「壁の中」から

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スタージョン、ウェルズ

シオドア・スタージョン「夢みる宝石」ハヤカワSF文庫

夢みる宝石 (ハヤカワ文庫 SF 365)

夢みる宝石 (ハヤカワ文庫 SF 365)

スタージョンは読もう読もうとは思っていたけれど、まったく読んでいなかった。最近短篇集が相次いで刊行されて、時ならぬスタージョンブームが来ているようなので、ずいぶん前に古書店で手に入れ手元にあった「夢みる宝石」を読んだ。

素晴らしいタイトルにだけ惹かれたようなもので、名前は知っていてもどういうのを書く作家なのかわからなかった。短篇集の書評、感想などを見る限り、たとえばティプトリーのようなハードな小説(気を抜くとまったく意味がわからなくなるような)を書くのかと思って身構えていたのだけれど、冒頭から巧みに物語が転がっていくのでちょっと意外だった。

少年ホートン(ホーティ)・ブルーイットは、養父に指を三本切断されるという折檻をされて家を飛び出し、偶然乗り込んだトラックが向かう小人や灰緑色の聾者といった「片端者」たちのサーカスに転がり込むことになった。そこでホーティはやっと孤児院出身の自分のことを気にかけてくれる少女と出会うのだが……。

とホーティをめぐる話が一段落すると、そのサーカスの団長、「人喰い」モネートルの物語が語られる。医大卒業後不祥事から病院を辞め、酒に溺れ人間嫌いの感情を募らせた。そんなとき、ある場所でまったく同じ木がふたつ並んで立っているのを発見する。そこで実験してみると、片方の木が片方の完全なコピーになっていることがわかる。そして、その森が火事に見舞われた時、その木が異様な動きをするのを観察し、すこし離れた場所に木に影響を及ぼす何かがあると気づいたモネートルは、そこから水晶を発見する。

それが表題の「夢みる宝石」である。この宝石は生きているらしく、また近くにあるものを気まぐれに複製するという奇妙な現象を起こす。それを知ったモネートルは水晶に思いのままに複製物を作らせようと試行するが、結局は不完全な、奇形の複製しか作れなかった。

生きていて、不完全な生き物の複製を作り出す宝石。「夢みる宝石」はこの不思議な石をめぐる一種のダーク・ファンタジーだ。非常に読みやすく、物語の展開も緊張感があってとても面白い。キャラクタが立っていて、善人のケイや特にジーナは印象深いし、養父とモネートル、特に養父であるアーマンドの気持ちの悪さは素晴らしいほど。

これを読んでいて思い出したのは江戸川乱歩「孤島の鬼」に出てくる、不具者をたくさん家に住まわせている男だ。モネートルとこの男はともに、フリークス・不具者、いってみれば人工的に身体障害者を作り出し、障害者だけの住まうユートピアを夢みている。人間嫌いの心情や復讐に駆られた人物造形が、相似ていると思う。

また「夢みる宝石」は愛されない孤独を背負った人物ばかりが出て来る。主人公ホーティは孤児で養父に虐待されるのだし、モネートルは憎悪に駆られた人間嫌い、ジーナも誰にも言えない秘密を抱えている。サーカスはそういう世間から疎外された人間たちが集う小さなユートピアでもあった。
そして、記憶力は抜群でも、主体性を持たず、自分で行動する術を持たなかったホーティが愛を発見する話でもある。

普通に楽しく読んでしまってから解説を見ると、訳者がスタージョンは難解だと書いていて、自分の読後感とあんまり違うのでどうしようかと思った。「夢みる宝石」ってそんなに難解さが前に出た作品とは思えない。基本的に貴種流離だし、ジーナをもうひとりの主人公としたラブストーリーでもある物語部分は難解でもないと思う。

ただ、確かになんだか不可解なものが底流している不気味さはある。いい話だった、とページを閉じることを許さない、何か妙な異物感がある。

端的に言えば、不可解不思議とは思うのだけれど、何が不可解なのかがわからない。そういえば、水晶って結局何だったんだろう? 複製物を生成する生命体の水晶について、作中で何らかの結論は出ていない。それもこの小説の不思議な異物感のひとつだ。

いまスタージョンの本が手に入りやすくなったので、読めるやつから読んでいこうと思う。次は短篇か。
ちなみに、この本のきれいなカバー。

装幀はなんと、ミルキィ・イソベ。こういうのを描かせたらやっぱり右に出る者はないと思う。透明感とファンタジックなイメージがすばらしい。


H・G・ウェルズ「透明人間」岩波文庫

透明人間 (岩波文庫)

透明人間 (岩波文庫)

ウェルズのこの小説をはじめて読んだが、透明人間になった男がとんでもなくあくどいやつなのに驚いた。自分の存在がばれてからやけになったのか、透明である自分は暗殺なんかがし放題なのでそれによる独裁恐怖政治を敷くのだ、などと頭がずいぶん足りていない発想を得意げに告げた信頼出来ると思っていた相手は、すでに警察に知らせていてあわや捕まえられそうになっている。間が抜けている。

癇癪持ちで性格が悪く、慎重さや計画性もなく、どうしようもない人間がさて透明になったら、という一種のスラップスティック喜劇という味わいで、すごい技術を手に入れても簡単にそれを台無しにしてしまう主人公の自滅の物語という感じか。

SF的にどうこう、という話ではないけれど(一章をさいて科学的説明にあてているが)、この「透明」という発想はどう考えられたのか気になる。独裁の恐怖政治を敷こうとしたことに現れているように、透明であるということは恐怖に繋がるイメージを持っている。たとえば「宇宙戦争」でも、ウィルス、病原菌は重要なファクターとして出てくるけれど、何か繋がりがあるのだろうか。

「透明」なもの「みえないもの」というイメージがどのように考えられてきたのか、そういうのを追った研究ってあるのだろうか。ガラス、重力、磁力、病原菌、透明人間。「透明人間」は1897年の作。これはプリースト「奇術師」の物語の時代の少し前辺りか。


関係ないが、いま枕元にはラファティ「九百人のお祖母さん」があって、ちびちび読んでいる。
やっぱりラファティは素敵だ。「巨馬の国」、カミロイ人シリーズ、「日の当たるジニー」「うちの町内」、「七日間の恐怖」「町かどの穴」とか読み返しても、面白い。

民話、童話的なデタラメさをSF風味にミックスして、ラファティフィルターを通すと、こんな話になるんだろうか。魔法じみたうさんくさいいくつかの商店が出てくるだけなのに、ラファティ的としかいいようのない短篇「うちの町内」は荒俣宏編「新編 魔法のお店」(ちくま文庫)にも荒俣訳で載っていて、ついそこからラファティに寄り道してしまった。この本、面白いアンソロジーだと思うけれど、単行本から文庫に落とす時にスタージョンのこれにしか載っていない「ショトルボップ」という短篇を切ってしまっている。おいおい。