「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

bk1に投稿した書評について補足

レーモン・ルーセル祭中ですが、ちょっと小休止。
bk1に久しぶりに投稿した書評がアップされたので、それについて。
広告、というか書評の方に当ブログへのリンクを張ったので、そっから人が来るとするなら、そういう人のためにも(いるのか?)。タイトルか書影からbk1の私の書評に飛べます。


●古井由吉「ひととせの」日本経済新聞社

これの紹介は書評の方でほぼ書き尽くしたので、これ以上書くことはあまりない。書き残したのは装幀についてで、これは古井由吉本といえば即座に浮かぶ、菊地信義の手によるもの。とても地味な色遣いだけれど、この地味さは逆に目立つ。紙の手触りもすごく良くて、手にとって気持ちの良い本。文字数があまり多くないせいもあって、本文の字組が少し特徴的。ゆったりと読める。帯を外しても違和感のないのは、さすがといったところ。(この装幀、古井氏87年の短篇集「夜はいま」とそっくりだったりする)
で、本当に書きたいのは、以下の画像のこと。


直筆サイン

とりあえずこれが自慢したかった。

以下の本は写真取ってサイズなおしてアップロードするのが面倒なので、amazonから書影を持ってきた。
●チャック・パラニューク「サバイバー」

サバイバー (ハヤカワ・ノヴェルズ)

サバイバー (ハヤカワ・ノヴェルズ)

友人のすすめで読んだ。書評で言及した文字組のことだけど、さらに細かいことに、各章の冒頭の章番号「47」から「1」までの番号は、一番最初の「47」が行頭にあるのに対して、最後の「1」の章番号は行の一番下にある。つまり、章が進むごとにその番号の位置がどんどん下に「墜ちて」いっている。もちろん、これは飛行機が墜落し(正確には燃料がなくなり)つつあることの図示、である。芸が細かい。

ファイトクラブはどうか知らないけれど、この小説の読み所はやっぱり主人公のダメ人間ぶりにあると思う。スピーディな(ヴォネガット的とも言われた)文体と細々とした蘊蓄の妙な情報料の高さも魅力ではあるが、やはりここはダメっぷりを前面に押し出したい。その友人も言っていたのだけれど、これは映画「トレインスポッティング」がそうであるように、その社会のなかの底辺の若者が主要な登場人物になっている。「サバイバー」では、彼らのおかれている社会的状況というのがひとつの重要なファクターとして働いていて、その部分と主人公の存在とがリンクしたかたちで提示されている。主人公ブランソンの姿が、アメリカ社会のなかの最悪な部分を具現化したものと読めるのだ。彼の所属していた宗教団体は確かに世間から隔絶してはいたが、それはアメリカ社会と無関係だという訳ではなく、むしろある種のネガとして働いているように感じる。

文中で書いた滝本竜彦との差異が際立つのはその点においてで、滝本作品の主人公の懊悩、ダメさなどは、社会的状況と交錯するようには書かれていない。いくらか示唆する記述はあっても、主人公の問題の原因は結局、登場人物の自意識、内面に収斂してしまう。そういう滝本作品のあり方は、「自己責任」や心理学的説明によって、社会的諸問題が心理的、個人的なものに還元されようとしているいまの日本的状況との相似を描いているとも言えるだろう。ここがパラニュークと滝本との対照的な点だ。他にも、両者の作品には(「NHKにようこそ!」と「サバイバー」)ともに宗教団体が出て来るが、この描き方も相当差がある。女性との関係も。

ただ、滝本作品、というか滝本竜彦自身は、ひきこもりといっても、オタクを兼ねた存在であり、ひきこもりの典型事例とは言いがたいのではないかと思う。オタクですらない、というのがひきこもりだという話をどこかで読んだ。滝本作品には、オタク的自意識―自分がオタクというダメな人種であることの否定的な自覚、があり、それが彼の文体を規定している。これは、数年前までブームだった「テキストサイト」と呼ばれる界隈の書き手たちとも似たものがあって、滝本の文体はそれにかなり近い。

私が滝本を共感とともに読むことができるのは、九十年代を十代として過ごした人間(エヴァンゲリオンブームのただ中にいた人間)として、オタク的といっていい自意識を、きわめて反省的に笑いを込めて書くことができるからだ。私も元々単なるオタクに過ぎないので、彼が描き出す自意識のかたちに、ひどく馴染みがある。だから、滝本の新刊を心待ちにしているのだけれど、別冊文藝春秋で連載終了した「僕のエア」はいつになったら刊行されるのだろう。

