「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

新海誠「雲のむこう、約束の場所」を見た

ほぼ個人で「ほしのこえ」という短篇アニメを作り、一挙に知名度上がった新海誠の長篇劇場作品。友人に見ろといわれてDVDを渡される。見ることは見た。

セカイ系

で、その前に。
ほしのこえ」は、そのころ「セカイ系」と呼ばれていた作品群の、ある意味典型とも言えるようなものだった。セカイ系とは、自分の感傷のなかに世界全体が回収されてしまう、という物語構造を持つものだととりあえず捉えておく。

基本的には学校に通う学生を主役格として設定し、スタンダードともいえる青春物語ののものが多い。そこでの恋愛やら自意識の葛藤やらなどと、世界の終わりというようなカタストロフがパラレルに、あるいは直接リンクしてしまう。そして最終的(もしくははじめから)に主役たちの恋愛、情緒、感傷は世界のすべてを覆ってしまう。別に世界の終わりがからむ必要はないけれど、そういう趣向のものは多い。

参考リンク。
惑星開発大辞典
おそらく、「セカイ系」というワードの参照先として最もリンクされたもの。
はてなダイアリー セカイ系とは
検索してみて存在に気づいた。命名者がいたとは。


他にも「敵」の存在がしばしば極めて曖昧であるというのが大きな特徴。多くの場合は謎の存在であったりして、物語を牽引していくのだけれど、結果的にはその「敵」なるものは単に「自意識」でしかない場合が多い。「私」の「鏡像」である。

「ポスト・エヴァンゲリオン」という呼び方がある通り、この辺の事情は「エヴァ」での敵を思い出すとわかりやすい。エヴァでの襲来する敵「使徒」は結局の所、人間の他の可能性だった(同じDNAだとか)、と種明かしがなされ(すんげえ無理あると思うが)、エヴァの物語が人の内部抗争・人類の自意識の葛藤だ、というようなポイントに収まる。

エヴァのそういう面を拡大し、純化したのがいわば「セカイ系」なのだろう。「ほしのこえ」では、主人公の少女は宇宙から来るエイリアンを迎え撃つための兵器に乗り込み、地球から遠く離れて戦う。そこでは、地球にいる少年とのコミュニケーションにとんでもなく時間がかかることになり、一回の通信に年単位の時間がかかるようになる(ここら辺の設定は本人も認めるとおり甘い)。で、何故かエイリアンとの戦闘中にもうひとりの自分との対話がはじまったり、ふたりの言葉が共振したりして、宇宙戦争の側面が背景と化す。

コミュニケーションが断絶していく哀しみが「ほしのこえ」だったと乱暴に要約すると、「雲のむこう、約束の場所」は、断絶したコミュニケーションが再度回復されるために行動を起こす物語だろうか。

●「雲のむこう〜」

「雲のむこう〜」では日本が南北に分断―北海道が「ユニオン」なる国家の領有となっている―されたもうひとつの現代を舞台にしていて、そこでの青春時代がまずは描かれる。二人の少年と一人の少女が主役で、少年二人は自分たちだけで飛行機を作っている。その飛行機で、分断された北海道に聳え立つ白い塔に飛ぼうという計画だ。しかし、とつぜん少女はいなくなり、二人の計画も立ち消えてしまう。

少女は塔の影響でつねに眠り続ける病のようなものにかかり、研究所に収容され、少年の片方はその研究所で塔の研究をし、もうひとりの少年は、少女と出会った夢に誘われ、いつかの飛行機をもう一度飛ばそうと試みる。

この物語は夢と現実とに引き離された二人が、もう一度会おうとする話だ。そして、主人公の少年が、三人バラバラになる前に別れる前にやり残した、青春の夢を、もう一度やり遂げようとする話でもある。

長々紹介してきてなんだが、私にはあまりこの作品は楽しめないものだった。ただ、嫌いというわけではなく、また好きだというわけでもない、微妙な感想だ。

とりあえず見ていて気になったのは、動きがほとんどないということ。動くことの面白さが驚くほど欠けている。「ほしのこえ」の二十五分ならまだしも、九十分ほどもあるこの長篇作品で、これほどまでに動きがないとさすがに厳しい。

金がない、という理由もあるだろうけれど、この動きのなさは致命的だ。ただ、インタビューなどで新海氏自身が語っていたように、彼の表現というのはノスタルジックな風景のなかの叙情を中心とする。今作でも、微細なディティールが書きこまれた田舎や廃駅などの緻密な背景は、確かにすごい。何枚も何枚も惜しげもなくそういう美しい光景が広がるのを見ることができる。しかし、これでは背景が前面に出過ぎている。ほとんど背景が主役と化していて、登場人物たちは予め存在している背景のなかになんとかはめ込んだようだ。

さらに、カットの切り替えが異様に頻繁に行われていて、一ショットが短すぎる。キャラクタの動きのなさを、めまぐるしく変化する画面でなんとか誤魔化そうとしたのか、それともやはり背景主導の撮り方なのか。適切な間というものがなく、平板な印象を受ける。背景が前面に出過ぎているからなのか、場所のイメージが立体的に浮かんでこない。そして、カットが慌ただしいものだから、一場面をじっくり見ることができない。

すべてのカットがキメっぽくて(逆光表現過多)、うまく盛り上がっていかない。逆に、盛り上がるべき所で盛り上がらなかったりして、なんだか妙な気分になった。後半飛行機が飛ぶシーンがあるのだけれど、淡泊にすぐに飛んでいってしまい、肩透かしを喰らった。飛行機は作中の重要アイテムで、それが初飛行ということになれば、そこで盛り上げないとダメだろうと思うのだけれど。

