「壁の中」から

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“少女”の合目的的利用法 ―Gunslinger Girl批判―

(この記事についての批判とそれに応えた補足記事があります。
再度「Gunslinger Girl」について・1

GUNSLINGER GIRL 5 (電撃コミックス)

GUNSLINGER GIRL 5 (電撃コミックス)

(最新巻。この漫画、巻が進むにつれて絵が下手になって行ってる気がする)

友人から、この漫画の気持ち悪さを説明しろ、という訳のわからない指令を受けたので、この機会に最新巻までを通読。かなり今更なうえ、元もと私はこの漫画が好きではないし、すすんで読む気もないのだけれど、まえに新海誠の映画について書いたことと関係して気になっていることがいくつかあり、それを考えるために以下の文章は書かれている。そのため、基本的に、いかに、そしてどこが私にとって気に入らないのか、を述べている。この漫画が好きだという方はご留意を。


●概要

一応漫画の説明を。(半角スペースは改行及び改吹出し)
公益法人社会福祉公社という 表向きは首相府主催の身障者支援事業だが その実体は 国中から集めた障害者に 試験的に機械の体を与え 「条件付け」と呼ばれる 洗脳を施すことで 政府の為の 汚れた仕事を請け負う 特殊な諜報機関」に就職したジョゼは、一家殺人事件の生き残りで、「家族の死体の隣で一晩中暴行を受け」、「本人は自殺を望んでい」るという少女(ヘンリエッタ)を、パートナーに選ぶ。

公社で少女たちは義体と呼ばれ、それぞれ男の訓練官とペアを組んで行動している。仕事はもとより訓練、プライベート(義体は組織の寮のようなところで生活している)でも同行し、フラテッロ(兄弟)と呼ばれる。

ジョゼとヘンリエッタフラテッロを一応のメインと考えていいと思うのだけれど、他のフラテッロのエピソードがそれぞれ語られていく構成。職場ものという感じ。


●モノ化される少女

設定をもう少し細かく。

第一、社会福祉公社という組織がやっていることは障害者の徴発である。ヘンリエッタ自身、自殺を望んでいるところで、ジョゼに見出され義体としての第二の人生を歩んでいくわけだが、ここでヘンリエッタ自身の希望があったとは考えにくい。どうも設定に甘いところが多いので曖昧なのだが、ヘンリエッタ、トリエラ、アンジェリカらは皆、怪我、事故、事件、に巻き込まれたところを、公社の人間に見込まれて義体となっている。ここで、どのようなやりとりが少女と公社のあいだにあったかはわからない。リコだけは、自ら書類にサインし義体となることを望んだという描写があるものの、他の三人についてはそういった自発的な意図が存在したかどうかは現時点では描かれていない。事故にあったり、スナッフムービーの出演者として殺されそうになったりしたところなどは描かれても、である。他はわからないとしても、自殺を望んでいたというヘンリエッタが自発的に書類にサインするというのは考えにくく、ジョゼの目にとまったという理由で義体としての洗脳を施された、と考えるほかないだろう。徴発というのはそのためである。

そして、義体となるということはそれ以前の記憶を失うということ。ただし、義体となることで一般人だった頃の記憶を失うことと、義体を維持することで少しずつ義体としての記憶を失っていくという、二種の記憶喪失がある。前者は一種のリセットであり、後者は自分に親切にしてくれたり世話してくれた人間の記憶を失ってしまうという哀しみを演出するものだ。この二つの記憶喪失では、専ら後者の哀しい記憶喪失ばかりが前面に出され、作品のトーンに影響している(とりわけアンジェリカ)が、前者のリセットとしての記憶喪失も無視されているわけではないようだ。作中の幾つかの描写で、夢のなかでリセット前の記憶を思い出している様子があったり、もしかするとリセット前のことを思い出すのでは、と訓練官が危惧していたりする。これは、結末へむけての伏線なのかも知れない。

