「壁の中」から

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宇野浩二の部屋の設計図

日本幻想文学集成 (27)

日本幻想文学集成 (27)

bk1「日本幻想文学集成27 宇野浩二 夢見る部屋」の書評を投稿した。で、今回は宇野浩二について思ったことを書く。結構内容被ってるけれど。


●「夢見る部屋」

「夢見る部屋」に収録されているものは、「清二郎 夢見る子」が伝記的観点からは面白いものの小説としては微妙だったくらいで、あとのものはだいたい面白い。最初の「屋根裏の法学士」では夢みがちな男のロマンとその墜落がユーモラスに描かれ、「夢みる部屋」ではアパートに個室を借りた男の、乱歩作品にも通じる独身者的な夢想家ぶりがあり、「人癲癇」では、引っ越したさきの近隣住民たちのおかしさから、偶然都市で隣り合うという都市小説的な雑踏への視線があり、「さ迷へる蝋燭」では他人の目から反射させることで自分の姿を喜劇的に映し出す手法が取られている。

とくに面白いのは表題作「夢見る部屋」。下記の「蔵の中」にも似た作品だけれど、万博、天窓のある部屋などといったモダンな道具立てや、山の写真、幻灯機などへのフェティッシュな嗜好などが前面に出て来ていて、夢想家の資質がより際立った作だ。つまりそれは一種の自閉的志向でもあるのだけれど、自然主義的な風土のなかでこういうのが出てくるのは面白い。また「蔵の中」ほど饒舌でなくて、比較的淡々と書かれている。

この小説で描かれているのは、語り手の小説家が、自分の夢の在処を確保しようとする試みだ。妻子もある中年の小説家という立場では、自分だけの秘密の場所を家に持つことは困難だ。だから、本当は別の女との逢い引きのために借りたはずの部屋が絶好の自分の場所だと気づくと、もう女のことは気にされなくなる。そこで幸福な夢見る部屋を確保する。

解説で堀切直人がいうように、この小説は夢見る場所のベースを設える試みなのだろう。自己の喜劇化の視点を把持しつつ、夢想の至福を手放さない。宇野浩二の小説にはしばしば、喜劇化の手法が凝らされていて、そのなかで自分のロマンをはぐくむ(というより愛好するものを抱え込む)という二重性が見受けられる。
「蔵の中」もまたそういう試みだ。

では、本書の編者である堀切氏の熱のこもった解説を引用してみる。

思うに、作者はここで一つのそれなりのベースを設定したといえるのではあるまいか。世間への埋没でも完全な出世間でもない中間的な空間、現実を取り入(ママ)みながら「ドリーマー」を少しずつユーモリストへと成熟させていくための実験的な場を曲がりなりにもつくり上げたのではないか。大正の三十がらみの「ドリーマー」は、いかにも軟弱に見えながら、その実、思いのほか堅固な土俵を築き上げた。そして、こういう土俵がすでに設えられていたからこそ、昭和初期の墜ちた「ドリーマー」たちは、『ゼーロン』の牧野信一にせよ、『弥勒』の稲垣足穂にせよ、『陰獣』の江戸川乱歩にせよ、『貧窮問答』の石川淳にせよ、『木枯の酒倉から』の坂口安吾にせよ、同時代の烈風吹きすさぶ荒寥とした廃墟的世界のなかで、空無に耐え得るような夢を紡ぎつづけることができたのではないか。また、彼らの作品にしきりと出てくる望楼や、下宿部屋や、密室や、酒倉などは、いずれも「夢見る部屋」の後身、あるいは昭和初期におけるそのヴァリエーションといえるのではあるまいか。
「日本幻想文学集成27 宇野浩二」307P
●「蔵の中」
蔵の中・子を貸し屋―他三篇 (岩波文庫)

蔵の中・子を貸し屋―他三篇 (岩波文庫)

