「壁の中」から

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レーモン・ルーセルの奇妙な小説

ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)

ロクス・ソルス (平凡社ライブラリー)

平凡社ライブラリーから復刊されたレーモン・ルーセルロクス・ソルス」をやっと読んだ。「アフリカの印象」を読んでからずっと探していた(ほとんど出回らないうえ、古書価格は五千円を下らなかった)のだが、とつぜん復刊されたのだ。人文書院から「額の星 無数の太陽」という戯曲二篇も刊行されており、「ロクス・ソルス」とあわせて三冊が、ルーセルの邦訳された単行本全部になるだろうか。 それらをやっと全部読むことができた。

ロクス・ソルス」自体の紹介はそのうちbk1に投稿するので、そちらを参照してもらうとして、ここではちょっとレーモン・ルーセルの軽い紹介、というか私がルーセルを読みながら考えたことをちょっと書いてみる。

まずルーセルを読むなら、もちろん「ロクス・ソルス」か「アフリカの印象」ということになると思う。これは著者の二つしかない長篇小説であり、いわば双生児ともいえる作品だ。どちらから、というなら、たぶん「ロクス・ソルス」がいいだろう。入手しやすさもあるけれど(数年前白水社から復刊された「アフリカの印象」は高い上、すでに品薄になっている)、「ロクス・ソルス」ののほうがあとで書く理由により読みやすいと思われるからだ。

●「アフリカの印象」と「ロクス・ソルス」の不気味な構成

ルーセルの小説は奇書、奇書、と騒がれることが多く、じっさいそういう売られ方をされてもいる。けれども、いざ読んでみると別に普通に読めるし、難解なところはない小説であることに、逆に落胆する人もいるかも知れないぐらいだ。逆に、ルーセルの小説はその難解さのまるでないところが、もっとも不可解なのだ。

ロクス・ソルス」などは、全篇ただカントレル博士という人物のコレクションが並んでいる庭を歩いて回るだけの小説だし、「アフリカの印象」ではある国の聖別式での大演芸大会が披露されるだけだ。文体も簡潔かつ淡々としていて読みやすく、物語ではなく文体に技巧を凝らした作品、というのでもない。

では、何が書かれているかというと、上に書いたとおり「博士のコレクション」だとか「演芸大会」で繰り広げられる、綺想に溢れた発明品や特技などの「描写」である。二つの小説はともに、始まってすぐその描写が始まり、何がなんだかわからないうちに、ただただ奇妙な情景を読むことになる。それが延々と続くのである。たとえば、「ロクス・ソルス」では全体が七章に分けられており、第一章では名もなき視点人物によって、広大なマルシャル・カントレル博士の邸宅に訪れたいきさつと、彼にかんする簡単な説明をそそくさと終えてすぐ、坂の中腹に立っている「微笑する裸の子供の像」に語りは移行する。その像をきわめて簡潔に描写したあと、すぐにカントレルの、その像がどういう由来を持ち、どういう経緯でこのカントレル邸に所蔵されることになったか、についての説明の物語が延々と語られる。そしてすぐさま、次の発明品の場所に赴き、さっそくそれの「描写」が始まる。

基本的にルーセルの小説はこれだけでできている。そのほかには何もない。小説的にはほとんど考えられないような構成である。全体を統べる物語的な展開もない。視点人物は名前もなく、ただ見るためだけにそこにいるのであり、彼はあたかも展覧会の会場を訪れる客である。まさに、ルーセルの小説は展覧会である。

しかし、そこに設えられている数多の像、機械の数々は驚くべきイメージで作り上げられており、ただの展覧会では終わらない。気球によって宙に浮き、風向と天候を完全に把握して、特殊な力で引き寄せた「歯」を綺麗に並べてモザイク画を作りだす機械や、水中で呼吸できる液体で満たされた容器の中で踊る髪の長い女性、その女性の髪に固着した特殊な物質の効果により、髪と水とが摩擦を起こし、水中を舞う髪がエアリオンハープのような音を奏でる光景、一時的に死者を生き返らせ、生前最も記憶に残る場面を機械のように正確に再現させることができる薬、そしてそれを見守る遺族たちが、それをみて感涙にむせぶ様など、鮮やかな綺想に満ちあふれている。

「アフリカの印象」では、アフリカの架空の国ポニュケレ国で、タルー七世という皇帝の聖別式が行われ、そこで繰り広げられる大演芸大会の模様を、何の説明もなしに延々百五十ページ続く。チターを弾く大みみず、仔牛の肺臓製のレールを滑る奴隷の彫像、といった有名な細部が出てくる部分である。そのあと、ある人物の回想というかたちで、演芸大会が行われることになったいきさつや、その大会になぜ白人たちが混ざっているのか、ということの説明が、後半全部を費やしてなされる。

発明品や様々な特技を披露する人や動物、それらの「描写」が表だとすれば、裏には「説明」がある。荒唐無稽に思われたものの由来、来歴が語られ、もう一度描写に立ち返れば、そのイメージの全体像が浮かび上がる仕掛けである。この由来の物語もまた綺想に溢れた代物で、ただ物語を展開させ終結へと至らせることだけが目的のような、きわめて原始的な物語である。これは、「千夜一夜物語」を読んだときの印象にきわめて似ている。「千夜一夜物語」での、物語が二転三転し、登場人物たちはキャラクター以上のものではなく、ごく単純な貴種流離譚が繰り返されるという特徴は、多少違ったかたちでルーセルのものにも見られるものである。そもそも、冒頭に不思議な状況を提示して、そこに至るエピソードを次々に連ねていくという構成自体が両者に共通している。ふたつは一種の謎解きの物語になっている。

ロクス・ソルス」ではものの「描写」とその由来の「説明」が、全七章のそれぞれの章で行われるのだけれど、「アフリカの印象」では、全体のうち前半が「描写」後半が「説明」という構成になっている。はじめて読む場合、「アフリカの印象」では延々と描写だけがつづく前半部分につまずいてしまう可能性がある。そういう場合はルーセル自身、後半部分から読むことを勧めている。それでもいいのだけれど、章ごとにきちんと解決が付く「ロクス・ソルス」の方がまあ、読むには良いだろうと思う。(大きめだが)文庫版でハードカバーよりは安価。

●なぜこんな小説が書かれねばならないのか?

話を戻す。上に書いたとおり、ルーセルの小説では基本的に描写と説明が繰り返される。それだけである。ルーセルの小説が奇書と呼ばれる(本当は詩の方も凄いといわれるが)のは、小説として期待されるべき要素を何の迷いもなく切り捨てているからだ。ルーセルが志したのは、綺想と説明とをただきわめて簡潔かつ正確に描くことだけだった。

そして、それ以外に何の興味もないのだ。それが最も不可解で、綺想の「描写」と「説明」以外のものは書かれていない。読者は途方に暮れるに違いない。描写と説明によって、小説のなかの謎は綺麗に解決してしまって、そこにそれ以上のものは何もないのだ。

いきおい、読者であった私の興味は、ルーセルという人物に向かった。おそらく、他の読者もそうに違いない。ルーセルの奇書は、ルーセルという奇人の説明を抜きにしては語れない代物なのだ。