「壁の中」から

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後藤明生「壁の中」

壁の中

壁の中

後藤明生が延々五年間文芸誌に連載し続けた1700枚の長篇小説。
二部構成で、第一部では大学講師の生活と、友人Mにむけた手紙(結局投函されていない)とが入れ替わりに書かれ、二部になるととつぜん(本当にとつぜん)、死んだ永井荷風が一部の語り手の前に現れ、ふたりだけの対話が二百ページ近く繰り広げられるという奇怪な構成。中野重治「甲乙丙丁」、小島信夫「別れる理由」と並び、誰にも読まれない大作、とは某教授の言。

とはいっても、とても面白い。後藤明生の代表作を三つ挙げろと言われれば、「挾み撃ち」と「壁の中」ははずせない、と私は思う。あとの一つは、「吉野大夫」か「蜂アカデミーへの報告」か「首塚の上のアドバルーン」あたりで迷う。一般的には谷崎賞をとった「吉野大夫」だろうか。

この小説、ほんとに変な作品で、読んでいると飲み屋で延々続けられる与太話を聞いている気分になる。繋がっているんだかいないんだか微妙なズレ具合で話題が飛んでいくし、こうでもないああでもない、でもこういうことなんじゃないのかな、という感じでどことなく曖昧に議論が進んでいってしまう。

後藤明生ファンにとっては、氏の与太話が紙幅の制限もなく自由気ままに展開されていくのを目の当たりにできる、とても幸福な作品なんじゃないか。

二回目読んでみてよくわかったのは、この作品を主導するモチーフが、自意識の問題だということ。
「壁の中」というタイトル自体、「私」という自意識を壁に見立てているのではないかと思う。

その「壁の中」、作中の言葉で言えば「贋地下室」の中にいるのが、語り手の「僕」または「わたし」である。彼はあるビルの九階にある病院の一部屋を間借りし、家具類や書棚を持ち込み、院長の翻訳の下訳なんかをしながら、大学の一コマ講師としても働き、家庭も持ち、さらに愛人までいる。家、大学、病院の一部屋、そして愛人のマンションを行ったり来るするのが、語り手の生活。

そのなかでも、自分が部屋を借りている病院の一部屋を「贋地下室」と呼んでいる。その理由を説明するために持ち出されるのが、ドストエフスキーゴーゴリの小説、特にドストエフスキー「地下生活者の手記」(作中引用される米川正夫訳による)である。

ゴーゴリの登場人物は皆、読者が誰もこうはなりたくないというような人物造形がなされている、と語り手は言う。八十ルーブリの外套のために爪に灯をともすような生活を送る「外套」の九等官や、鼻をなくし、鼻捜索の広告を新聞に出そうとしてある「有力な人物」に一喝され、気絶してしまう「鼻」の八等官たちには、確かに誰もなりたくはないだろう。そして、とつぜん転がり込んだ四千ルーブリの遺産とともに地下室に引きこもった地下室人は、彼の地上における姿なのだという。彼らのようにならない代わりに、地上の世界のリアリズムに唾を吐き、地下室にこもったのだ、と。「彼は、外套一枚のために死ぬ代わりに、自分の地下室に閉じこもったのである」と。

「つまり地下室の住人は、地下にとじこもった『外套』の主人公なのだ。そして彼は、自ら病人だという。キチガイだという。なまけ者だという。賢者だという。虫けらになりたくて仕方ないという。しかし虫けらにさえなれないという。そしてそれが恥辱だという。しかし恥辱こそは快感だという」(10頁)

ああはなりたくない、しかし、自分はああなれそうもない。羨ましくもあり、蔑みたくもある。むしろ、蔑んでいる当のモノにこそなりたいと思うがやはりなれない。

上の引用は、こういった自意識の行き所のない循環を端的に示している説明だと思う。ドストエフスキーの小説が青春小説として(または青年の時に一回ははまる青春期の文学として)読まれるのは、この自意識の問題を扱っているせいだろう。

または、自意識を抱えてしまったことで、逃れがたく生まれる「恥辱」がテーマだと言ってもいい。これは初期作品に特に顕著で私がドストエフスキーの初期作品が好きな理由でもある(実は後期の長篇群は二作しか読んでない)。

「貧しき人々」でも、主人公は文通相手の女性が他の男と結婚するのを見過ごすシーンや、作中ハイライトの将軍との対面シーンも恥辱の極みだし、「賭博者」ではキツイ女に惚れ込んで、何を言われても従ってしまうダメな男のダメっぷりが魅力だし、「白夜」では、いまでいうひきこもりの青年が街で出会った女に惚れてしまうのだけれど、その女が前の男と再会して主人公が結果的に振られてしまう様が痛々しくも笑えてしまう。

そのテーマの見やすい例は長篇二作目の「分身」(「二重人格」)で、これは自分がなりたくてもなれないような、出世志向の俗物の権化のような分身と主人公自身が出会ってしまうという、まさに上記引用を地でいく小説だ。

ゴーゴリの造形した人物はそのままに、その人間に内面を与えてみる。後藤流に言うなら、地下室に引きこもって地上世界に唾を吐く。そうして造形されたのがドストエフスキーの登場人物だという分析は、そのまま「ドストエフスキー詩学」でのバフチンの分析と重なる。

後藤流のバフチンの読みなのかも知れないが、ここで二人の分析を勝手に要約すると、ドストエフスキーの小説は「自意識を小説化する形式」を用いている、ということなのではないだろうか。