「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

文学とはひとつの健康の企てである

ちょうど二週間更新をサボっていたことになる。
他に忙しい用事ができたり、いろいろ遊び歩いていたせいで、最近あまりものを読んでいない。

そうはいっても、後藤明生の「疑問符で終る話」を読んだり、芳川泰久「書くことの戦場」をもう一度読み返したりしていた。
「書くことの戦場」は前回後藤明生のところだけを読んではいたのだけど、金井美恵子中上健次はろくに読んでいなかったので後半を後回しにしていた。今回全部通して読んでみて、やはりこの本は相当いい評論だと思う。
後藤の緻密な作品分析がやはり興味深い。「挾み撃ち」に行き着くまでの作品変遷をとてもうまく捉えている。ただ、私の関心とはちょっと路線が違っていて、そこで上手く納得できないものを感じるのも確か。

その点では、渡部直己後藤明生論の終盤部分の方が私には印象深い。たとえばこんなところ。

「(前略)『挾み撃ち』の作者においても、問題は、呆然と脱力することでも、何かに「うっとりと」みたされることでもなく、世界そのものを自前できびきびと(かつ、不断のもどかしさとして)作り出すことにかかっているからだ。(中略)フロイトの孫にあたる幼児が、たまたま手にしたすべてのものを「糸巻き」に替えることができたように、後藤明生その人にとって最大の偶然=受動たる「八月十五日」もそのじつまた、決定的一瞬に相応しい特権を失ってしまう。その日付が問題なのではなく、何かを受けとめる場所それじたいの不意の瓦解、瓦解それじたいの徹底的な【偶発性】がそこで生きられてあったからだ。
 この意味で、作家がしばしば、何処に住んでも地に足がつかず、何処にいてもそこにいる気がしないと口にするのは、きわめて正確な感触である。繰り返せばまさに、足をおろす「地」そのものを刻々と創出することだけが、そのつど問題となってしまうからだ。「今なら死ねそうだ」という不気味な呟きに浸される一編を右「聖王」にむけて収斂してみせる書き手(引用者註 古井由吉)は、ある場所で「死にながら生きる、生きながら死ぬという観念に、僕の場合『ようやく』という副詞が一つ加わるわけです。死ぬことによってようやく生きる。生きることによってようやく死ぬということを見る。この『ようやく』が一つ入ってくると小説になる」のだと語っている(『小説家の帰還』)。【そんな暇はない】、という確信が後藤明生の速度の粋をなし、生死のあわいとの審美的な戯れではなく、それが小説になろうがなるまいが、あくまでも作りたての世界そのものを待ったなしに更新することだけが、ここでの真の課題であり、この「生の試練」にむけ、あらゆる偶然は、生きて書きつつあることと、生き書かれる世界との、刻々の均衡を産出するための【等価な】糧として使用されねばならない。そのようにして、古井由吉の《焼夷弾》とは似ても似つかぬ他人の糞尿が上から落ちてくるような場所のみならず、諸事万端「とつぜんであることが最早当然」でしかありえないおのれの「運命」を肯定し、つまりは、そのすべてを【愛する】こと」
渡部直己かくも繊細なる横暴』108〜109頁 傍点を【】に変えています
後藤明生にとって小説という営みがなぜかとても快活に見えてしまうという異様さに注目したのは、この「後藤明生による〈健康〉の企て」と題された渡部直己の論くらいなのではないか。後藤明生は初期短篇か挾み撃ちばかりが取り上げられ、後期作品、たとえば「壁の中」や「蜂アカデミーへの報告」「首塚の上のアドバルーン」などの諸作はいまだきちんと論じられていない気がする。私の興味はいまは後期作品に向かっているのだけど、そこでの関心は、いわば後藤明生の健康さにある。

ついでに、渡部直己の上記評論のタイトルの元ネタはたぶんこれ。

「人はみずからの神経症を手だてにものを書くわけではない。神経症や精神病というのは、生の移行ではなく、プロセスが遮断され、妨げられ、塞がれてしまったときに人が陥る状態である。病いとはプロセスではなく、プロセスの停止なのだ――たとえば「症例ニーチェ」におけるように。それゆえ、そのような存在としての作家は病人なのではなく、むしろ医者、自分自身と世界にとっての医者である。世界とはさまざまな症候の総体であり、その症候をもたらす病いが人間と混合される。文学とは、そうなってくると、ひとつの健康の企てであると映る」
ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』15頁
批評と臨床

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