「壁の中」から

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バラードの砂の夢景色

前回書いた「熱帯」と重なるが、バラードが特権的に用いる題材の一つに倦怠のリゾートがあり、時間が止まってしまったかのような砂と太陽の土地を執拗に描くのが初期バラードの特徴でもある。そういった「バラード・ランド」的イメージと「病理社会の心理学」シリーズはあきらかに一線を画している。

オプティミスティックな“ドリームスケープ”である倦怠のリゾートと、テクノロジカル・ランドスケープ以降の高度セキュリティ化社会をフレームアップする「病理社会」シリーズでは、そもそもの成り立ちからして異なる。

その違いは、まるで夢から覚めたかのようだ。この変化は、将来、労働時間は減る一方となり、労働は遊びとしてしか存在しないだろうと予言したことの、バラードなりの自己批判なのかも知れない。


●「ヴァーミリオン・サンズ」の夢景色ドリームスケープ

で、人が仕事をほとんどせず、余暇の倦怠の空気が瀰漫した砂のリゾート「ヴァーミリオン・サンズ」を舞台にした短篇連作を、バラードはデビュー当初から十年ほどにわたって書き継いでいて、それがまとめられたのがこの「ヴァーミリオン・サンズ」。

収録作は創元文庫から出ている何冊かの短篇集(いまはすべて品切れ)に一作ずつ程度収録されている。が、創元文庫未収録作をふくめ、まとまった形で全篇読めるのはこれだけ。デビュー作「プリマ・ベラドンナ」を含んでおり、「バラード・ランド」と呼ばれ、彼が執拗にこだわるモチーフが鏤められた、私のような幻想的ヴィジョンに惹きつけられたバラードファンなら陶然としてしまうだろう作品集だ。収録作品は以下。

コーラルDの雲の彫刻師
プリマ・ベラドンナ(創元SF文庫「時間都市」収録)
スクリーン・ゲーム(同「溺れた巨人」収録)
歌う彫刻
希望の海、復讐の帆
ヴィーナスはほほえむ
風にさよならをいおう
スターズのスタジオ5号(同「時間都市」収録)
ステラヴィスタの千の夢(同「永遠へのパスポート」収録)

ヴァーミリオン・サンズ」とはその名の通り(直訳すれば「辰砂」または「朱い砂」)、太陽が照りつける灼熱の砂が一面に広がる、近未来の架空のリゾート地で、ここには芸術家、詩人、俳優女優といったハイソサエティなピープルが集まる特権的な富裕層のための場所だ。

近未来のリゾート地という設定の上で繰り出される、様々なアート系ガジェットが特に魅力的である。人の精神に感応して姿形を変貌させる“向心理性建築サイコトロピック・ハウス”であるとか、自ら震動しロマン派のクラシック曲を奏でる“音響彫刻”であるとか、歌を歌うように栽培、育成された“歌う草花コーラ・フローラ”であるとか、着ている人の感情に応じて模様や色を変化させる“活性織物バイオ・ファブリックス”であるとか、グライダーで空を飛び、空中の雲を人の顔などに整形する、“雲の彫刻師”といった奇抜かつ美麗にして割合レトロな雰囲気がたまらない。

一種の芸術家小説であるこれらの短篇群は、どれも似たようなプロットで悲劇的な物語が語られるところに大きな特徴がある。“予定破滅”と前に書いた特徴は、これらに顕著なものだ。ほぼすべての作品で、語り手はすべてが終わった時点から過去を回想して語る。その過去の悲劇的物語には一人の魅力的な女性が介在しており、その女性はつねに終末―終焉の雰囲気をまとって現れ、事態がその雰囲気通りにカタストロフを迎えると、女はまるで元からいなかったかのように舞台から消える。

さらにこの舞台自体が、〈大休止〉ザ・リセスと呼ばれる何らかの事件の“後”という設定を持たされている*1。そして、舞台の季節感はつねに夏であり、「不変の正午で停止し」た時間のよどみがたゆたっている。夏の終わりの予兆がつねにきざしているともいえる。

舞台設定、物語プロット、話法とこのシリーズは三重の終焉に彩られており、それがこの小説に無時間的な永続性を感じさせる元となっている。夢見られた楽園のリゾート、すでに終焉を迎えている以上決して終わることがない熱帯のリゾート。

