「壁の中」から

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The grammar of the priest's glamour

魔法 (ハヤカワ文庫FT)

魔法 (ハヤカワ文庫FT)

前読んだのはいつか忘れたが再読。これはやっぱり傑作だと思う。
読者を引っ張っていくミステリアスな物語と、圧倒的にリーダブルな文章(翻訳文の読みづらさというものを全く感じさせない訳文)とでぐいぐい読ませていくうちに、小説そのものの原理をえぐり出す展開に至る力業がやはり圧倒的。
面白い現代小説、を読みたいという人には文句なく勧められる。

「現代」とつけたのは、20世紀小説的な―小説という表現形式それ自体への問い―方法論というのが作品の主幹を成す部分だからで、起承転結のはっきりとした物語を読みたいという場合にはちょっと躊躇するからだ。

まあ、私が以前から好きで読んできている作家だということもあって贔屓目もあるだろう。SF時代のプリーストを知る人にはわかるかと思うけれど、SF的、というかむしろP・K・ディック的な主題がここでも展開されていて、ジャンルは違えどこの人は主流小説を書いてもやはり、“あの”プリーストだったのは嬉しいところだ。


この小説は、ある男女の恋愛を基軸にストーリーが進む。序盤、リチャード・グレイという報道カメラマンが、爆破テロの巻き添えを食らって病院に入院しているところから話がはじまる。治りきっていない身体の障害もあるけれど、グレイの爆発事故以前の数週間分の記憶がなくなっていることが大きな懸案事項だ。治療を進めていたあるとき、グレイの恋人であったと自称するスーザン・キューリーなる女性が現れる。しかし、グレイにとっては見知らぬ他人としか思えない。どうやら記憶の失われた期間に出会ったらしい。彼女に提示された謎めいたキーワードなどに興味を惹かれ、それまではさして気の向かなかった記憶喪失の回復に、グレイは俄然乗り気になる。
そして、催眠療法を受けたりしているうちに、グレイはその間の記憶を思い出すことができたのだが……。

という導入である。
この小説を楽しみたいと思うのなら、できればこれ以上何も知らないまま読んだ方がいい。書評や感想なども見ずに読むべきだと思う。文章それ自体や風景描写よりも、全体の構成、展開などに全力を賭けた小説なので、何をモチーフにしているかとか、どういう技法なのかという事それ自体が小説のオチを割ってしまうことになるからだ。

だからといって再読に耐えないというわけでもない。事実私も読むのは二度目だし、前に読んだ時とは違うだろうけれど、かなり楽しく読めた。それは一度読んだ内容を相当忘れていたと言うこともあっただろうけれど、今回はもうちょっと注意深く読んでみた。

以下、「魔法」覚え書き。基本的に以下のことは一度でも読んだ人にむけて書くので、ネタバレ配慮のため、文字色と背景色を同じにして書きます。読みたい方は選択反転してください。


●プリーストの魔法の文法

プリーストのよく扱うモチーフは「リアリティの変容」、あるいは「現実の反転」だとひとまず言えるだろう。出世作「逆転世界」においては、普段見慣れている世界とは全く異なる物理法則の支配する独特の世界を描き、しかもそれがラストになってひっくり返されるのだし、「ドリーム・マシン」ではバーチャルリアリティを見せる装置を介して、現実と夢とが交錯してしまう。ここに「イグジステンズ」のノベライズを加えてもいい。

ディック的、と書いたのはそのようなリアルなものがひっくり返されるという現実崩壊感覚へのこだわりが通底しているからだ。そしてこの。「魔法」訳者あとがきでも使われている「現実崩壊感覚」という形容が最も当てはまるのが、P・K・ディックだ。ディックの小説には「この現実はにせの現実ではないか」という偏執的な強迫観念が横たわっていることは周知の通り。人間に似たもの―レプリカントの登場する「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」や、ディックを代表する短篇である「にせもの」、父親と異星人がすり替わる「父さんに似たもの」、現実そのものが崩壊する「電気蟻」、電気スイッチの位置がおかしいというところからこの現実が模造されたものであることに気づく「時は乱れて」など、その手のものはランダムにいくらでも挙げることができる。

そもそもハミルトンの古典的短篇「フェッセンデンの宇宙」からして、この手のテーマはSFの常套句でもあるのだけれど、それは措くとして、「魔法」を読んでいて思い出したのはディックの「ユービック」だった。ディックを評する定型句に「タマネギの皮をむいていくような」というものがあるが、「ユービック」はまさにそのような「現実」が繰り返し崩壊していく緊迫感に満ちた小説だ。そして、「魔法」で味わったのも、タマネギの皮をむいていくように際限のない、現実の底が抜けるという状態だった。


