというような創作スタンスであるためか、長めの小説になると物語が尻すぼみになってしまうという欠点があり、この二作はその欠点がはっきり出てしまっている。運動のエネルギーを未来に開く、という意志だという気もするが、小説としての完成度は落ちる。「鷹」がすごいのは無駄のない物語展開と見事なラストで小説が閉じられつつ、未来への運動力が昂然と続いているところだ。

落ちる、とはいっても、そこは石川淳、元気づけられる力のみなぎる文体と、“動き”を展開させる場面構成の面白さはあるので、読んで損はない。が、惜しいとも思う。

「鷹」収録でつい最近まで入手可能だったこの文庫は、すでに品切れ。

石川淳 (ちくま日本文学全集 11)

石川淳 (ちくま日本文学全集 11)

講談社文芸文庫は、花田清輝とか石川淳とか島尾敏雄とか武田泰淳とか、良い本を出してもすぐに品切れてしまうのは、どうにかならないのだろうか。