「壁の中」から

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「文学に意味はないというお前に意味はない。オレが文学だ。オレこそが「批評」だ。純文学作家笙野頼子」

徹底抗戦!文士の森

徹底抗戦!文士の森

●私的言語の戦闘的保持

十四年にわたる「純文学論争」にまつわる経緯をまとめ、その間に書かれた文章を(書き下ろし含め)四百ページ収録する名実共に論争のまとめ本(なお、まだ一冊分ほどの未収録原稿があるらしい)。「ドン・キホーテの「論争」」では、論争相手が誰も反論しなかったため、自発的に論争終結を宣言したが、この本ではそれ以降の「群像」追放事件などの舞台裏を暴露しつつ、「害虫」(本文中での表現)大塚英志批判の数々にはじまり、最終的には柄谷行人的文学観に対するオルタナティブを提起する、奥の深い一冊だ。

「金毘羅」は読み切れなかった印象があったが、これはかなり面白い。面白い以上に、笙野頼子の小説エッセイにかかわりなく、いったい何が彼女を動かしているのかを如実に示す一冊だ。小説も、このような論争も、笙野頼子のなかでは何ものかとの“戦い”という意味では同一線上にならぶものなんだと思う。その意味で、論争などしていないで小説に専念して欲しい、というような物言いは、笙野頼子に対しては的はずれだ。

彼女の文業のおよそすべてを「戦いの記録」と呼びうる、と以前書いた。明らかに戦闘的な「レストレス・ドリーム」を挙げるまでもなく、最初期の頃から戦いという契機は笙野作品にはつねに伏流している。というより、笙野頼子が書くということはすなわち戦うということだ。何に対して戦うのかと言えば、それは、自己自身が存在しているということそのものを隠蔽しようとするものに対する戦いだ。

それは女性差別的な日本語という言語そのものだったり、マスコミ言語というものが適当な物語をでっち上げてしまうことで目立たない少数者がいなかったことにされてしまう事態だったり、最近の文学をろくに読みもしないで、最近の文学はつまらない、芥川賞などなくしてしまえ、などと酒飲み話のような戯言を雑誌や新聞で喋ったり書き散らかしたりするような連中がとりあえず敵だ。まあ、マスコミなどが流布するわかりやすいがゆえに人口に膾炙しやすく、それでいて個々の人間の営みは無視されてしまう、そういう状況に笙野は憤っている。

純文学論争を笙野が起こさなければならなかったのは、無責任かつ夜郎自大な抽象的マスコミ物語的文学論がやすやすと人々に受け入れられる事によって、個々人の地味だが着実な読者を持つだろう営為が押し流されて見えなくされてしまうという危機を感じたからだろう。笙野が護ろうとするものが“文壇”などではなく、“文士の森”という言葉を使って表現されているのは、そのような個々人の、本質的には孤独な作業の場をイメージして使っているからだろう。抗戦、という言葉づかいはそのような実感から出てくるものだ。

そういった、個々人を抑圧する状況に対して、「私」という具体性から言葉を発信し、つねにそこには多数者に対するマイノリティが存在するのだという主張を行うこと。笙野が自身の文学について述べる、私的言語の戦闘的保持、というフレーズは、そういった声を上げる場所そのものの基盤を確保する戦略だ。その意味で、論争も小説もつまりはおなじ一つのことを企図している。


大塚英志との顛末

というわけで、売り上げ文学論や売り方文学論で「文学」に対して挑発と脅迫を繰り返す大塚英志を徹底批判するわけだ。というか、そもそも大塚英志という人は私にとっては論壇の挑発屋とでもいう印象で、言説の中身よりはその振る舞いが注目されるタイプの人だという感じだった。一種のパフォーマーであり、プロレス屋である。まともに読んだ本は「キャラクター小説の作り方」と「物語の体操」くらいで、ともに物語批判の文芸評論で、明らかに柄谷蓮實的なメソッドに沿って書かれているところはご愛敬、それなりに面白くはあったと覚えている。ただ、生で見たこともあるが、そのときもやはりプロレス屋という感じで、後で言われてみると本筋と違う話を一緒くたにしかも大声でがなることで場のイニシアティブを握ったかのような振る舞いをしていた。