●反転する現実

失われた記憶が回復して万々歳だと思っていたが、そこに大きな欠落が見つかる。あまつさえ単なる欠落どころか、致命的な虚構が混ざっていることが判明する。中盤までの「魔法」はそういう展開をする。

回復された記憶として、第三部(90P以降)で語られる南フランスでのグレイとスー(スーザン)との出会いと別れはそれだけで一篇の小説を構成するものだ。あまりに簡潔で短いものではあるが、百ページあまりを費やして語られるこの部分を読んでいると、この小説があたかも普通の恋愛小説であったと錯覚してしまうほどだ。登場人物達と長いつきあいをしていくうちに、読者のなかにあるリアリティが生まれてくる。小説に限らず、物語のリアリティはこういうところから生まれる。エピソードの積み重ねや、共感を誘う人物造形、それなりに長い物語を辿ることにより生まれる親近感。文体や描写も重要だ。ただ、この小説では文体や描写といった小説の文章それ自体を前景化するような手法には極めて禁欲的である。ごく単純に事実を説明し、簡潔にシーンを進め、会話によって話を運ぶ、かなり洗練されたストーリーテリングである。サクサク読める。つまり、小説を読んでいるということを強く意識させない。

回復した記憶の記録をグレイの一人称という形式で読むうちに、その記憶にリアリティが生まれる。しかし、次の短いエピソードで一挙にその記憶の現実性が揺るがされることになる。

グレイはスーとはフランスで出会ったと言うことを思い出したのに、スー自身は一度もイギリスから出たことがないと言う。「きみとぼくが恋に落ち、だけどきみにはナイオールという名のボーイフレンドがいて、きみを離そうとせず、結局、ナイオールがぼくらの仲を裂いたことを覚えている」という、グレイとスーとの間に起こった出来事の基本的な経過は両者一致しているのに、イギリスとフランスという埋めがたい差異が現れてしまった。

グレイが忘れている事は何か。それは「グラマー」にかかわることだった。「グラマー」はグレイの記憶のなかでは単に魅力的、という以外の意味はなかったのだが、グレイの目の前で、スーがその「グラマー」を発揮して、透明人間になってみせることで、まったく異なる展開を迎える。

その次からはスーの一人称でグレイに語りかける形式になっている。そこでは、グレイとスーとの出会いと別れの模様が、透明人間――不可視の人(invisible man)というSF的ガジェットを用いて語り直される。

いままで読んできた南仏の恋愛譚がそっくりひっくり返され、子供時代から異常なまでに「誰にも気づかれない」子だったスーが、自分の能力に気づき、「グラマー」の能力を持つ他の不可視の人々――特にナイオールという男と出会うという物語に変貌する。

●視覚の死角

以下、チェスタトンの「見えない男」のネタバレを含みます。

この透明人間、見えない男――The Invisible Manというガジェットだが、ウェルズパスティーシュである「スペース・マシン」を書いたプリーストのこと、H・G・ウェルズの「透明人間」を意識したものだろう。ことに、「魔法」解説で法月綸太郎が指摘する通り、「魔法」での263頁あたりの百貨店でのエピソードは「透明人間」の「百貨店にて」を下敷きにしたものだろう。しかし、「魔法」により大きな影響を与えているのは、同じく法月氏の挙げているG・K・チェスタトンの「見えない男」(創元推理文庫「ブラウン神父の童心」中村保男訳による)の方だろう。「透明人間」という語を使わずに解説を書こうとしている上、チェスタトンの「見えない男」と「魔法」がどのように関係しているかを語ろうとすればチェスタトンのネタばらしになってしまうという配慮からか、このことは指摘されていない。

「透明人間」も「見えない男」も原題はThe Invisible Manである(「魔法」の不可視の人々は複数形であるし、女性もいるのでManではないはずだ)。ウェルズのものにおいては、透明人間は科学的手段によって透明になっている。彼はそれを利用し、悪意を思う存分に発揮したために破滅する。ウェルズの透明人間は、じっさいに透明になることのできる実体的な存在である。しかし、チェスタトンの「見えない男」ではそれは意識上の死角ということになる。法月氏はストーカー的な三角関係の点で共通していると書いているが、より重要な共通点は、この意識の死角という点にある。

