「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

レーモン・ルーセルの奇妙な詩法

さて、上に投稿しましたレーモン・ルーセル「新アフリカの印象」は御覧いただけましたか。これだけを見ても意味不明(私にも)だと思われますので、以下この詩の基本事項の確認を行いたいと思います。

●「新アフリカの印象」について

この詩は全部で四つの歌から成っていて、それぞれ「ダミエット」「ピラミッドの戦場」「血が出るまでなめると黄疸の癒る柱」「ナイル川の帆船から見たロゼットの地」で構成されています。そのうち「シュルレアリスムの詩」で訳出されているのは、第三の歌です。そして、第三の歌のタイトルが「血が出るまでなめると黄疸の癒る柱」という訳です。「アブル・マアテの回教寺院ダミエット付近」という副題みたいなものは、実在の場所を示しているようです。どうもこの四つの詩は、観光案内のようなニュアンスがあるらしいので、そのためでしょう。

というか、「血が出るまでなめると黄疸の癒る柱」というタイトルがすごい。はじめて見た時面白くて仕方がなくて笑ってしまったのですが、いかにも「手術台の上でのミシンと蝙蝠傘との出会い」(本文では「のように美しい」と続く)なシュルレアリスト好みです。詩では奇想を用いず描写に徹するのが、先回も書いたようにルーセルの詩作の基本なのですが、ここでは描写が影を潜め、詩的文体による長大な繰り言、とでもいうようなものになっています。

●多重括弧と色分けについて

この詩は当然原文では単色であり、黒インクのみで刷られています。しかしここではhtmlタグを活用して、ルーセルが生前「新アフリカの印象」刊行の時、費用上の問題から断念したという詩行の色分けを試みています。ルーセルがどういう色分けをしたかったはわかりませんが、ここでは括弧の層ごと、つまり、括弧なしの部分は白、一重括弧は赤、二重括弧は黄緑、三重括弧は水色、四重は黄色、という風にしています。
これでかなり全体を把握しやすくなったはずです。(先回付記した「(゜(○○)゜) プヒプヒ日記」さん12月7日の記事によると、オランダ語版は括弧を削除して色だけにしているようですが、ここでは括弧を残して色分けしています。どうもカラデックの本を読むと、このオランダ語版はルーセルの意図にそったもののようにも思えますが、読みづらくなるのでやめました)

詩の白い文字の部分を見ればわかるとおり、この詩は最初と最後のひとつながりの詩行あいだに、相当量の括弧を加えることで長さを支えています。この詩の最も単純なかたちは以下です。

英雄的治療法だ! 舌が貧血しないようにと
少しもひっこめたりはせず、他の無数の阿呆のあとで、
この柱の脇腹をなめてなめてすりへらすのは!
だが赴かぬ何があろう、従わぬ何があろう、
明らかなものにせよ架空のものにせよ、希望に心を奪われて、
己れの病気を癒そうという、希望に心を奪われて。
この五行目と六行目とのあいだに、この詩のほぼすべてが詰まっているという塩梅になっています。「物語」のエントリでは入れ子式話法、多段階の語り手、という手法について説明し、それがルーセルの散文の特色であると書きましたが、この詩はその散文の特色を色濃く持っています。

色についてですが、上記のように、同色であれば内容が連続しているかというとそうでもなく、同じ水色の三重括弧部分でも、一度三重括弧が閉じた後に、また開いた三重括弧は、内容が繋がっていません。ただ、一つの括弧の中で、新しくより層の深い括弧が開いた場合は、その括弧が閉じると、新しい括弧が開く前の部分から直接繋がります。

●括弧の展開方法

この詩の特徴的な多重括弧ですが、むやみやたらにつけ加えられているわけではありません。たとえば、一番最初の括弧の畳みかけの部分。

明らかなものにせよ架空のものにせよ、希望に心を奪われて、
(希望よ! 人を動かす挺の王よ! 思いもかけず訪れるあらゆるアメリの伯父
((未だ年若く汲み尽くされぬ祝福されたこの国では、
希望が一つめの括弧を開き、アメリが二つめの括弧を開いています。だいたいこんな感じで、括弧が付け足されていくわけです(「夜想」に載っているジャン・フェリーの解説はこのメカニズムを詳述したものです)。
ここには言葉から言葉を生み出す、というルーセルのこだわりが見てとれます。
初期短篇では一つの文を二つに分裂させ、その隙間に物語をはめ込む、という手法でしたが、ここでは、それをより原理的に執拗に使用しているかのようです。ひとつの詩のあいだに無数の詩を詰め込み、それが言語的連想によって夥しく膨張していくありさまは、ルーセルの手法の一頂点を形づくっているといえます。

そしてさらに、これと同じことが註の部分でも行われています。フーコーによれば、元の部分では五重括弧が最高段階(正しくは、括弧が開かれていない部分をゼロ度とすれば、五つの括弧とそれに半括弧―、―が加わり、五度半が最高と書いている)で、註のなかでは、三重括弧(これに―、―がつき、三度半。註自体が一度と数えて、四度半が註の最高の深度を形成するとのこと。理論的には最高十度の深度があり得るはずだけれど、フーコーによると、じっさいは九度が最高とのこと)が最高の段階ということになるそうです。

定型詩の韻律

これだけならば、まだそれほど奇怪でもないかも知れません。しかし、この詩はアレクサンドランで書かれています。つまり、定型詩の韻の踏み方を踏襲して書かれているということです。