ここで思い至るのは、この公社自体がきわめて問題のある組織だと言うことだ。生前の記憶をリセットし、それまでの生活から引きはがし(その生活がいかに凄惨であったとしても)、薬による忠誠と機械の体を与え暗殺者として仕立て上げる。しかし、組織の連中でそのことに注意を払うものはほとんどいない。むしろ、自分たちは彼女たちを救済している、とさえ思っている節(第一話のジョゼ)もある。そして、そのことについてこの作品は何らかの注意を促すようには描かれていない。むしろ、登場人物たちと同調し、少女たちを救っているという観点から書かれている感さえある。少女を暗殺者にするということについては、幾度か敵や外部の人物による指摘が差し挟まれるが、それもまた表面化することはない。テロリストを撲滅するという大義名分にのっかることで回避している。

この種の回避・隠蔽はあらゆるところで見受けられる。ジョゼにしたところで、不幸な境遇の少女を見出して、暗殺者にするということについて苦悩するのではなく、年頃の少女が自分に対して好意を持っていることについて悩むのである。それが薬による忠実化の結果だと言うことに少しは注意を払いながらも、結局はふたりの交流を描くことによってそもそもの関係性自体の問題性は問われないことになる。そして、少女を部下として、道具として、暗殺、殺人に従事させることについては何の関心も払わない。

この二人をはじめフラテッロの関係は一種の恋愛関係として描かれる。父娘、兄妹、上司と部下といった関係性のバリエーションといっていい。そして、それらの関係オタク的に描かれる時がそうであるように、位置関係において下部に属する女性が、自分より優位に立っている男性に対して依存し、愛情を持っているという形で描かれる。

そして、少女自身(ヘンリエッタ)は自分が銃を扱い、機械でできており、普通ではないということが躓きの石となって、好意を前面に出せない悩める少女としてある。ピュアでイノセントないじましい少女。この関係性は少女がおかれた状況を、恋愛の背景問題として等閑に付すことに貢献する。暗殺者であることや、機械の体であることが、内面の問題として配置されてしまう。それに、少女のその切ない恋愛感情にしたところで、薬による洗脳の結果のものだ。そして、それが問題になることがほとんどない。

ここでも

「ごく単純な嫌悪感があるとすれば、少女をオモチャにしていて、さらに作者がそれに意識的なのではないかと思わせるからだろう。もう少し深いところでは、単行本第2巻の段階では「社会福祉公社」の「少女を薬で洗脳し、機械の身体を与えて戦わせる」ということが勧善懲悪的な意味あいでの「悪」ととらえられていないことがあるだろうね」

と言われている。基本的に同意だ。自分なりに言い換えると、物語の水準で、公社の仕事や義体の存在が何らかの問題として浮上することはほとんどない。さらに、描き方においても、その問題とされないことが問題視されているわけでもない。二つの水準で、この作品においては少女たちへの仕打ち(義体として道具のように扱われること)が問題化されない。むしろ肯定されてさえいるだろう。


それだけではなく、この作品の多数の人が認める読みどころは、義体となった少女たちの担当官への思いや、義体としての生活のなかで小さな幸福を見つけられるかどうかという点にある。哀しく切ない物語という評言はその点を指したものだろう。しかし、そこが目眩ましとなって少女が暗殺者をやるように仕向けたのは誰なのかという点が隠蔽される。

この作品では自らの暴力性や非倫理性に対して、反省しないことが徹底されている。かといって暴力を揮ったり倫理を超え出ることで何かを描き出そうとするわけでもない。言ってみれば、そこには暴力や倫理に対しての考察、反省的思考を欠いた、緩んだ無自覚な暴力が垂れ流されている。


●暴力を求める

そもそも、この作品で少女たちが従事しているのは対テロ撲滅作戦だ。そして、社会福祉公社はその対テロの名の下に自らの暴力を完全に正当化してしまっている。撲滅すべきものとされるテロリストたちは、単なる記号としての存在しか与えられず、対人地雷や無差別射撃などの非人道的テロの首謀者として、殲滅されてしかるべき悪として描かれる。キャラクタ性を与えられている敵役フランコ、フランカ、ピノッキオらはテロリストとしてではなく、少女たちのライバルとして描かれることによりその立場を得ることができる。それ以外のテロリストはすべて殺されて当然の存在であり、少女たちがテロリストを殺すことは、作品内ではなんら問題とはならない。

