「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

レーモン・ルーセルの奇妙な物語

bk1の書評にはふたつの小説と書いてしまったが、ふたつの長篇の間違い。で、これから書くことには以上の書評に書いたことが直接関係してくるので、まずは引用。

ルーセルのある短篇では、冒頭と末尾の一文が、一文字だけ異なっている以外はほとんど同じ文章で綴られている。同音異義語を活用して、一つの単語が違うだけでまったく意味の異なる文章を二つ用意し、片方からはじまって、もう片方で終わる小説を作りだすのである。

そのあとに書かれた長篇では、その短篇で用いられた文章から単語を選び出し、その単語とまた他の単語とを組み合わせることで、小説の細部を作っていく。子細に述べると煩瑣になるのでやめておくが、単語と単語とを結び合わせ、普通には意味の通らないような文章を作りだし、その文章が意味の通るような物語を考え出すというのが、彼の長篇小説を支える手法(プロセデ)なのである。

短篇の具体的な例については前に書いたが、長篇についてはまたその用いられ方が異なる。短篇ではそれが表面に現れているのに対し、長篇では、いかなる手法プロセデが用いられたかはそこに、手法の存在が示唆されでもしないかぎりわからないように、隠されている

「萌芽のテクスト」の時期、ルーセルいわく「探鉱期間中」の幾つかの短篇に用いられたその手法が、長篇になると、素材の組成の段階で用いられるようになることは前にも書いた。それはつまり、手法の水準が、形式から内容に変化したのだといえる。短篇では、冒頭句と結句とを予め決定されているところから、綱渡りのようにして書き継いでいくことが求められる。長篇では形式そのものには作用しないが、そこで用いられるべき素材、内容が予め決定される。

ロクス・ソルス」での、まずはじめにその素材たる様々な発明品の提示・羅列があり、そのあとに謎解きたる物語(綱渡りの比喩を用いるなら、これが、二点間をつなぐ綱である)を用意する形式は、そこから必然的に要請されたのだろう。

彼の小説につきまとうメカニカルな印象はそれに因る。ルーセルは、用意した形式が要請する必然性において、創作を行う。ロクス・ソルスでの書評にも書いたが、そのとき、彼の書く物語は原始的な物語に限りなく近づいていく。「千夜一夜物語」との類似は、彼が好んでいたから、というのもあるだろうが、必要最小限の構成要素で物語を推進していくという点が、似た印象をもたらしている。さらに、冒頭に提示された謎が物語が進んでいくことで、パズルをはめ合わせるように明かされていくていく展開がそうだ。

千夜一夜物語」の長めの挿話では、登場人物たちが自分の身の上話を入れ替わり語っていくことで、物語の謎が解決していくという構成を取ることが多い。そもそも「千夜一夜物語」自体がシェーラザッドの語りによってできている。この語りの入れ子構造、一種の二重性・多重性はルーセルも特に好んだ方法だ。

第一段階で謎が提示され、その理由として某Aが語った話の中で、また某Bが、某Cから聞いた話を語り出す。そういうかたちで多段化された状態から、また多重の括弧を一気に閉じるように、第一段階に戻り、謎が解決する。これが「ロクス・ソルス」の構造であり、「千夜一夜物語」等の物語の話法でもある(「ドン・キホーテ」の特に前篇もこういう部分がある)。

そういった人工性、ご都合主義(?)を嫌って、自然に見えるようにするというような構成・演出を行わないところが、「原始的な物語」と呼んだことの理由である。そこには近代の小説が獲得した内省の深みなどはなく、ただ物語のための物語が語られる。(ルーセルが心理劇、思想劇を嫌っていたことは何人もが指摘している)

一つ一つの話を、できるだけ少ない言葉で書いてみようと思ったんだ。
レリス[1991]18P
しかし、このような物語を二十世紀に小説として書くことは、相当に不可解である。いま現在、ルーセルの小説を、手法の存在を知って読んだとしても不可解だ。物語が、物語以上のものであることを当然の前提として、近代以降の小説は書かれ、読まれている。それが人間の心理であれ、社会の構造であれ、何かそのようなものを剔抉したり、切り取ったりすることが期待されてきた。しかし、ルーセルの小説はそのような期待にまったく応えようとしない。

ルーセルの小説においては、物語は、ただ単に物語である。物語を語ることで書き手がこめた意図なり、問題意識なりを読みとることは相当に困難である。たぶん、そんなものはないのだろう。ルーセルは、物語を語りさえすればそれで良かったのだ、と思っていたと考えざるを得ない。手法によって組成された、仔牛の肺臓製のレールや、チターを弾くみみず、歯でモザイク画を作る機械、そんなアイテムが最もらしく説明され得る、簡潔で説得力ある物語が用意されれば良かったのだろう。

物語を語ることで醸成されるべき、主題なり問題意識なりを根本的に欠いた小説。ルーセルの不気味さはそこにある。物語を読む楽しみは味わえるが、その物語が結末に至ったとき、何もない透明さに愕然とする。話は綺麗に落ちが付いた、が、綺麗にオチが付いてそれ以外なにもないことが、不気味だ。謎が綺麗に解決されてしまうことで、提示された謎以外の、もっと大きな、それでいて見ることのできない謎が残されたような気になる。

ルーセルの詩にはポエジーがない、とロベール・ド・モンテスキューは指摘する。詩におけるポエジーの欠落、と同じように、小説においては物語以外がない、とも言いうるだろう。

物語から距離をとること―物語を批評しつつ書くこと―が、小説というジャンルの宿命だ、という言い方がある。「ドン・キホーテ」や「トリストラム・シャンディ」を思い出すとわかりやすいかと思う。私はこの説にかなり同意するのだが、ルーセルの諸作は、この見方に正面から逆行している。限りなく物語に近づこうとした小説が、ルーセルの小説だ。

これは、信じがたいことだと思う。近代以降の、自意識、自我を持つ人間がそんなものを書けるとは、普通思えない。書かれたものは、少なからず書き手の意志、意識を反映する。書き手の「私」性が現れる。しかしルーセルは、その「私」を徹底して小説から消そうとした。「私」を消して、物語のリアル、言葉だけでできたリアリティのみを追求した。彼の小説が不気味な迷宮の様相を呈してくるのは、そのためだろう。たぶん読者は小説に書き手の「私」を見出そうとする。しかし、ルーセルの小説には「私」がない。ないものを探そうとする試みは俄然、迷宮じみてくる。

私が何を問題にして、堂々巡りに言葉を費やしているかわかるだろうか。「私」や「物語」や「主題」「問題意識」などと、曖昧で多義的な言葉が読者に通じているかはなはだ心許ない。たぶんルーセルを読んだ人ならわかると思うのだが、読まない人にはわからないかも知れない。ご容赦頂きたい。このことについてこれ以上書くともっと迷宮じみてくると思うので、次にいきます。

で、次回「新アフリカの印象」を紹介します。多重括弧の入り乱れる独特の詩法が喧伝される「新アフリカの印象」ですが、具体的にどんなものなのかはほとんど紹介されていないので、多めに引用して書こうと思います。