「壁の中」から

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笙野頼子の神なき世界

S倉迷妄通信

S倉迷妄通信

これは前作「森娘」以上に難物だった。読み終えてみても、飲み込めた、という気がしない。「森娘」に比べれば、文章はおとなしくなってはいるし、「森茉莉」を知らないとわかりにくいというようなことは今作にはない。基本的に読みやすくなっていると言っていい。しかし、だ。とりあえず書いておくが、以下あまりにまとまりがない。


今作は「すばる」に三部の連作として連載され、大量の猫写真とともに単行本化されたもの。半年ごとに掲載され、内容もそれぞれ、一章(この章立てはいま便宜的につけたもの)「S倉迷妄通信」には「S倉に越して半年後の「架空」報告」と副題が付けられ、“半年後”の部分は二章「S倉妄神参道」では“一年後”、三章「S倉迷宮完結」では“一年半後”となっている。

この連作は「愛別外猫雑記」「幽界森娘異聞」とつづく、放置しておけば殺されてしまうかも知れない野良猫を保護し、飼うことになったという一連の事件を扱っている。そもそもS倉に越してきたのは、借り物のマンションでは家主という監視者がおり、部屋も狭く、他の猫と一緒にいられない飼い猫ドーラとの兼ね合いといった数多の難問を解決する手段である自分の家を買ったためだ。雑司が谷から千葉のS倉に一軒家を構え、そこに落ち着いてからの顛末が一応、今作の“内容”だ。

郊外に居を構え、二階建てに一人暮らしという周囲からすれば異質な存在として生活を始めた「私」。あからさまな敵意をむけてくる隣家、カップルのために最適化されたような郊外都市のレストラン、手間のかかる猫たちの世話などなど、ここで書かれていることは一見引っ越し、生活エッセイみたいなものと思われるかも知れないが、そこは笙野頼子、一筋縄ではいかない。

今作を貫くモチーフはひとつは、殺意だ。それも、具体的な対象をもたない、わけのわからない殺意。
冒頭のエピグラフ

目の前のことを書くしかない。自分という「細民」のこの俗物ぶりを真面目にあげつらって、ただいま持っているこの「幸福」の中から、なぜだかいくらでも沸き上がってくる、わけのわからない殺意から救われるために――。
この得体の知れない殺意を小説の形式で解消もしくは、解決し、自身が救われること、それがこの小説の眼目だ。きわめて私的な問題意識にみえるが、私的な部分を掘り下げることで一種の普遍性を獲得することが笙野頼子の初期からの方法でもある。

上記引用に出てくる「細民」はその方策のための装置のひとつだ。「細民」というのは今作で笙野頼子がとつぜんつくり出した造語で、作中で定義が試みられている。いわく、

細民、それはばかで弱い人間、「こうしたら負ける」と判っていて負けの方を取らざるを得ないような環境にある、或いはそういう美学、モラルを持っている人。細民は人を殺したくとも、決して殺さない。余程の事がなければ殺人など出来ない癖に物凄く人が殺し(たいだけだ)。特定の個人をというのではない。人類全体というのともちょっと違う。それなのに殺人の気持ちだけはふつふつとわき上がって、でも殺さない。抽象的に殺したい人間の集団があるが、しかしその集団の条件にあてはまる個人を目の前にすると絶対に殺せない。本当は虫一匹殺せないからだ。たちまち「絶対に出来ない」と思ってしまう。そうそう細民じゃない人間、それはこの不況下にも利殖用マンションをふと買ってしまうような大家系の人々。
36P 括弧内・原文で傍点
というものらしい。
引っ越す前から「私」が近隣から嫌われている、とか、何で来るのか、と嫌味や皮肉を言われたり、執拗に「猫ふんじゃんった」のピアノが嫌がらせのように弾いてみせる隣家が、非「細民」で、その嫌がらせに対していろいろ思うところはあるのに隣家のように攻撃的な嫌がらせを仕返す事が出来ず、下手に出てしまう「私」のような人間が細民、という感じだろう。