そういう理由もあって、目を留めれば読む程度だったのだけれど、さて、ここまで批判されてしまうと文壇プロレスで鳴らした大塚英志も形無しという感じだ。

ひとつ致命的なのは、大塚が提起した「不良債権としての『文学』」のなかで、大塚が「群像」発刊にかかる経費を試算したのだが、そもそも「群像」という雑誌が完売赤字の値段設定であるというのが明らかになったことだ。そして、そのことを明らかにし批判しようとした途端、群像編集長からの過大な言論統制がかかり、その上で批判を載せるなら、これ以上群像に書かないことを確約され、結局笙野頼子が群像から追放されるということになった。そして、その時載っけた批判がどうもゲラ段階で論争相手に読まれていた形跡がある、と笙野は言う。もしそうなら、これこそ八百長というやつで、編集長と大塚英志がグルになって笙野頼子を追い出した、ということになる。

とすれば、これこそスキャンダルではないのか。いまの群像編集長は新しい人で、その人から復帰依頼をうけたという話はこの本に載っているが、前編集長による言論統制はかなり問題のあるものだと思うのだが。

詳細は本文に当たって欲しいが、「不良債権としての『文学』」などでの大塚英志の対応を見る(プロレスだ、となじる彼の方が遙かにプロレスだ)に、私としては笙野頼子の方に遙かに分があると思う。というか、対談を拒否されたことを以て「根回し」と断じているのだけれど、それはおかしい。

まあ、両者の論争関連文を通読したわけではなく、手許には笙野頼子の本しかないという私の把握としては、だ。


●見えなくされる存在の声

また、大塚英志以外にも様々な相手に対して批判を行っている。見開きで二十九回もブスという言葉を使って笙野論を書いたという永江朗(いったい何処に書かれたものか、一度読んでみたいが)、「まれにみるバカ女」というムックに純文学論争の経緯をまとめた(それなりに笙野に同情的とは言え、ムックの基本方針に沿ったものだ)栗原裕一郎大塚英志との座談会で一緒に馴れあっていた渡部直己富岡幸一郎、その他福田和也大杉重男斎藤環仲俣暁生などなど。彼らへの細かい批判は本文を当たって欲しいが、仲俣氏への批判については丁度手許に氏の本があるので具体的に後で触れる。

上記と関連するが、この本の中での主張の一つは、男の批評家連中は新しい女性文学を読むことができないため、彼女たちの問題意識を理解することができず、なかったことにして、男の文学に元気がないことイコール文学の終わりとのたまい、自分たちの底の浅さを露呈している、ということだ。笙野頼子にしてみれば、むしろ女こそがこれからの文学において書くべきことも言うべきこともまだまだあるのに、男の文学がつまらないからといって、女の文学までなかった事にされては堪らない、というところだ。

このことは、女性の文学が女流と称され、傍系扱いされることで歴史的になかったことにされてしまうことと関連して考えるべきだろう。「水晶内制度」ではフィクションとしてだが、記紀神話が現在につたわる中で女の神をいなかったことにして成立したものであり、記紀神話から女の痕跡を見出して読み換えるという試みによって書かれていたことを思い出せば、この歴史の中で消されてしまう女が、その存在を主張する、居場所を確保する―私は私である―ということが笙野頼子のなかで重大なテーマとして書かれてきたことがわかる。

その、私が私であるという切実さの表現として(だけではないが)、妄想や私的言語というものが要請されている。それは、通常の言語、社会一般で用いられている言語では覆い隠されてしまう存在が、己自身のために用いる新しい言語を要請する。笙野頼子が自分で書いているように、新人文学賞の選考でやっているのは、その言葉が、真に切実なものとして用いられているかということの見極めだ。プロレス屋が文壇での立ち位置ばかり気にしていて、作品を読まないばかりか自分で実作に当たらないことを自慢げに言うような輩を心底軽蔑しているのは彼女としては当然のことだろう。

