「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

レーモン・ルーセルの奇妙な迷宮

二月五日の記事に対して中村びわさんからコメントがあり、以下に書こうとしていることにかかわるものなので、まずはそこから話を始めることにする。

●伝達の欲望

そもそも前記の記事では私は「物語を語ることで醸成されるべき、主題なり問題意識なりを根本的に欠いた小説」ルーセルの小説を評して、さらに「書かれたものは、少なからず書き手の意志、意識を反映する。書き手の「私」性が現れる。しかしルーセルは、その「私」を徹底して小説から消そうとした」、と結論みたいなものをつけ加えた。

それに対してびわさんは

「物語」というのは、事の顛末を説明すること(多くの場合は起承転結のようなメリハリをつけて)とこの場では解釈します。「語る」行為を「主体」が選ぶという決断、「どのように語るか」という選択もまた、人に何かを伝えたいという主体の欲望の上に成り立つと思います。この伝達への欲望からルーセルは限りなくフリーなのだろうかという疑問でした。物語から「私」を消し得ても、語る行為からは「私」を消せない――これをルーセルはどう取っているのか。
と疑問を提示された。

私の返答は以下。

ルーセルの伝えたいことという点は、ある意味ルーセルを読む際の核心です。彼は一体何を書こうとした/書いたのか。びわさんの言葉を借りるなら、ルーセルは「私」を消すために、「どのように語るか」(手法)を選択したと言えそうです。つまり、語る行為をどこまでも機械化していくことで私を消そうという試みです。さらに、言語から言語を生み出す手法を用いることで、現実と言語構築物とのあいだの接触を断とうとする。ただ、そう単純に割り切れるわけではないと思います(現実を嫌悪し、言葉のみから成る世界を作り上げた夢想家というような)。

そもそも、彼に何か伝達の欲望があったかどうか。彼にとり表現とは何だったのか。単に、栄光の感覚を反復したかっただけなのか。では、栄光の感覚以前の詩作(「わが魂」Mon Ameというのがある)やピアノ修業はなんだったのか。またはヴェルヌのように売れること、より多くの人に賞賛されることが目的だったのか。物真似への執着や、規則マニアという彼の資質は、彼の表現行為の本質を規定するか、どうか。

このエントリでルーセルの小説と「千夜一夜物語」を類比したのは、「千夜一夜物語」が個人による署名がないこと、つまり特定の主体を持たないという点を指摘したかったからです。説話集という性格を持つ「千夜一夜物語」には、様々な場所で様々に語られ(なかには、職業的な物語作者が書いたものもあるようです)、口承文芸のように、その場で客を楽しませるということのために語られていた話、というイメージがあります(じっさい口承文芸だったかどうか知らないのですが)。主体の欲望を起点にするのではなく、楽しませるために語る。そんな無名の物語。物語のための物語、というのはそういう意味あいもあります。

ルーセルに対して、現代の「千夜一夜物語」だという評はフランスでもなされているようで、特に目新しい観点ではないですが、ルーセルが「千夜一夜物語」を好んでいたらしいことは知られています。子供向けの妖精劇などに日参していたことも有名です。その種の、単純な物語への執拗な愛好は、主体の欲望の滲んだ表現への忌避なのかも知れないと思うわけです。

ルーセルは語る行為をどう捉えていたか。もしくは、書いた作品が読まれることはどうか。上に書いたことをまとめるなら、彼は「私」を消した機械的な作品によって、自らの作品が大勢の人間に賞賛されることを望んでいた、と言う風になります。歪みまくっています。ルーセルの奇妙さはこういうところにもあります。

ひとつ、たぶん彼は、語ることで主体たろうとしたのでもなく、主体の確保のために書いたのでもないだろうと思います。ルーセルは、作品の外において「私」を確保しようとしたのかもしれない。

まとまりがないコメントだけれど、ここで書いた疑問というのはルーセルを読む時につねについてまわる独特の感触である。ルーセルの小説は、普通小説が書かれるのとは異なった書かれ方をしているように思える。形式の絶対的な先行、という側面があるように思える。