「見えない男」では、誰もいない場所で人の声を聴いたり、殺人予告の横断幕が張られたりするという怪奇な事件に悩まされ、あまつさえ、誰も来ていない、と皆が言う部屋で人が死に死体が消えてしまうという事件が起きる。これを解決するのが、意識の死角にあるもの、作中では「心理的に見えざる男」と表現される存在である。たとえば、日常知人に「何かあった」と訊かれて、その日に何もなかったわけはないのに、「語るほどのことはない」という意味で「何もない」と答えるのはよくあることだが、それがつまり、意識の死角である。チェスタトン「見えない男」ではそういうトリックが使われている。個人的には無理があるだろうとは思ったが、なるほどと思わされる。

「魔法」での不可視の人々というのも、基本線ではそういう存在である。実際に透明になるわけではなく、人の意識から消えてしまうというのが「魔法」の不可視の人々である。しかし、それがあまりに強烈であるため、そこに確実に不可視の人がいるという確信を持ったとしても見ることができないというほどのものになる。

しかも、この不可視の特徴的なところは、見えないだけではなく、不可視人が何かを行ったとしても、まわりの人々は不可視人が存在しないという前提で、整合的な記憶を作り出してしまうことだ。何人もの人がいる部屋で、不可視人が電気を消せば、それは、部屋の誰かが消したという暗黙の了解が出来あがる。

つまり、不可視人は、視覚の死角のみならず、意識の死角を作り出すことができる。そしてこの、意識しないと見ることができない認識上の死角というモチーフは、この小説の核心そのものでもある。


●小説の底を抜く

この小説で序盤から提示されるのは、不確かな記憶というモチーフである。時に忘れられ、時に回復し、しかし回復しても他人のものとは食い違う不確かな記憶である。

そこで、次に出てくるのは不確かな認識である。不可視人という存在は、いながらにしていない、いるにしてもいないということになっている。そこでは登場人物達の認識そのものが揺らいでくる。同じグラマーにならみえるはずなのに、ナイオールはスーには見えなくなる。そこでは、ナイオールの存在そのものが、だんだんと恐怖そのものへと変貌していく。どこにもいないということは、どこにでもいるということと同じになる。それを観念したスーは、ナイオールへの態度を一変させる。何処にも行けて、何でもできる、そんな彼を止めようがないのならば、彼がそこにいようがいまいがどうでもいいのだ、と。実際にいるのだろうがそれが想像に過ぎないのだろうが、どちらでもいいのだと。

ここでぞっとする。それまでは不可視人ではあったがそれなりに実態を備えていたはずのナイオールが、何かしら超越的な存在に変貌していく瞬間を目の当たりにしたからだ。

そして、もうひとつ不確かなことが現れる。それは、これまで語られてきたこの小説そのもののリアリティである。グレイとスーとの話が噛み合わないというだけにとどまらず、グレイとスーのこれまでの行動自体が、それの起こる遙か前に書かれていた、ということが判明する。

グレイが爆発事故にあった直後に、最後にスーの前に現れた時彼女に渡した封筒のなかには、それ以降の二人の行動をすべて記した原稿が入っていた(正確には、グレイとスーの一人称で語られた部分をのぞいた、第二部、第四部)。これまで語られたことがすべて予見されていた物語だったということにグレイは驚愕し、憤慨する。

これは小説のリアリティの底を抜く行為だ。物語や人物、文体でリアリティを醸成していくのが普通だが、ここでは、小説自らその小説が捏造であるということを暴露する。しかし、こういうネタは現代小説にはありがちで、一種の夢オチみたいなところもあり、使い所を間違えると気抜けのするものだが、「魔法」のメタフィクション的な手法は結構面白い。

ここに至るまでの展開で、「魔法」は自ら物語世界での現実を反転させ、リアリティを突き崩してきた。一種の自己破壊の様相を呈してくる有様だが、破壊を続けた後に出てくるのは「わたし」という人称である。自分の行動が書かれた紙を丸めて部屋中を暴れるグレイを見て、それまで三人称の客観叙述であった(と思われていた)地の文で、突如「わたし」なる人称が出現する。ここで多くの読者は面食らったと思う。基本的にこの小説は三人称叙述を基点として、途中にグレイとスーの一人称での語りが差し挟まれる構成だとばかり思わされてきたのに、その叙述が明示されない一人称であったことが明かされるのだから。ここで、この小説の文体の企みを明かされることにもなる。比喩や凝った表現の類をほとんど用いず、文章としての特徴を徹底的に排していたのは、三人称という叙述の形態を自然なものとして受け取らせようとする策略だった。構成にすべてを賭けたというのはそういう意味だ。部分を全体との関連にそって組み直す、緻密なスタイリスト、プリーストの面目躍如というところだろう。