そしてもうひとつの主張は、柄谷行人などがやってきた文芸批評の仕事は、それはそれで結構だが、日本が仏教、神道圏の国である事を忘れ、西洋哲学からの理論のみによって日本の文学を語ろうというような現代思想系の批評ではない、もっと日本の現実に即した文学論を提起せよ、というものだ。笙野が批判するのは、「日本近代文学の起源」などの理論を、限定された文脈を離れて勝手気ままに適用する批評だ。そもそも、柄谷自身がその本の序文で題は「日本」「近代文学」の「起源」というかたちで括弧付けされる必要があると述べているとおり、限定的な状況についてのものでしかないのに、「風景」「内面」という単語を無限定に振り回して語る連中を笙野は「西哲ライター」と批判する。そこで提起されるのが“権現文学論”で、律令制以降の、私的所有とともに生まれた日本人の仏教的内面という概念を提起する。

これは「金毘羅」の序文的な意味合いを持つもので、一種の自作解説の意味合いもあり、「金毘羅」と併せて読むのがいいだろう。いままであまり聞いたことのない宗教的側面からのアプローチの文学論で、興味深いものだ。この、「反逆する永遠の権現魂――金毘羅文学論序説」がいわばこの本の真骨頂であり、最新の力作「金毘羅」の手がかりとなるエッセイだ。読んでみると、思った以上に射程の広い作品だったことがわかり、やはり笙野の立ち位置というのはきわめて独特なのだなと感じる。



論争、というより批評家連中の腰の抜けた言動を見つけるたびに、自身も自嘲気味に言う通り餌に釣られたかのように自動的に反応して批判しまくる、純文学の武闘派最前線とでも呼びたくなるような極道振りを発揮している。しかし、語尾に“にゃ”とつけて書いてみたり、褒め殺しで批判してみたり、笙野頼子ならではの跳ねるような文体で書き連ねられる批判は、過激で楽しめるものではあるのだけれど、どこかやりすぎ、というか論争として成立しないだろうことがはじめから予想が付くような激越な批判からはじまっているところは、どうもなじめないものがある。まあ、大塚英志についてはこの本を読めばわかるように、完全に対話を拒否した段階から批判をしていて、それは本人には何度言っても通じないことがわかったので単に大塚英志の言ってることが間違っているということを、論争をきちんと知っているわけではない人々に対して知らせている、という体裁だからというのもある。

しかし、どこか2ちゃんねるの煽り合戦のような感じをうけることもあって、全面的に笙野のやり方を肯定し切れない。声を上げること、それも、制度や慣習に取り込まれて無害化されることのないようなやり方でやらねばならないという面もあるのだけれど。ヒステリーを方法化した文体、とでも呼びうるとは前にも書いたが、楽しいとも思う反面アンフェアに思える時もある。

面白いのは、というか前から感じていたことではあるのだけれど、笙野頼子の文体と2ちゃん語とはやはり相性がいいということだ。「片付けない作家と西の天狗」でも表題作などで用いられていたが、この本でもかなり2ちゃん語的な表現が使われていて、しかもそれが小説のなかの台詞などではなく地の文で自然に出てくるところが凄い。齢四十に近い中堅といってもいい純文学作家が2ちゃん語を自家薬籠中のものとしはじめている(しかもそれを自分の文体に取り入れて)、というところに笙野頼子の資質が見える。

あと、緊急出版という通り誤字脱字がけっこう多い。


●追記 男の傲慢さ

上に書いた通り、仲俣氏について触れる。再読して、想像以上にひどいシロモノだった。これでもかなりセーブしてある。という感じで、以下。


仲俣氏について笙野頼子が批判している点の一つは氏が女性の文学は結局は「女の個の問題」だと感じるといって、「ポスト村上の日本文学」のなかで女性の文学を論じなかったことだ。仲俣氏の本から問題の部分をまとめて引用する。