作品単位では、歌う草花というロマンチックなガジェットが特に気に入っていた「プリマ・ベラドンナ」や、雲を彫刻するという破天荒なアイデアの「コーラルDの雲の彫刻師」、詩の書かれた紙テープが風に運ばれて辺り一面にたなびいているという印象的なシーンと、珍しくポジティブな結末を持つ「スターズのスタジオ五号」などが特に良い。SF的なオチの利いた短篇としては、「いまに、全世界が歌いだすときがくる」というフレーズで閉じられる「ヴィーナスがほほえむ」が模範的である。

まあ、だいたいこの作品集は私の好きなものが詰まっているものなので、どれも良いといえば良い。

飛べなくなったパイロットやら、砂漠が広がるリゾート地(車輪で砂漠を疾走するヨットがある!)というアイデアなど、バラード的なアイテムがノスタルジックな感傷を掻きたて、浅田彰が揶揄するところの「初期の作品を耽美的に楽しむだけのノスタルジックな読者」なんかにはたまらない短篇集であることはまちがいない*2。


このシリーズはバラード自身の夢想の産物というだけではなく、実際にもこうなるだろうという一種の予言的意味合いもあった。それは、労働時間がますます減少し、世界は余暇に満たされるだろうというようなオプティミスティックなものだ。これと「スーパー・カンヌ」とではまさに隔世の感がある。「ヴァーミリオン・サンズ」が一種の夢物語であり、「スーパー・カンヌ」が現代を書こうとしたものだという差を考えても、テクノロジーや経済のリアリティが全く違う。夢と現実との差のように違う。SF文庫の「ヴァーミリオン・サンズ」よりも、「スーパー・カンヌ」のほうがはるかにSF的にも見えるところが面白い。

Vermilion Sands - E -

Vermilion Sands - E -

イヴ・タンギーの装画版「Vermilion Sands」。タンギーの装画といえば、クラテール叢書版のステープルドン「スターメイカー」がある。まだ手をつけていない……


ルーセル、バラード、機械、音楽

で、ふと思いついて、「残虐行為展覧会」をめくっていたら、案の定のものを見つけた。断片化された文章が散乱しているこの小説には、各節に小タイトルが付されているのだけれど、そのなかに「アフリカの印象」と「ロクス・ソルス」があった。そのタイトルが付いた小節の内容は特にレーモン・ルーセルの小説には関係がないけれど、やはり、と思った。

シュルレアリスムとの関連で云々されることの多いルーセルだけれど、それがなくともバラードがルーセルを持ってくるのはある意味当然におもえる。「アフリカの印象」と「ヴァーミリオン・サンズ」には一読して明瞭に見て取ることができる共通性がある。熱帯、機械、音楽である。大まかな熱帯が舞台でないことをのぞけば、これは「ロクス・ソルス」にもあてはまる。

ヴァーミリオン・サンズ」がルーセルの影響下に書かれたかどうかはわからない。が、機械化された音楽演奏といったアイデアや、南、熱帯への執拗な関心という大きな軸においてこのふたりは重なる。小説としての書かれ方は全く違う(とはいえ、両作ともに一種のメロドラマではある)ものの、その素材の水準においては、ほとんど同じ泉から水を汲んできているかのようだ。

ただ、バラードのこの作品集は、彼自身のオプティミスティックな夢想であり、メロドラマであり、舞台設定はSFでも、きわめて普通の小説といっていいものなので、先鋭的なものを求めるバラード読者にはむしろ退行に見えるかも知れない。バラードといえば短篇が優れているとよく言われるが、その優れた短篇には「ヴァーミリオン・サンズ」シリーズは含まれていない気配がある。
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※1
〈大休止〉については「プリマ・ベラドンナ」に「全世界的に沈滞と倦怠とそして夏の盛りがつづき、われわれみんなが至福に満ちた忘れがたい十年間を過ごした」時代だという示唆的な記述があるぐらい(他にもあったかも知れない)。地球の自転が止まったのか、それとも異常気象かはわからない。余談だが、この〈大休止〉で私は飛浩隆「グラン・ヴァカンス」の“大途絶グランド・ダウン”を思い出した。bk1に書いた感想で散々バラードと引き比べていたうえに、これ以上バラードと飛氏をすり合せてもどうかと思うが、やはり共通するものを感じる。

※2
浅田彰「「歴史の終わり」を越えて」中公文庫