と、この文章を書けと言った知人から聞いたのだが、この漫画で描かれているテロは、北部富裕層による経済的抗争のようなものであって、民族独立とか難民キャンプがどうとかの、抵抗的なテロリズムではないという。それまで、この作品に描かれているテロの背景がどうにもわからなくて、何となくしっくり来ないとは思っていたが、その原因はそもそもテロリストといわれてパレスチナなどでの国家的抑圧への抵抗的なテロを想定してたからだったのだとわかった。そう考えればそもそもこの作品にはその種の抵抗的なテロの背景となるような抑圧的状況だとか、経済的貧困層だとかの存在が描かれない理由がわかる。つまり、書き手のなかでは、そのような、上品でも高尚でもなく、悲惨でみっともなくて現実的でしかない、リアルなテロというものはノイズにしか過ぎないと言うことだ。。

そんな、テロなどというものは中産階級の快適な暮らしに余計な不和を持ち込む単なる邪魔者だということなのだろう。一種の陰謀劇のような富裕層同志の抗争として、作中でのテロリズムは存在している。これは、いってみれば単にテロリズムを単純な悪として描き、殲滅すべき敵としてのみ描くことよりも悪質だと言っていい。存在そのものが許されていないのだから。

イタリア広場でジェラートを食べるヘンリエッタを見て、このような子供たちこそ私たちが守るべきもの、だとフランカが語る場面があるが、これなど、作者の頭のなかには経済的貧困層も、テロに訴えざるを得ないような連中などがまるで存在しないことがよくわかる。少しでも上品でないものごとに対する決定的な想像力の欠如を見ることができる。

こういうメンタリティは、2chなどで見られるナショナリスティックな言動を繰り返す連中にも共通のものだ。保守的――つまりはいまの安楽な生活を邪魔する何ものをも敵視する――で排外主義的で暴力的な言説を駆動するメンタリティだ。

対象を完全な悪と見なした殲滅作戦のような暴力こそが強固なテロリズムを生み出す当のものだ。この作品に描かれる対テロの暴力はその一端を担っている。テロリストに対する想像力の欠如(何も同情せよとか肯定せよというのではない)と、それと補完的な自己の暴力性を何ら問題視しない傲慢さ。

さらに厄介なのは、上記のような構造で正当化された暴力を、実際にふるうのは少女たちだということだ。そして、少女たちは担当官への忠誠のために、人を殺し、任務を遂行する。暴力を揮うのも、そして敵の眼前で暴力を揮われ傷つくのもまた、少女たちだ。

セカイ系と呼ばれる作品自体には特に好意も嫌悪もない(新海誠の作品に積極的な嫌悪感はない)が、最終兵器彼女であるとか、このガンスリンガーガールに嫌悪を感じるのは、そのせいだ。少女たちが暴力にさらされること、散々不幸な目に遭うことにカタルシスを求めているように見える。それも、ただ単に少女たちが暴力にさらされるというのではなく、その状況を甘受した上で、自分には少しの幸福があるのだと少女たちが噛みしめることで、暴力的な構造そのものが隠蔽されているように思える。


ぐだぐだしすぎたが、ひとまずの結論としては、この作品では少女を暴力にさらすこと(義体にしたり、戦闘させたり)にカタルシスを得ているという状況・設定を、その少女自身の内面語りの感傷(小さな幸福)によって隠蔽しようとしているところが私が嫌悪感を感じる点の一つと言うことだ。そして、その構図を維持するために、少女自身の自発的意志や、主体性、自由意志といったものがすべて排除されていて、かわいい人形としてしか存在を許されていない。そして、そのように少女を人形たらしめていることの問題性は排除される。

つまり、この作品はあらゆる意味で暴力的であり、さらにはその自身の暴力性を意識しないこと、無視することで成立しているといえる。そこで要請されるのが暴力にさらされている少女自身の少女漫画的物語・内面(恋愛・幸福感)であり、その内面はそこで少女が決して自身の置かれた状況について文句を言わない、つまり、男にとっての他者とならないことの担保となっている。


少女によって許されることで、男たちはようやく自己の存在に確信を抱き、敵を殲滅できる。この、屈折したマッチョイズムはなんなのか。少女なくして男たり得ず、男たり得るためには少女が男に忠誠を誓わなければならず、自身の主体性を持ってはならない。そうした、きわめて日本的な性差状況の象徴図として、私には見える。