「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

再度「Gunslinger Girl」について・2

前回はわりとその前の記事の補足に終始したので、今回、以下コメントについて応答しながら具体的に作品にそって私のガンスリ評の根拠を詳説したいと思います。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060104

ここでのコメントで、読者批判がしたいのでは?とかかれている方がいますが、私としては特にそういう気はありません。あくまで、ここでは作品の組成を問題にしています。また、「傷つく少女」に萌えること自体はまあ、一種の性癖だろうし、私にも全くそういう嗜好がないとは断言できませんし、「やましさを感じつつ萌え」ることについて批判したいとは思いません。ただ、そこになんの自省もなくムーブメントのように消費してしまうというということになればやはり問題かと。「セカチュー」ブームにはそういう匂いがあって気持ち悪いと思っていました。

http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060105

上記記事で夏葉さんはガンスリ批判派の文章をいくつか挙げつつ、その論拠について突っ込みを入れていますが、ここが私と夏葉さんとの評価の違いを示している部分に見えます。以下、前回での私のガンスリ評を作品に沿って具体的に見ていくのに都合がいい(ガンスリの問題点が浮上していると思われる)ので、夏葉さんの突っ込みにさらに私から突っ込みを入れていくことにします。


まず、紙屋研究所ガンスリ
http://www1.odn.ne.jp/kamiyata/GUNSLINGER.html

ですが、イデオロギー的な偏りはあるものの、これにはわりに私は同意しています。世界そのものや、自分の行為への無反省、それと「プチブル的」な保守的排外主義がみられるという点で。ただ、「ガンスリ」が少女監禁事件を起こした欲望と隣接しているとまで言うのは行き過ぎというか暴論だと思いますが(少女や少年たちへの犯罪を犯す人間のうちもっとも割合が高いのは親や教師といった権力的に上でありかつ生活に密接した存在のはずですし、監禁拉致事件のうちで戦闘美少女作品を享受することによってオタクが起こした事件なんて全体でどれだけあるのかと)。

で、ジョゼの憎悪をあらわにするシーンについてですが、ここの部分は書き手も「瑣事」であると断っていますし、ここでの論旨とはそもそも作中で描かれるテロリストたちの造形についてです。夏葉さんは、ガンスリは政治的地理的知識を読者に要求する、という風に言いいますので知ってる人からすれば何らかの具体的な造形が想起されるのかもしれませんが、実際の政治状況を知らない私からしてみれば、ガンスリで描かれるテロリストというのはきわめて薄っぺらな悪役にしか見えません。彼らの要求や目的の政治的・社会的意味合いが具体的にかかれることは少なく、政治家同士の会話という形で話の骨子がわかる程度に差し出されるくらいではないですか? 現実的な組織やらを想定しているらしいのにもかかわらず、彼らの目的や動機などがきちんと描かれていないんじゃないかと。しかも、スペイン広場でのエピソードを見るに、五共和国派は名所ともいえるスペイン広場を爆破しようとしたり、無差別射撃を行う非人道的なわかりやすい悪役的存在として描かれます。ここらへん、わりと安易な敵役の設定だなと思ってしまうわけです。さらに、フランカ、ピノッキオらは、組織から距離をとっていることで、トリエラらのライバルたり得るわけで、ここでも政治的社会的動機を作品から切り離す操作が行われているともいえます。

私なりにいうと、テロリストの造形が現実に越境しているのにもかかわらず、その造形が薄い、それは作者の排外主義の現れじゃないか、となります。

で、次にゾゾミさんのブログを引用して、エルザのエピソードについてコメントしています。
http://d.hatena.ne.jp/zozo_mix/20051029#1130596046

確かに、ゾゾミさんの以下のような文言は作品の事実に即して言うなら明らかに言い過ぎです。というか、ここでは作品内事実と、作品の物語られ方と、読者はこう受け入れているんだろうという推測がごっちゃになっているといった方が正しいでしょう。

(陳腐な言い方にしたくなくて、一生懸命言葉を濁していたが)「義体」は男性の欲望をストレートにぶつけられ、かつ、それを受けとめきる「都合のいい」存在として描かれるのだ。「義体」とはすなわち、世界で一番自分を尊敬し、自分のために汚れたり犠牲になってくれたりし、完璧に従順で、しかも無報酬で愛情と肉体(商業誌版では、肉体関係はメタファー)を与え、自信をつけさせてくれる存在。妹で、娘で、信者で、創作物で、恋人で、自分専用の従軍慰安婦。しかも絶対に、一生裏切らない。男の理想をパーフェクトに満たす、「所有物」だ。しかも、その「所有物」たることが、少女たちの一番の幸せであるのだ。
「都合のいい存在」や「完璧に従順」とはいえないと私も思います。しかし、エルザのエピソードを読む限り、こう言いたくなるのもわからなくはない。

