「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

泥沼式のアミダクジ式

ここ何日か気分次第でいろいろ読んではいるのだけれど、書こうとすると面倒くさくなってしまうのがいつものくせで、書こうとすることが溜まっていくうちに、それがうっとうしくなってやめてしまうことが多い。
たとえば、「八月/愚者の時間」を読んでいると、途中で謡曲「綾鼓」が出て来る。謡曲というやつを読むのは厳しそうだな、と思っていると、なにやら三島由紀夫が「近代能楽集」のなかで「綾の鼓」というのを書いていると出て来る。作者は三島が謡曲「綾鼓」をどう変形させたのか知りたいと思う、と書いている。となると読者である私も気になってくる。

その本は文庫なので買って読んでみる。二十ページくらいの短い戯曲形式のもので、読みやすい。が、さほど面白くもないと思う。戯曲それ自体で楽しもうと思っても詮ないことだろうか。というか、元を知らないので変形も何もあったもんじゃない。まあ、それでも気を向けてその本の最後にある「弱法師」(よろぼし、と読むらしい。ATOKでは変換できない)というのを読む。これは少し面白いと思う。盲目の達観したことばかり言う少年が、実父と養父とに挾まれてふたりをあざ笑っているという構図で、最後がなかなかに皮肉っぽい。

ここでちょっと戻って、朝倉連作の中で、「綾鼓」が出て来るとき、話の流れのなかで上田秋成の「雨月物語」が出て来た。作者は特に「吉備津の釜」というのに注目しているのだけれど、何故かと言えば「綾鼓」が女に裏切られた男の復讐譚(女性が出てこない以外は展開がゴーゴリ「外套」にすごく似ている)であるのに対し、「吉備津の釜」は夫に裏切られた女の復讐譚であるというところに作者が興味を覚えたという。

手元にある三つの「雨月物語」に目を通してみる。ひとつは後藤明生訳の小学館文庫「雨月物語」で、石川淳による語り直しであるちくま文庫「新釈雨月物語 新釈春雨物語」と、専門家による現代語訳と原文と鑑賞の三つのやり方で雨月物語が読めるちくま学芸文庫雨月物語」(高田衛・稲田篤信校注)の三つである。読んでみると、学者のものはなるほど模範的な訳であり、後藤明生のものは文体の簡潔さが際立っていて、初読者にも註なしで読めるような工夫があり、最も読みやすい。石川淳のものは、当然あの勢いと格調の同居した文章で語りなおしていて気持ちよく読める。石川のものは訳ではなく再話というに近く、構成も異なり、元はない場面を付け加えたりしていて、語りものというよりは小説に近づける工夫がされていると感じた。

吉備津の釜」の恐ろしいラストに感じ入っていると、そういえば、と日影丈吉を思い出した。彼の短篇にもそういえば「吉備津の釜」という傑作があったな、と思い出した。で、再読しようかと書棚から引っ張り出すが、まだ読んでいない。

また戻るが、三島の「弱法師」を読んだあと、そういえば、と思い出す。後藤明生の生前最後の小説単行本「しんとく問答」で、大阪の地理と絡めながら、説経節「信徳丸」と謡曲「弱法師」それに折口信夫身毒丸」という、同じような話をそれぞれに変形した三つのテクストを読んでいくという小説である。こうなってくると、もう泥沼で、「しんとく問答」を読み返そうとか、折口も読まねば、とか、説経節なんて読めないぞ、とかいろいろなことが脳裏を過ぎる。

そんな折、ネットで小島信夫の「漱石を読む 日本文学の未来」が3500円の格安価格(?)で売られているのを見て、急いで買ったやつが届く。これには後藤明生について触れた箇所があり前にも読んだのだけれど、全体を読んだことはない。漱石「明暗」の再読から始まり、秋声やスターンとか水村美苗「続明暗」とか、後藤明生とかについていろいろ書いていく変な本で、確か海燕に延々連載していたと思う。同じ目次に蓮實重彦の「小説から遠く離れて」というこれまた重要なポイントで後藤明生に触れた連載があったのを見た。

漱石を読む」を読んでいると「明暗」を読み返したくなるし、秋声はまだ一作も読んでいないなと思ったり、最初から適当に読んでいるのを中断して、つい後藤明生にふれた箇所を先に読んでしまったりする。ここでの後藤明生を書く書き方には、何か独特の距離感があって、スリリングだ。わざわざ太字で「私は一生に一度だけ、彼の解説を行い」とか書かれていて、すごくどきっとする。わざわざ太字で、である。何があるんだと勘ぐってしまいたくなる。

それなのに、読み返すまでは後藤明生について触れた箇所のことを忘れていた。注文した時は、小島信夫の重要な著作、という見方で買っていて、一年以上前に後藤明生について触れていたから読んだときのことは忘れていた。今日後藤明生の部分をパラパラめくっていて、小島信夫が言う後藤明生評には、かなり重要なことが書かれているのを再発見した。

小島信夫の後藤評には何かしら根源的、というか、普遍的なものがある。喜劇、ということとか、「私」ということとかについてだ。そこは詳しく読んでいる暇はないから、ここではとりあえず、「漱石を読む」で太字で書かれている後藤評をひとつ引用する。

「こんな小説を書くことに積極的に意義を見出している人物がざらに存在するだろうか」P241
小島信夫後藤明生の関係というのは、一度ちゃんと考えないとたぶんダメな問題で、同時代的な緊張関係があるはずだ。小島信夫の小説の書き方に、後藤明生がインスパイアされている気配がある。小島信夫はまだ少ししか読んでいないので全貌がつかめないのだけれど、「恥辱としての自意識」のようなものが前面に出ている初期短篇とか、作風にも通じるものがあると私は思っている。他にも、脱線してしまう語りとか饒舌さとか、いろいろあるとは思うけれど、まだ全然だ。

そういえば後藤明生の「汝の隣人」には小島信夫の短篇が出てくる。そして小島信夫の「暮坂」の冒頭をさっき読んでいたのだけれど、追分でのパーティの席で中村真一郎後藤明生が出て来るのを読んで驚いた。がっちり実名で出て来る。そしてしきりに後藤明生がUという作家を嫌っていることを書いている。小島信夫後藤明生らが追分に別荘を持つ仲間(後藤明生に家を譲ったのは平岡篤頼だったと思う)であるというのは知っていたが、「暮坂」がそれを扱った作品集とは知らなかった。

しかし、こんな読み方を続けているとまさに泥沼なので、ちょっと落ち着いて後藤明生を読み直すのに戻ろうと思う。