そして、「細民」である私の得体の知れない殺意、憎悪を日常の細部とともに、具体的にそして踏み込んで描いていく。その書き方が、やはり独特の生々しさで延々綴られていく。自身が作中で「多くは現実や人間の意識の面倒くささ、実感等を、事実そのままではないにしろ、「正直」に作品に取り込」んでいる、「バカSF純文学心境小説」と呼ぶ通り、その記述は私的な空想、妄想、想像に彩られている。

特に今作では、その殺意や憎悪、猫たちの健康や病気、引っ越しやらの数多の事件の重圧のなかで、それらの事件をどのようにして理解するか、という葛藤を詳細に記述している。猫たちが健康な事、病気な事の理由を風水のせいにしたり、京都、雑司が谷、S倉と、(真)東へ東へと来ている事と神話との関係を考えてみたり、夢に出てくる自分の守護神(「担当」と作中では呼ばれている)のように思っていた神が、交代した夢を見たというようなことが繰り返し、重要な事として描かれる。

風水も、神話も、それが都合の良い説明を引き出すための便宜に過ぎないというようなことは書き手も知っている。しかし、それでも風水を参考にし、神話を勉強し、でっち上げのような自己流解釈をつくり出す。「細民」による私的神話の構築というわけだ(そして、神話の私的書き換えという方法は笙野頼子のたとえば「太陽の巫女」で用いられている。たぶん、「水晶内制度」や「金毘羅」もこの系列だろう)。

神話、風水、オカルトの渾然一体となった「私」の妄想体系は、一読して判るような整然としたものではなく、さらにそこへ前述の殺意、憎悪といった生々しい情念が絡まり、より異物感を増していく。

「S倉迷宮完結」は特に問題含みの作品だ。ここでは、小説内小説が書き出され、そのなかでは猫が人間の姿となり、猫を捨てた飼い主の生き肝を抜きに行くという荒唐無稽な話が語られる。しかし、それは単に荒唐無稽なのではなく、小説、という形式への誠実な取り組みと、作中人物(猫)でしかないはずのルウルウをいかに作中とはいえ殺人教唆猫にしないかというこだわりがあってのことだ。

笙野頼子の妄想とは、単なる荒唐無稽な空想なのではなく、私的な世界(=言葉としてもいいだろう)が現実との壁に衝突した時に必然的に生み出される何か、だ。殺意、そして妄想が小説という形式への反省的思考を経たあとで、必然的に選び取られたのが、作中作という小説的方法だった。作中にはこうある。

小説は「復讐と共に終わって」ばかりいるわけにはいかないのだ。「神のいない」人間は時にそれに負け、(科学的合理的論理的)に神または神の代わりを出現させようとして狂う。
178P 括弧内・原文で傍点
笙野頼子の小説は、「神の代わりを出現させようとして狂う」小説だ。今作で執拗に繰り返し書きつけられるオカルト、風水、神道の神々は、神の代わり(神道は神だが)として、世界を解釈するための装置として呼び出されている(ここらへん、「ドン・キホーテ」についてミラン・クンデラが書いた文章を想起する)。しかし、そのどれもが神の代わりとはなりようもないものでしかなく、そこで選び取られた戦略が、小説、つまりは文学だ。


「狂う」さまをここまで直截に、生々しく表出している小説家というのは前回も書いたが、他に見た事がない。それは文学という形式への絶対的な信頼があってこそのものだろう。笙野頼子にとっての神の代わりは、たぶん文学の神だ。私が、笙野頼子を凄い、と思うのはこの点にもある。彼女は圧倒的なまでに“文学”的だ。それもあまりに文学的すぎてそれが一種の冗談であるかのようにさえ見えるほど。文学というものがジャンル名としてではなく、そう呼んでしかるべき確かな実例が笙野頼子の作品群だと思う。