「壁の中」から

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レーモン・ルーセルの奇妙な生涯

●栄光の感覚

文学にあまりにも多大な情熱をつぎ込み、結果、あまりに実験的なものをこしらえることになってしまい、望む名声を得ることが出来なかったというレーモン・ルーセルの悲喜劇的人生は、きわめて興味深い。

私にとってはルーセルの作品そのものと並んで、彼の人生そのもの、彼の生活そのものにも非常に興味がある。通常なら書き手の生活や伝記的事実にはあまり関心がないが、ルーセルだけは、彼がいかにしてそのような作品を書くに至ったか、なぜ書かれねばならなかったのかが、興味の中心にある。以下、彼の伝記的事実を短く書いてみる。

人生十代のある時期、作品を書きながら彼はある確信を得る。以下は彼の診察をしていたジャネ博士による言及から、ルーセル自身の発言を引いたもの。

「(何かが)自分が傑作を作っていること、神童であることを感じさせるのです。八歳で顕れた神童もいますが、私は一九歳で顕れたのでした。私はダンテとシェイクスピアに並ぶ者であり、老いたヴィクトル・ユゴーが七〇歳で感じたもの、ナポレオンが一八一一年に感じたもの、タンホイザーがヴェヌスベルクで夢見たものを感じていました――つまり栄光を感じていたのです。
(中略)私は栄光の欲求、欲望を覚えてなんかいませんでした。なにしろ以前にはそんなことは少しも考えたことがなかったんですから。その栄光というのは一個の事実、一個の確認、一個の感覚だったのです、私は栄光を所有しているという」*フーコー[1975]245246P
この確信は絶対であり、揺るがぬものだった。その栄光があまりにも輝かしいものだったため、部屋のカーテンを閉めなければ栄光の輝きが外に漏れ出て、夢中になった群衆が詰めかけてくるかも知れないと恐れるほどだった。このエピソードもかなり面白いもので、彼の確信と現実との大きすぎる断絶が哀れな喜劇を思わさずにいない。で、この話の続きが、ルーセルの数多のエピソードのうち最も有名なもの。ジャネ博士は先の引用に続けてこう記す。

「この熱狂とこうした感情とは多少の揺れ動きはあっても彼が詩を書いているあいだは、つまり五か月か六か月は続いた。本の印刷のあいだにそれはかなり減少した。本が出て、若者が、大いなる感動を抱いて街中に出てゆき、人々が自分の通るのを振り返ってみないことに気づいたとき、栄光の感じとみなぎる光輝とはだしぬけに消え去った」*フーコー[1975]246P
ルーセル自身はこう書いている。

「私は、栄光のめくるめくような絶頂から地上に投げ落とされたように感じた。衝撃は、全身に赤い斑点の生じる一種の皮膚病をひきおこしたほどだった。(中略)このショックから、私が長いこと苦しむことになる神経症が生じた」*レリス[1991]138P
本を出しただけなのに、道行く誰もが自分を振り返らないことに多大なショックを受ける! なんかもう、これだけで彼の「栄光の感覚」がどんなものだったかわかろうというものだ。このショックは相当なものだったらしく、ルーセルに「鬱病的意気沮喪の真の発作」が始まったため、上記のジャネ博士の診察を受けることになるのである。しかし、それでも「栄光の感覚」と自分が偉大な作家であることには疑いを容れず、以降の生涯はそのときの「栄光の感覚」をもう一度取り戻すために費やされる。

「しかしそうした著作の成功や失敗はほとんどどうでもよいのです。それは人々による栄光の外面的認知を遅らせても、その栄光の現実性を毫も傷つけるものではないのです」*フーコー[1975]248P

参考文献一覧 左から
レーモン・ルーセル(岡谷公二訳)「ロクス・ソルス平凡社ライブラリー
レーモン・ルーセル(國分俊宏・新島進訳)「額の星 無数の太陽」人文書院
レーモン・ルーセル(岡谷公二訳)「アフリカの印象」白水社
ミシェル・フーコー(豊崎光一訳)「レーモン・ルーセル法政大学出版局
ミシェル・レリス(岡谷公二訳)「レーモン・ルーセル 無垢な人」ペヨトル工房
岡谷公二「レーモン・ルーセルの謎」国書刊行会
ペヨトル工房夜想 27 レーモン・ルーセル

引用文献
フーコー[1975] ミシェル・フーコー 豊崎光一訳「レーモン・ルーセル法政大学出版局 1975
レリス[1991] ミシェル・レリス 岡谷公二訳「レーモン・ルーセル 無垢な人」ペヨトル工房 1991