夏葉さんはこう批判します。

「わきまえた男」ラウーロがエルザに殺される展開は、まさにそんなに「都合のいい」存在ではないんだよと言うためのものでしょう
確かにその通りです。エルザのエピソードは、第一巻のラスト、主要ヒロインたちのエピソードを一通り通過した直後という重要な位置にあり、作者としても義体と担当官の関係を描く上で必須のエピソードだと思っているだろうことがわかります。しかし、このエピソードにおいて描かれるのは、むしろヘンリエッタの恋心の方です。普通の人間ではないことによる矛盾とコンプレックスがジョゼへの恋心を引き裂くという。それに比べ、エルザ・ラウーロ組で起こった心中事件についての踏み込みが浅すぎる。

そもそも、薬で条件付けされているはずの(自分の命よりも担当官を守る「アイギスの盾」たる)義体・エルザがなぜ、ラウーロを殺害することができたのかについては何の説明もなし、だからジョゼはラウーロの悲劇が自分に身にも起こりかねないという風にはほとんど考えない。その証拠にこのエピソードのラストにおいて、ジョゼはヘンリエッタの「無意識の脅迫」について、こういう風に述べます。

いつも彼女の尊敬に値する人間でなくてはならない。でもそれくらいはしてやらないとな
一巻 176P
何を寝ぼけたことを言っているのか、と。あなたは年頃の娘を持ったサラリーマンか何かか、と。義体と担当官との関係がきわめて緊張感のあるものなんですよ、と言わなければならないエピソードがこういう台詞で締められてしまう。何かブラックなユーモアかと思っても、別にそういうニュアンスでもないし、とりあえず私は字面の通り受け取るほかない。ここで「尊敬に値する」かどうかというのはそもそも問題ではなかったはずです。ラウーロは尊敬を得られなかったから殺されたのか、といえばそんなわけはなくて、エルザの思慕の念を無視してかかったからではなかったですか? 薬を与えておきながらその結果生まれてしまった思慕の念に応えてやらなかった、それが肝のはずです。尊敬云々というのはきわめて頓珍漢な発言だと言うほかない。で、このシーンは別にジョゼが頓珍漢な人間であると示す場面でもないのです。

「都合のいい存在」ではないと言うべきエピソード、つまり、疑似恋愛的関係が破綻する可能性を示唆すべきなのに、語られていることは結局、義体と担当官の疑似恋愛的関係の問題に収斂してしまっています。これはほとんど自己矛盾ではないですか?

私がこの漫画について非常に不思議に思っている(と同時に批判している)のはこういう点でもあります。エクスキューズやいいわけを挿入するならすればいいとは思いますが、その各種いいわけがまったく機能していない。というか、これはたぶん話が逆なんであって、物語を語っていく上での必然として、ドラマを盛り上げるために必要なエピソードとしてエルザ・ラウーロ組が召喚されたのにもかかわらず、このエピソードの尻すぼみによってドラマの重要な構成要素になることができず、ただ単に作者の「いいわけ」にしかみえなくなってしまっていると言うべきかもしれません。そこがまた皆が「ぬるい」と評する部分なのでしょうか。

事実、このエピソードのあとは、エルザ・ラウーロ組のことなんて話題に上らないし、このエピソードをふまえたフラテッロの危機的関係が描かれることもない。「「エルザ・デ・シーカの死」はなかった事になっている」というのは、むしろ作品の正しい読みなんではないかとすら思います。つまり、作品としてドラマを盛り上げるだろう設定やエピソードが、全部スルーされて、結局フラテッロの恋愛関係や、義体の小さな幸福を描くことにばかり専念してしまう。その上では作者自身の設定した事実やエピソードすら無視されてしまう。

多少横道にそれますが、夏葉さんは

 条件付けと恋愛感情の違いについて、トリエラが理屈っぽく、ヘンリエッタが感覚的に説明してくれているのに。
とも書いています。ここも私にはよく飲み込めない点の一つです。

トリエラ(あるいはヘンリエッタ)は、自分が担当官に薬で「条件付け」されていることを知っている。それをきちんと言語化できるほどに自覚しているのです。さらに、担当官への愛情が薬の直接の作用ではないにしろ付随的な(つまり個人差が認められる程度には間接的な)代物であるということもわかっているわけです。

しかし、彼女たちはその自分の感情が薬の重大な影響下にあるということについては何ら問題だと思わないし、特に関心を払っているようにも見えない。ただ、この問題が浮上するシーンがないわけではない。覚えている限り、第三話トリエラの登場回で、担当官ヒルシャーがトリエラに命令をちゃんと聞くように叱りつける場面で、トリエラは「さっさと私を薬漬けにしたらどうですか?」と返しています。

