レーモン・ルーセルの奇妙な想念
●「想像力がすべて」
「キャンピングカーによる珍しい長距離耐久旅行――自分の家を一日も離れずに、スイスとモン=スニ経由でパリ=ローマを往復する、これが、浴室つきの豪華な住居を持つキャンピングカーで、レーモン・ルーセル氏が成し遂げた風変わりなレコードである。走行中、このキャンピングカーは、シャモニーで、スルタン、ムレイ・ユセフの、モンカリエリ城では、故レティツィア・ボナパルト王女の、ローマではムッソリーニ氏の訪問を受けた。氏は、細かい部分まで、とても入念に見てまわった。レーモン・ルーセル氏は、この珍しい観光手段にやはり興味を持たれたローマ法王から、特別な謁見を受けた。御覧のように『ロクス・ソルス』の偉大な詩人は、夢の分野に劣らず、現実の分野でも革新者である」レリス[1991]29P |
他にも、目の前で自分の好きな作家画家を少しでも貶されると、途端に機嫌が悪くなり二度とその場に戻らない、とか、彼の最も尊敬するジュール・ヴェルヌについては、
「あの方の名前を決して私の前で口にしないで下さい。ひざまずかずにこの名前を口にするのは、冒涜のように思われるのです」岡谷[1998]25P 「私の命をくれ、とおっしゃっても構わないが、私の持っているジュール・ヴェルヌを貸してくれなどとはおっしゃらないでください」岡谷[1998]163P |
「ところで私は、これまで一度も、これらの旅行を、私の本の素材にしたことがない。このことは、私にあって、想像力がすべてであるという事実を示している点で、指摘しておく価値があるように私には思われた」レリス[1991]135136 |
徹底した現実嫌いで、フィクション・物語の世界に没入することを志向したのがルーセルの基本的な資質だろう。だから、彼の書くものはすべて、一種の現実逃避にも見えてくる。しかし、その執筆にかけたエネルギーの底知れなさは、「現実逃避」といった言葉では説明しきれない過剰さがある。彼にとり、何かしら書くと言うことは、身をすり減らし、生のすべてをつぎ込んでしかるべき「何か」、だった。つまり、書くこと抜きでは彼は生きることができなかった。
事実、「新アフリカの印象」という七年以上にわたる時間をかけ、千三百行を超えるこの作の一行ごとに十五時間を費やしたと自ら語る作を刊行、不評によって報われてから、書くことを放棄して薬物の大量摂取による自殺にも似た自然死に至ってしまうのである。(この彼の死の要約は、きわめて乱暴に単純化したものであり、もうすこし細かな経緯がある)最初に書いた、彼の「栄光の感覚」をもう一度体験することはできなかった。
ルーセルは「文学的な美についてたいへん興味ある考えを抱いており、それは文学作品が何一つ現実的な要素、世界や人間についてのいかなる観察も含んでいてはならず、まったく想像的な言葉の組み合わせ、ただそれだけしか含むべきではないというのである」フーコー[1975]249 |
そして彼が用いたのは、何らかの規則、書くことを縛る何かしらの法則だった。規則によって作品を「区切る」ことによって、現実の侵入をできるだけ防ぐのだ。
引用文献
岡谷[1998] 岡谷公二「レーモン・ルーセルの謎」国書刊行会 1998
レリス[1991] ミシェル・レリス 岡谷公二訳「レーモン・ルーセル 無垢な人」ペヨトル工房 1991
カラデック[1989] フランソワ・カラデック「レーモン・ルーセルの生涯」リブロポート 1989
フーコー[1975] ミシェル・フーコー 豊崎光一訳「レーモン・ルーセル」法政大学出版局 1975