そして、それまでは作中人物でしかなかったナイオールが、徐々に奇妙なかたちで変貌を遂げていく。ここに至る間、小説家志望の独占欲の強い不可視人の一人に過ぎなかったナイオールは、事故以降の顛末を予告した原稿を残したり、誰にも見られることのない=どこにでもいるという奇妙な特性を獲得した。

ことここに至り、ナイオールはすでにナイオールだけではなく、この「魔法」という小説全体を規定する、超越的な存在に成り変わっている。

第六部九章の語り手は、それまでの内容と整合性をつけるとすればナイオール以外には考えられないが、ここではもうひとつの事態が起きている。三人称叙述という書き方は一般に神の視点などと呼ばれ作中人物達の心理をすべて把握することが可能な手法だが、そのさいには三人称を書いている主体は意識されない。まさしく神の視点であり、すべてを超越した視点だからだ。そこではそれを書いている主体は意識されない、透明なものとして普通読まれる。

つまり、ここで「透明人間」という作中ガジェットは、客観叙述小説を構成する「意識されない主体」に転化している。第六部九章を読めば解る通り、そこで語っている人物は明らかに小説内の水準を超えている。彼はナイオールではない。少なくとも、ナイオールだけではない。作中人物であるナイオールでもあるし、「魔法」という作品を創作した書き手でもある。つまりはプリーストその人。

この小説は、小説のリアリティの底を抜き、すべてが疑いの対象になった後、これ以上は崩せぬリアルとして作者が残るというかたちになっている。小説という「文法」の基底を露わにしたということだ。第六部九章の語り手「わたし」は言い方を変えれば、文法規則の主語、つまり、述語があるからには主語がある、書かれたものがあるからには書いた者がある、という原理的な規則を露わにする。

小説のなかすべての場所に遍在する、つまりユビキタス(遍在)な存在として作者が名指される。ディックの「ユービック」を思い出したのはそれもある。ここにはある種の影響関係があるのではないかと思うが、どうだろうか。

で、この小説を最初から読み返すと、冒頭に第一部がある(当然だ)。この第一部、「わたし」が孤独で夢想家であった幼少期の頃を語る回想的な文章で、それから後の内容と完全に切れている。しかし、一度最後まで読んで冒頭に戻ると、ここの「わたし」が作中の誰でもないことがわかる。で、誰が「わたし」なのかというと、まあ、上にも書いた通り、これはプリースト自身だろう。プリーストが、書き手になる以前の話である。これは

「そう、おそらく話の発端はそこ(引用者註 孤独な幼少期のころ)にある。この話は、それから後の話なのだ。いまのところ、わたしはただの“わたし”だが、やがて名前をもつようになるだろう。この話は、さまざまな声で語られた、わたし自身の物語なのだ」

と結ばれている。これは書き手の誕生を宣するものだろう。

この小説の「わたし」は、グレイやスー、そしてナイオールそれぞれの一人称であるうえに、作者プリーストの「わたし」でもあり、三人称叙述の主語としての「わたし」でもあり、という風に多重の意味がかぶせられている。原題「The Glamour」自体が多義性のある言葉で、作中でもそれを大いに利用しているが、解説で法月氏が指摘する通り、これはまた文法のgrammarとも重ね合わされているのだろう。シンプルな言葉が大きな膨らみを持たせられているわけだが、これは文体それ自体の簡潔さとも通ずる、プリーストの特徴的な書き方になっている。



形式とモチーフの密接な結合という「奇術師」でも見られたスタイルは、「魔法」ではさらに徹底させられている。その力業は見事であるが、一回限りの手であって、二度は使えない。「奇術師」で微妙に方針を変えたのはそのせいだろう。八十年代以降のプリーストが、他の小説でどのような小説を書いているのか、気になるところだ。

そういえば、チェスタトン「見えない男」はキャムデン・タウンという街が舞台になっている。で、「魔法」の224頁には「カムデン・ハイ・ストリート」という地名が現れる。同じ街だろうか。

だらだらと長くなってしまった。とりあえず、以上。