あ、話はずれたけど、パラニュークも面白いですよ。同人仲間の佐伯さんがドはまりしていて、未訳作を読むために英語勉強しようかな、と言い出すくらい。


●スティーヴン・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス」

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

エドウィン・マルハウス―あるアメリカ作家の生と死

元は三ヶ月以上前にこのブログで書いた記事。bk1に投稿する気があんまり起きない時期だったので、ここに載せた。ミルハウザーは結局邦訳刊行されたものはすべて読んだ。そのなかでもやはり傑作であり、きわめて濃密な本書は大きな存在感を持っている。ミルハウザー読者は必読だろう。
ただ、私には「アウグスト・エッシェンブルグ」以上のインパクトはなかったかな。ミルハウザーの物語の書き方では、さすがに長篇を支えきれない気がする。「マーティン・ドレスラーの夢」は結構冗長な感じがして、乗り切れないものを覚えた。「エドウィン・マルハウス」もそうだとは言わない。ただ、「アウグスト・エッシェンブルグ」を濃密にして完璧だと思ったのはその中篇という長さも与ってのことだと思う。「三つの小さな王国」ももちろん面白かったのだけれど、何か一辺倒な感じがある。どこか微妙な読後感。

そういえば短篇で面白かったのは「バーナム博物館」に入っている幾つかの作品で、「シンバッド第八の航海」はすごく良かった。これは「千夜一夜物語」のシンドバッドの物語の続編を二通りのやり方で、そして「千夜一夜物語」の紹介風の評論という三つのパートに分かれた文章が入れ替わりに書かれている、変わった形式の作品。「千夜一夜物語」のシンドバッドの航海の部分は読んだことがないので、続編のありようにかんしては特に言えることはないけれど、正統な続編を意図したものと、いかにも現代的「文学」的な、老境のシンドバッドが過去を思い返したりする情景とのコントラストが面白く、かつ評論部分ではきちんと「千夜一夜物語」成立の歴史的経緯と、基本的な前提知識を要領よく纏めていてとても勉強になる。で、その評論部分の最後に描かれるように、この三つのパートはともに、「千夜一夜物語」を読む愉しみから生まれたものなのだ。この作品の形式の奇異さは、間テクスト的実験というよりは、読んだことの愉しさを再構成したいという稚気の感じられるものだ。こういう、書き手の愉しみを動因にして書かれた作品というのが、私はとても好きで、ついそのころ刊行されていたちくま文庫の「バートン版 千夜一夜物語」を読み始めてしまったくらいだ。まあ、「千夜一夜物語」はまだ一巻しか読み終えていないのだけれど。

●浅羽通明「アナーキズム」ちくま新書

アナーキズム―名著でたどる日本思想入門 (ちくま新書)

アナーキズム―名著でたどる日本思想入門 (ちくま新書)

書評の方でかなり厳しく書いたけれど、本当はもっと批判しても良かったかと思っている。この本が「アナーキズム」の入門書を僭称しているのは正直、信じがたい。なぜこれが高く評価されているのかも、かなり不思議だ。

この本はアナーキズムをダシにして浅羽通明が自身の日本人論を語っているに過ぎないと思う(つまり、そういうのが読みたければ私の評価は不当に低いと感じるだろう)。「ナショナリズム」の方をそれなりに面白く読めたのは、「ナショナリズム」という物語、情念のあり方を、民衆的な側面からすくい取ろうとしていて、それはいままであまり見なかったアプローチだったからだ。しかし、「アナーキズム」を同じやり方で論じると言うことは、アナーキズムが持ちうるラディカルさや、政治性を脱色したものとして、つまり一種の物語として、無害な骨董品として提示することにしか貢献しない。だから、浅羽によるアナーキズムの要約がひどく偏ってくるのだ。

自分の印象と付き合わせてみようと、アナーキズムに詳しい友人に読ませてみたが、内容について「事実は間違っていないけれども、その書き方、叙述の仕方に悪質な歪曲がある」ということをいっていた。本のなかで語られているような特殊な事例を乱暴に一般化して、アナーキズムの特質、というふうにしてしまっているということらしい。結局この本はひどい、という点で意見が一致した。

私は 酒井隆史「暴力の哲学」エンツェンスベルガー「スペインの短い夏」などの流れでこの本を読んだので、ここでのアナーキズムの歪曲ぶりは目に余るものがあった。

アナーキズムをとりあえず教科書的に知りたいという人は、ここの アナキズムFAQを是非見て欲しい。私も読み切っていないけれど、これを読むだけでも「アナーキズム」の記述の歪みがわかるくらい、丁寧にわかりやすくまとめられている。

で、書評には書かなかったことで一番書きたかったのは、 「貧乏人大反乱集会」という人たちのこと。アナーキズムって、たぶんこういうこと(違う?)。しかし、彼らの姿は酒井隆史が「暴力の哲学」のなかで抽出して見せた、ガンジーやマルコムXらの抵抗の方法を実践しているように見える。「暴力の哲学」が理論編だとすれば、彼らの姿は実践編だと言える。