●「敵」

ほしのこえ」に比べて、ノイズを多く入れようと思った。と新海氏は語っていたが、確かに「ほしのこえ」で登場人物が二人だけだったのに比べ、今作ではかなり増えている。主人公格も三人いるし、バイト先のオヤジや、研究所の職員たちもいる。ただ、やはりここでも足りないのは「敵」だ。「ユニオン」なる国との緊張関係が設定の軸だけれど、相手国のことはまったく出てこない。北海道には塔があるだけだ。

まあ、そんなことはどうでもいいのだといってしまえばそれまでだ。その通り、彼らはノイズでしかない。消去可能なノイズが増えて、物語が膨らんでいる。だから全体の印象が散漫になる。新海氏の書きたいだろう部分と作品全体のバランスとが、ちぐはぐに見えてしまう。

登場人物たちの関係にしても、どこか描き切れていない印象がある。三人の主人公たちは、一種の三角関係を形づくるような予感とともにはじまるのに、一人は後半ただの便利な脇役になってしまう。あらすじには、男はふたりとも少女に好意を抱いていると書かれているのに、である。

●夏の雲、冷たい雨

今作では物語における「障害」あるいは「敵」がひとしなみ排除されている。かわりに、物語を横の方向に増やすノイズばかりが増大している。いくらかの設定や人物は作品世界の空間的広がりに貢献することはあっても、それが物語にとって必然性のあるドラマを構成する素材にはなっていない。

新海氏は、風景のなかの叙情を表現したい、というようなことを語っていた。であるならば「雲のむこう〜」につけ加えられたSF的、軍事的設定は削るべきではないのか。レジスタンスや開戦間近というの危機的状況は必要ないのではないか。

思うに、新海氏の資質はこの手の物語を構築しようとするものには不向きだ。以前作っていた、ひとつの部屋だけを映し続けるショートフィルムのような、ディティールと細かな演出を旨としたもののほうが得意なんではないか。一種のミニマリズムというか、たとえばこういうような情景―

ノボル「ねえミカコ? 俺はね」
ミカコ「私はね、ノボルくん。懐かしいものがたくさんあるんだ。ここにはなんにもないんだもん。例えばね」
ノボル「例えば、夏の雲とか、冷たい雨とか、秋の風の匂いとか」
ミカコ「傘に当たる雨の音とか、春の土の柔らかさとか、夜中のコンビニの安心する感じとか」
ノボル「それからね、放課後のひんやりとした空気とか」
ミカコ「黒板消しの匂いとか」
ノボル「夜中のトラックの遠い音とか」
ミカコ「夕立のアスファルトの匂いとか…。ノボルくん、そういうものをね、私はずっと」
ノボル「ぼくはずっと、ミカコと一緒に感じていたいって思っていたよ」
こういう場面を描き出すのには、正直、SF的な設定は本当の意味でのノイズだと私は思う。ノスタルジーを描くためには、一度それが失われなければならないとはいえ。
日常に的を絞り、ノイズを増やすのではなく徹底的に削ぎ落とし、SFや超越的な現象を用いないでやってみるのを見てみたいとは思う。


●幾つか

ここまで書いたところで、幾つかリンクを辿って感想を見てみた。

[アニメ]『雲のむこう、約束の場所』を見た/新海誠の真髄は非モテにあり

ここで取り上げられている、「74年生まれ、「非主流派男子」」がどうこうというのは、「81年生まれ、非主流派男子」だった私にはよくわからない。思うに、新海作品が好きな人は、「耳をすませば」も好きなのかも知れない、と思った。共通点は、男から見た少女漫画的物語によって、少女の内面を男の側に引き寄せるところ。私はこの種の操作を勝手に、「少女の内面の収奪」と呼んでいる。

というか、この種の操作はいつからかオタク系の漫画の基本的技法になっている。少女漫画を読んで育った世代がオタク系美少女漫画の描き手に流れているのだろうか。とにかくも、九十年代のオタク系カルチャーにおいて、この操作は基本だ。
これは、少女の内面に不透明さがあってはならないという思考だ。ここで書かれている「セカチュー」と「ほしのこえ」の共通点は、つまり、少女から他者性を、不透明さを奪うものだ。ただ、だからといってそういう作品すべてを否定しようというつもりはない。どんな操作を行っていようと、作品それ自体での書かれ方次第で、いかようにも印象は変わる。
私の基準では、「最終兵器彼女」や「ガンスリンガー・ガール」は感傷や嗜虐趣味が気味悪くて読めない(だから全部読んでいない)が、富沢ひとしの漫画(「エイリアン9」や「ミルククローゼット」)は、作品それ自体が不気味で、読者の感傷を突き放す独特の質感がきわめて興味深いものである、といった具合になる。

私でも気になった技術的な点は、ここでも指摘されている。ここでは庵野秀明への言及も。

たとえば「エヴァンゲリオン」の面白いところは、演出が巧いというか、画面が見ていて飽きないものになっていたところ。物語や自意識過剰な部分は毀誉褒貶あるが、キャラクタの動き、演出などは面白い。それは「フリクリ」もそうで、物語はどうなってんだかわけわからない(考察しようとも思わない)が、ガイナックスアニメ独特の動きのクセや演出で、個人的にはけっこう面白いアニメだと思う。もちろん最大のセールスポイントは、the pillowsのプロモーションアニメという点にある。