岩波文庫で何年か前に復刊された旧字旧かな版の「蔵の中・子を貸し屋 他三篇」も続けて読んだ。「蔵の中」は中年の小説家が質に入れた着物を虫干ししたり、質屋の女にちょっかいをだしたりするというだけの話だけれど、独特の饒舌な語りの文体が魅力的な一篇。あまり裕福でもないのに男はすぐに着物を買って、買うそばから質屋に着物を入れてしまい、かといって質流れになるのもいやなので払っている毎月の金額はもう、相当なものになっているというおかしな状況がある。質屋からすればかなりの上得意ということになる男のためには、店の蔵に自分専用のタンスまで設えられている。

その着物を虫干ししようと思い立って、質屋に行くと、そこに嫁いだ先から戻ってきた主人の妹に遭遇する。その女性と微妙な関係になりかかったところに主人が帰ってきて、何もなかったようにもとに戻る、と要約出来るような、なんてことのない物語である。

質屋に行き、質屋の蔵の二階で布団を敷き、天井にぶらさげた服を一枚一枚眺めるうちに、それらの服を着ていた女性の思い出が語られていく。その語りはつねに何ごとかを語れば後退し、いちいち前提条件を確認しつつ、読者へのエクスキューズがたびたび差し挟まれる。たとえば、これは冒頭から二段落目までの引用である。(新字新かなに直した)

 そして私は質屋に行こうと思い立ちました。私が質屋に行こうというのは、質物を出しに行こうというのではありません。私には少しもそんな余裕の金はないのです。といって、質物を入れに行くのでもありません。私は今質に入れる一枚の著物も一つの品物も持たないのです。そればかりか、現に今私が身につけている著物まで質物になっているのです。それはどういう訳かというと、私はこの著物で既に質屋から幾らかの金を借りているのです。したがって、私は、外の私の質屋にはいっているもののために、六ヶ月に一度づつの利息を払っているほかに、現在身につけているこの著物のためにさえ、これは一月に一度づつ、自分の著物でありながら、損料賃として質屋の定めの利息の三倍を持って行かねばならぬ身の上なのです。
 そして私が質屋に行こうと思い立ったのは――話が前後して、たびたび枝路にはいるのを許していただきたい。どうぞ、私の取り止めのない話を、皆さんの頭で程よく調節して、聞きわけして下さい。たのみます。
岩波文庫「蔵の中・子を貸し屋 他三篇」7P
しかし、ただだらだら続いているわけではもちろんなくて、一種の戦略である。女好きで生活破産者のようなダメ男である語り手は、読者に対してへりくだっているように見せかけながら、したたかに道化を演じているという語り口である。

これはたとえば「屋根裏の法学士」あたりの喜劇的描写を語りの水準で実践したものと受け取れる。また、この小説は後藤明生が指摘するように、饒舌体と接続詞によって迷路の如く語りを進行させることで、語り手自身の四十年の人生を詰め込んでいる。着物を虫干ししている蔵の二階につめこまれた女性遍歴である(これを書いた時宇野浩二は二十八歳だった)。語り手は服への愛着によって半生を語る。

ここでは語り手のフェティシズムが前面に出ている。語り手が愛好するのは女そのものよりもむしろ着物の方にある。そのころイプセンの戯曲の「私は人形の着物を脱ぐのです」という台詞をスローガンのようにしていたはやりの女性運動を揶揄して、「私の考えでは、その人形の着物が値打ちなんです」、「女に裸になられてどこに取り得があるのでせう」なんて嘆いたりする。

これは「夢見る部屋」で「恋というものは世に『なきもの』をいうのである。気障な言い廻しをするようであるが、恋という字を私の字引で引くと、夢の別名としてあるのである」と語ったのと似たものがある。女性との恋は、思っているうちが華であって、近づいてしまった時が終わりの時だと言う。これは宇野の夢想の資質をよく示している記述だと思う。