最後に、この本で女性作家をほとんど取り上げなかった理由を説明します。女性作家のなかに優れた書き手が何人もいることは知っています。そうした作家たちに対して、「女流文学」などという古風な言葉を持ち出すつもりはありません。女性の書き手のなかには「ポストモダン文学」と言ってもいい、きわめて方法論的な作品を書いている作家たち――笙野頼子松浦理英子多和田葉子水村美苗――や、女の子側からの「ポップ文学」といっていい軽妙な作品を書いている何人もの作家がいることは確かです。
 にもかかわらず、この本でこうした人気も評価もある作家たちを取り上げなかったのは、ぼくなりの理由があります。それは、彼女らの書いている小説が、最終的には女の人の「個」の問題に尽きてしまうのではないか、と思うからです。もちろん女の人にしか実感できない文学的な課題はあるだろうし、女性作家たちが相互に影響を与え合い、受け合いながら、少年(オトコノコ)版「ポップ文学」とは別の、豊かな系譜を作り上げてきたのかも知れません。でもそれは、たんねんに彼女らの作品を読んでいないぼくによくわからないのです。男の読み手であるぼくが、そうした女性作家の書き手の問題意識をうまく受けとめ損ねているところも大いにあると思います。でもぼくには、男だけ、あるいは女だけの個の問題のさらに先にある、共に生きたり、ときには共に戦ったりする仲間のことが気になるのです。
 70年代以降のオトコの作家たちが必死で書いてきたのは、「個」であることを全うしようと思った場合、必ずどこかでぶつかる相手――それはアメリカだったり、日本という国家だったり、先行する「日本文学」だったり自分より年長の「世代」だったりするわけですが――との格闘であり、そのための相棒さがしの話でした。明治・大正・昭和と流れてきた近代文学では「父と子」という問題にほぼ収まっていたこの「格闘」が、いまでは戦う相手が拡散しているのです。それらと戦うためには、オトコとオンナ、オトナとコドモは、これまでの小説における固定的な役割を超えて「共闘」すべきだと思います。
 女の先に立ちふさがるのは「男」で、男の先に立ちふさがるのは「父」なる「国家」である、という単純な構図はもう古いと思います。(中略)
 この本で多くのページを割いて論じた数少ない女性作家の赤坂真理黒田晶はともに雑誌「文藝」の出身です。彼女らの作品をぼくがこの本に加えた理由は、彼女らの問題意識はぼくらオトコの問題とどこかでシンクロしており、一種の「共闘」が可能なように思えたからです。
仲俣暁生「文学:ポスト・ムラカミの日本文学」146頁・強調引用者


読み返してみて感じたのは、ここにあるのは無理解と想像力の欠如だ。さらに、自分が男であるということを少しも反省的に考えたことなどなさそうな、男であることの傲慢さがにじみ出ている。

多少は物議を醸したらしい“「個」の問題”とは、そもそも何のことなのかが曖昧だ。それは「女性という性」そのものの問題であり男とは関係がない、といいたいのか、女性の個人的なことでしかなく社会的な広がりのない問題である、ということなのか。それともその両方か。どちらにしても問題の多い記述であることに間違いはない。

「「女流文学」などという古風な言葉を持ち出すつもりはありません」などと言いながらも、結局女性たちを本筋とは違う課題を課された別の場所の人たちであると断じていて、やってることは同じであるばかりか、自分はそのような行為には荷担していないという思いこみでなされているところがより悪質でもある。

決定的なのは、笙野頼子の名前を挙げておきながら、彼女のやっていることが「個の問題」だと読んでしまうことだ。この記事の冒頭で書いたように、そして特に九十年代以降の作にはそれが前面に出てくるのだけれど、彼女は自分を押し潰そうとする社会的通念、偏見、差別、言語、制度、国家(果ては天皇!)に対して一貫して戦いを仕掛けてきたのであり、その意味で、彼女こそが「「個」であることを全うしようと思った場合、必ずどこかでぶつかる相手との格闘」を戦ってきた作家であると言ってもいいはずなのに、それを「個の問題」とはどういう了見か。

仲俣氏のいう「個の問題」というのが私の読みと違っているなら仕方がないが(とするならどういう意味で“個”なのかはっきりして欲しいが)、笙野頼子以外の作家たちに対しても、彼女たちの作品を「個の問題」に収斂するものなどという読みは、はっきりいってその評者の小説を読む能力そのものに対する決定的な不信の根拠となるほどの的外れな指摘だと思う。(読んだものについてだけ触れるが、多和田葉子のたとえば「ペルソナ」での、越境することの身体的揺らぎだとか、松浦理英子ナチュラル・ウーマン」の接触そのものの官能とか、私的な身体感覚を通じてより広い射程を捉えようとしている試みなのではないのか)