この部分は、翻訳できません。上に引用した日本語訳でも韻は無視されています(そうしなければ翻訳など不可能です)。そう思ってwebを検索したら、どうも「新アフリカの印象」の冒頭部分の原文らしいのををみつけました。La letteratura combinatoria IndiceというAndrea Martinesという人のサイト(たぶん)。イタリア語らしき言語で書かれているここではレーモン・クノー、レーモン・ルーセルジョルジュ・ペレックらについての評論を行っているようなのですが、内容はさっぱりわかりません。ラインナップからして、ウリポにまつわる問題を扱っていると思われるのですが。

では、以下引用。(数が多くて骨が折れるのでアクサンなどの記号は省略しています)。

Le nom dont, ecrase, le porteur est si fier
Que de memoire, a fond, il sait sans une faute
( Comme sait l'occupant, dans une maison haute,
D'un clair logis donnant sur le dernier palier
Photographe quelconque habile a pallier
Pattes d'oie et boutons par de fins stratagemes
( ( Pouvoir du retoucheur! lorsque arborant ses gemmes
( ( ( Chacun, quand de son moi, dont il est entiche,
Rigide, il fait tirer un orgueilleux cliche,
Se demandant, pour peu qe'en respirant il bouge,
Si sur la gelatine, a la lumiere rouge,
Dans le revelateur il apparaitra flou,
( ( ( ( Tels se demandent: S'il differe d'un filou,
Le fat qui d'un regard ( ( ( ( ( parfois une etincelle,
L'entourant de pompiers qui grimpent a l'echelle,
Fait d'un paisible immeuble un cratere qui bout1:) ) ) ) )
Enflamma, depourvu lui de toute fortune...


1 Que n'aton, lorsqu'il faut d'un feu venir a bout,
Un geant bon coureur, quand une maison flambe,
Un sauveteur loyal doitil trainant la jambe,
Considerer de loin la besogne en boudeur?
Qui, pret, tel Gulliver, a vaincre sa pudeur,
Aurait a satisfaire une envie opportune.

冒頭からの二行ごとに脚韻を踏んでいることがわかります。fautehautepalierpallier。以下同じ調子で二行ごとに韻を踏んでいっています。括弧を展開する時も同じく。そして異様なのは、
Fait d'un paisible immeuble un cratere qui bout1:) ) ) ) )
の行で註に飛ぶのだけれど、註のついている行と註に入って一行目が韻を踏んでいることです。そしてboutで踏まれる韻は、そのまま註の中でも続いていき、註の最後のopportuneは、註の次の行のfortuneと韻を踏んでいます。

この韻の操作についてフーコーはこう書いています。

ルーセルは自分が『新・アフリカの印象』の詩句の一行ごとに平均して一日五時間仕事をしたと計算している。このことは、いちばんの年輪がそこでは同時にいちばん内側のものであるこの円環的成長の中心がひとたび決定されてしまわないかぎり、システムが均衡を見出さないのである以上、詩という白木質オービエに刻みつけられる新しい年輪の一つ一つが全体の再調整を要求していた、ということを思ってみるならば、容易に理解できる。この内的な増殖は、それが膨張させる言語にとっては、一つ一つの伸長ごとに必ずやそれを根底からくつがえすようなものであったに違いない。一つ一つの詩句の創造が全体の破壊であり、かつその全体を再構成する処方なのであった。
 この激しい渦巻きを収縮させてつねにもとに戻す作業くらい難しいことはなく、そのことはこの作業を『視覚』ながめに比較してみるとよくわかることで、この作品においては言語の務めは事物の線を忠実に辿り、継起的な加算によって、それらの細部の細かさに密着することなのだった。忍耐づよく組み上げられたこの忠実さがどんなに困難なものであったにせよ、言語自体による言語の恒久的な破壊とそれが比べられようか? これら二つの労苦のうちでどちらがいっそう汲みつくせぬものだろうか――何か或るものを描写することと、それが生み出す一語一語が廃棄してしまう言 説ディスクールを組み立てることでは?
フーコー[1975]178179P
二段落目で「眺め」(上記引用では『視覚』)について言及しているのは、この前段で、ルーセルが本当は「新アフリカの印象」では「眺め」でやったように描写を行うはずだったのだけれど、一生かかっても完成できないことに思い至りそれを断念したという彼自身の記述を引用しているからです。つまり、ルーセルはこの「新アフリカの印象」よりも、「忠実な描写」による詩作の方をこそ困難だと思っていたということに、フーコーは疑問を呈しているわけです。(ルーセル自身の記述によると、描写による詩作が無理だとわかるのに五年かかったそうです。そして現行の「新アフリカの印象」の完成には七年かかったそうです)

直線的な韻の操作と、入れ子式の括弧の増殖とを噛み合わせる困難さについては私には想像の外です。

●意味不明の詩

この詩がどれほど困難な構成法を持っているということはこれでわかるかと思いますが、さて、内容の方はと言うと、私にはさっぱり理解できないといわざるを得ません。無数の羅列的詩句によって、鼻の冷たさ、アメリカ、老人の禿頭について詩的な(?)表現が続くのですが、全体としてこれはいったい何なのか。困難な形式のなかに、ほとんど意味のない冗語的な、詩的表現が延々と続く。この詩がいったい何を伝えようと、何を言おうとしているのか、私にはさっぱりわかりません。

この不可解さは、形式の絶対的先行がもたらしたものか、それとも私が単に詩が読めないだけなのかわかりませんが、これから後は個々の読者の読みように任せることにして、「新アフリカの印象」の基本事項の確認は終わります。