さて、後藤明生宇野浩二論を含んだ、講談社現代新書「小説―いかに読み、いかに書くか」では、宇野の章で、「蔵の中」の執筆エピソードを重点的に扱っている。広津和郎から近松秋江が服をたくさん着るために、買った服をすぐ質屋に入れて、その金で服を買うと言うことを繰り返しているという話を聞かされ、三日で書き上げたのが、「蔵の中」であるという逸話である。これを後藤はゴーゴリプーシキンから話のネタをもらい、一気呵成に「検察官」を書いたという話と繋げ、そしてまたゴーゴリの入門書を書いた宇野の「蔵の中」はゴーゴリの「外套」を下敷きにしている、という話になる。この話はこれはこれで面白いのだけれど、今は措く。

これを読んでいて、私が面白かったのは以下の記述である。上記の箇所のような服への愛着を語った部分を引用した後に後藤はこう記す。

 このフェティシズムが、一種の幼児性につながるものであることは、だれの目にも明らかであろう。つまり彼の夢想性は、ロマンチックなものではない。また、センチメンタルなものでもなく、幼児性→フェティシズムの系統に属する、夢想性ではなかろうかと思う。
 そしてこの『蔵の中』は、そのような種類の夢想家とリアリスト、幼児性と老獪、抒情と諧謔、そういった互いに対立し、矛盾する二つの目によって描かれた二色刷りの世界だといえる。同時にそれは、作者の自意識そのものであるともいえるし、あらゆる現実、あらゆる人間関係を見る、作者の目だったともいえる。
 つまり、左の目は現実を見ながら、右の目は幻を見ている。そしてその左右の目は、互いに他を批評せずにはいられない。早い話が、右の目で質屋の出戻りヒステリー美人に憧れを抱きながら、左の目では早くも幻滅し、自らを戯画化せずにはいられないのである。
講談社現代新書「小説―いかに読み、いかに書くか」122123P
あまりにも後藤明生的すぎる評言ともいえるが、宇野の小説の感触をよく伝えていると思う。「屋根裏の法学士」や「夢見る部屋」「蔵の中」「さ迷へる蝋燭」などはそういう自己戯画化の視線が作品を支えている。また、フェティッシュな幼児性というのもその通りで、これなどは江戸川乱歩にも受け継がれている部分だ。乱歩は宇野の影響を大きく受けているようで、その作品にもいくつも宇野を示唆するものがある。

乱歩の「屋根裏の散歩者」は「屋根裏の法学士」のもじりだというし、分身ネタの「猟奇の果」には宇野の「二人の青木愛三郎」の影響があるという。文体も、乱歩は初期は宇野浩二ばりに読点の多い物だったのが、だんだんに減らしていったらしい。

しかし、そんな些事を数え上げずとも、「夢見る部屋」などを読めば乱歩との精神的近親性はすぐわかる。宇野浩二の夢を見る部屋の設計図は、乱歩のような作家に受け継がれている。フェティシズムの幼児性と夢想家の資質を小説として差し出す方途を、彼らはおそらくユーモアを基点にすることで獲得したのだろう


●「子を貸し屋」

併録されている「子を貸し屋」は宇野浩二の作でも最も読まれているもののようで、色んな選集に入っていることをあとがきで宇野自身がため息混じりに語っている。あまり出来が良くないと宇野は思っているらしいけれど、とてもいい作品だと思う。「蔵の中」的な独身者の夢想、という方向ではなく、死んだ友人の子をあずかることになった男が、金も稼げず苦慮しているところに、遊女の逢い引きのときに、警察に邪魔されないよう親子としてカモフラージュするために、その子供を貸すという商売をはじめることになってしまうという話。

やめようにもやめられず、子を遊女に貸すことで日々の糧を得ていることに男自身罪の意識にさいなまれるが、それいがいに稼ぐ手だてもなく、子は次第に悪知恵ばかりを身につけていく。そのやりきれない哀しみを書いている。架空のものだろうけれど説得力もある虚構の商売をめぐる中篇で、私の知る中で宇野のものとしてはもっとも小説らしい筋のある話。

岩波文庫のこの短篇集は他に上記の「屋根裏の法学士」や「一と踊」などの短篇も入っていて、宇野の作風を知るにはいいと思うのだけれど、品切れ。岩波文庫はこういうのをちゃんと出し続けてくれないと、と思う。