私が言うまでもないが、個人的なことは政治的なこと、というフェミニズム関連でよく目にするスローガンがある。プライベートな部分にさえも、というか、むしろそのような場所にこそ政治的、社会的な影響が作用するということだと思うし、笙野頼子に限っても彼女は確実にこのような視点から作品を書いている。それを踏まえても、さらに個の問題だというのであれば、その理路を示すべきだと思う。

あまつさえ。仲俣氏は「彼女らの作品をぼくがこの本に加えた理由は、彼女らの問題意識はぼくらオトコの問題とどこかでシンクロしており、一種の「共闘」が可能なように思えたからです」と書く。穿った読み方かも知れないが、これって、つまり、男の問題意識を共有する限りにおいて、女性作家の書き物を認める、という傲慢きわまりない物言いでは? その前段で、大略「オトコの作家たちがぶつかった相手と戦うためにはオトコとオンナは共闘すべきだ」、と言っていることと考え合わせればそう読むほかない。とするなら、こんなかたちで企まれた共闘などいやらしい懐柔策でしかないではないか。自身をフェミニストだと思っている女性差別主義者が、女性たちに、もう僕達を敵にするのはやめよう、ホントの敵はもっと他の場所にあるはずだよ、などと言っているようなものだ。これは、男であることを当たり前だと思っていて、女という他人に対する想像力を欠いた暴力的な傲慢さだ。書かれたものを読む限り、そう考えるほかない。

それにしても「ぼくらオトコの問題」とは。何様のつもりだろうと思う。いつのまにか論じている対象と仲間の気になっている。もちろん、批評や評論においては作家たちが何を問題にし、何を敵とし、どう戦っているのかということを引き出してみせるという役割を担うこともある。この本も大略そのような意識で書かれている。が、そこに作家とそれを論じる自分自身との隔絶を意識せず、安易に理解した気になってしまうような仲間意識やサークル気分が瀰漫してしまうのなら、結局は仲間意識の確認という意味合いしか持つことはできないと思う。女性作家たちの問題意識を受けとめ損ねているのは、そのせいではないのか? 

笙野頼子の批判に対して仲俣氏は自身のブログで反応しているが、それを見るに付け、どうも仲俣氏はどういう理由で笙野頼子から批判されているのかわかっていないような気がする。読みが浅い、深い、以前に、作品の評価をまるでフェミニズム内ゲバのようにして作品の持つ射程を矮小化していることが問題なのではないのか。おそらく笙野頼子の批判したい点は仲俣氏の射程のあまりの狭さなのではないか。「最近の男性文学の小業(技の誤植か)だけを見てほめているような若手評論家」と笙野に揶揄されているが、つまりはそういうことなのではないか。が、仲俣氏の「水晶内制度」評は未見なので、留保をつけておく。



笙野頼子は女性の批評家が必要であると書いていた。ただ、それは女性であれば良いというのではなく、過去からの女性作家たちの問題意識を、歴史的に大きな流として位置づけられるような批評家が求められているという意味だ。「女性作家たちが相互に影響を与え合い、受け合いながら、少年(オトコノコ)版「ポップ文学」とは別の、豊かな系譜」の存在をはっきりと指し示す批評家だ。


笙野頼子の文章よりも他の人の文の引用ばかりになってしまった。笙野頼子がこの本に付した前書きは、河出書房のサイトで読める。
「徹底抗戦!文士の森」

直筆メッセージ付きなので、本で読んだ人も是非読むべき。2ちゃん語、というか、それを自己流にアレンジしているようで意味がわからないフレーズが散見。こう来るか。

あと、サイト「文学の遠吠え」でのこの本の感想。日記を読んでいたら、ほぼ同日にこの本を読んでいて驚いた。
感想『徹底抗戦!文士の森』

あと、小谷野敦はこの本のなかで、笙野頼子を女性を批判しないとして批判したようだが本書によると、小谷野敦笙野頼子を女性の純文学作家を批判しない、と批判したようだが、その時点で既に笙野頼子は津島祐子に対して批判を行っていた。というか、小谷野敦はいつかも新潮45か何かで、金井美恵子の「目白雑録」に対して、男しか批判しないという批判をしていたが、これが小谷野氏の芸風なのだろうか。

2006/6/14追記
小谷野敦様から指摘がありましたので、上記部分を訂正しました。また、小谷野様の反論もありますので以下参照http://d.hatena.ne.jp/junjun1965/20050710