しかし、第三巻のピノッキオのエピソードでは、ヒルシャーの「トリエラは僕を絶対裏切らない 僕も君を裏切らない」という台詞に赤面してしまうシーンがあります。ここでのヒルシャーのトリエラへの絶対的な信頼というのは、そこまでに描かれてきたエピソードで二人が信頼関係を構築してきたことに拠っている。しかし、ヒルシャーの「トリエラは僕を裏切らない」というのは薬による条件付けを否応なしに思い起こさせる台詞であるのに、そんなことはまるで忘れられているかのようです。関係が良好になったら薬のことはどうでもいいんですか、と訊きたくなる。「薬漬けにしたらいい」という台詞も、「女の子がすねているだけ」に見えてきてしまう。

同じように、作中人物たちはそれぞれ薬による条件付けを受けていて、また上述したようにそのことをきちんと意識しているのにもかかわらず、そこから必然的に導かれるだろう、自分自身の感情の根拠への疑いを口にすることはありません。これが不思議で仕方がない。薬による条件付けというのが作中でどんな扱いになっているのかさっぱりわかりません。

ガンスリは「幸せ」をテーマにした作品だという風にも言われていて、まあそうだとは思いますが、だとするなら「幸せ」という主観的な価値を考察するにおいて、その主観そのものを大きく揺るがす重大な要素である「条件付け」という設定への踏み込みが浅すぎるのではないかと思うのです。薬で忠誠心や果てには愛情が生まれても幸せです、という皮肉の効いた主張をしようという風にもみえなくて、読んでいる方としては非常に居心地が悪い。

話を戻して、kaienさん(と呼べばいいのかな?)の
http://d.hatena.ne.jp/showmustgoon/00000108

ジョゼをはじめとする「公社」の男たちも、反抗が死を意味するような巨大なシステムのなかの歯車のひとつに過ぎず、罪の意識を感じながらもやむをえず少女たちを「運用」しているのかもしれない。いや、実際に作品を読んでいるかぎりはとてもそうは見えないのだが
に対する夏葉さんのコメント

第六話「A kitchen garden」をどう読んだのですか、という感じです。まさに公社に反抗したら消される、という話でしょう
についても、エクスキューズがきちんと機能していない部分だと思います。

六話のラバロのエピソードも、クラエスの切ない過去を語るエピソードでしかなく、ラバロが組織に消されたらしいことが、ほかの担当官に何らかの危機感、または影響を与えている形跡がほとんどみられない(伝えにきたジャンは知っているんだろうけれど、ほかの担当官はそのことを知っているかどうかすら描かれない)。このエピソードは組織の非情さを示すのに格好のものであるにもかかわらず、全くほかの場面で生かされていない。全体的に「公社」の描き方が、どうしたってどっかのふつうの職場に見えないようにしか描かれていない状況で、ラバロのこのエピソードをおいたところで、説得力なんてまるでないわけです。事実、このエピソードは、ラバロの死を語るよりも、クラエスの健気な生活を描く方に力が入っている。

作中事実に忠実である限りは夏葉さんの突っ込みは確かに正当ではありますが、作品の読みとしてはkaienさんの方が妥当であるといえませんか? ガンスリを読む限り、どうしたって「反抗が死を意味するような巨大なシステムのなかの歯車のひとつに過ぎず、罪の意識を感じながらもやむをえず少女たちを「運用」している」ようにはみえない。ラバロのエピソードがまったく作品の雰囲気に寄与していないんです。担当官たち、ヒルシャー、ジョゼらの悩みは「罪の意識」ではまったくなく、義体たちにどう対処してやればいいのかという疑似恋愛的関係の枠内でのものでしかありません。

言ってみれば、シリアスな物語を語る上で要請されたエルザ・ラウーロやラバロのエピソードは、「萌え」を重視する作品の語りによって無効化されている。ほとんど自己矛盾です。

(私がこの作を評価しないし、おもしろくも何ともないと思うのはそのせいでもあります。そもそも趣味に合わないというのもありますが、話が話になっていない、と思えてしまって興味を引かれない。嫌いであっても読んでしまう作品というのはあるもんですが、ガンスリはそれでもない)

それにかんして、ここのコメント欄での「ワルイヒト」さんのコメント。

あと「お可哀相に」は、もともと少女漫画の趣味なので、それを少年漫画のベクトル(本当はスパイアクション=ミステリなんですけどね)に引きつけてしまっているように見えるのも、混乱の原因の一つじゃないかと。70年代の少女漫画みたいにオールドファッションなロマン化傾向もある。ほかにもいろんな部分で折衷主義的にぎりぎり成り立っている微妙な作品なんで、それを捉えきれないと妙に腹が立つんだと思います。
この指摘はかなりうなずけるものです。しかし、上述の理由から私はその少女漫画的側面と少年漫画的な側面は明らかに分裂していると考えます。

ガンスリ」は、設定や作中事実からすれば、「そうである」はずなのに、読んでみるとまったく「そうであるようにはみえない」んです。擁護派がつねに作品の側にたって「そうである」と言っているのに対し、批判派は「そうであるようにはみえない」ことから感想を書く、両者の話が噛み合わない原因はここにあるんじゃないでしょうか。


文章量が多すぎたので分割します。次に続きます。