彼には一般に「書きたいこと」というようなことがあったのかどうか。たとえば、彼の特徴の一つである「奇想」―長篇でのさまざまな発明品や奇術を弄する人や動物などの「奇想」は、もとより彼の頭のなかにあり、小説でそれを再現しようとしたものなのか、それとも言葉と言葉の組み合わせによってできあがったものをかたちにする過程で単にできあがったものにすぎないのか。ヴェルヌやロティを好み、妖精劇や子供向けの演劇に日参したという事実からは、彼の嗜好がかなりロマンティックであることはわかるのだけれど、そういったロマンティシズムを描くために彼は書いたのか。ある形式のはめこまれたものとして、挿話や描写がロマンティックであることはルーセルの作品にはよくあることだ。彼の書く挿話はある種古典的な物語であり、ロマンティックな結末を持つことも少なくない。しかし、それがどこか小説を支える道具じみて見えることもある。

堂々巡りになってしまうので、ここで話題を変える。上記のことを考えるには、たぶんルーセルの作品外のことからアプローチするのがいいと思うからだ。ちなみに以下の文章はびわさんからコメントをもらう前に書いていた部分である。

ルーセルの用意した起爆剤

ルーセルの作品では、徹底して書き手の「私」性は排除される。物語の舞台には自分の知らない土地が選ばれ、そこに書き手の体験が直接書きこまれることはない。自分の体験した現実を作品に用いることを忌避する。ただし、詩においてはその基準が適用されていないことは、詩を扱った記事でも書いたが、ここではとりあえず小説について書く。

私が排除されている、といったが、それはやはり隠されている、と言った方が妥当かも知れない。彼が終生好んだ暗号―隠されていはいるものの、発見されるべき秘密―への嗜好は、彼の文学すべてに、そのモチーフの水準においても、作品外の水準においても反復されるからだ。

岡谷公二氏の「レーモン・ルーセルの謎」では、彼の死後に明かされたもうひとつの大事件、膨大な遺稿の発見の顛末が報告されている。1989年、「パリの国立図書館は、トランクルームの老舗であるブデル商会から、九つの引っ越し用ボール箱につめこまれた膨大な遺稿を、遺品の寄贈を受けた」。預けられてから五十六年ものあいだ倉庫に眠っていたこれらの遺稿類には、「セーヌ」と題された「全集で四〇〇ページを越える、四幕仕立ての長篇の韻文劇」や、仮に「結婚」と題されて刊行され、「全集のうちの二巻を占め、一千ページ、二万行に及ぶ」、「『薔薇物語』を別にすると、フランス文学最長の韻文小説」が発見された。(岡谷[1998])

岡谷氏はその遺稿類の中から、「ロクス・ソルス」の未定稿が発見されたことに触れる。「アフリカの印象」では、シェイクスピアの手による「ロミオとジュリエット」の異なるエンディングを持つ原稿を、アディノルファという女優が発見する挿話がある。新発見の遺稿のなかには、そのアディノルファが、「ロミオとジュリエット」の異稿を発見した場所の奥から、また違う原稿を発見する挿話が見つかった。岡谷氏は、この隠されることと発見されることの執拗な反復、作品内と作品外とを問わないありさまにめまいを感じると書いている。

「アディノルファの新たな発見」と題されたその未定稿は、岡谷氏によって訳されて「レーモン・ルーセルの謎」に収録されている。あらすじは、心がどこにあるのかという問題をつねに探究してきた男が、オーストラリアのある部族では左の二番目の肋骨に心の中枢があると信じているということを知る。部族の人々は、人が死ぬとその肋骨をくりぬき、片方を東に、片方を上に向けて、墓標代わりに原野に立てられた杭にくくりつけていた。男がその場に赴き、そこで風が吹くと、それらの肋骨は一斉に音を立てた。男がある肋骨に耳を近づけると、明らかに複数の母音を発し、言葉を聞き分けることが出来た。死者の声を聞くことができたのだ。
そして、男はそれを最もセンセーショナルなやり方で発表しようと、シェイクスピアの肋骨に目をつける。というところで草稿は終わっている。余談だが、この草稿での草原で肋骨たちが唸りをあげるシーンは、まったく素晴らしいと思う。

これが「ロクス・ソルス」に使われなかった理由はわかる。「ロクス・ソルス」では、魂は存在しない。死者の再生は、薬によって生前の行動を機械的に再現するのみであり、魂の復活であるとか、死者の蘇生などはできない、というのが「ロクス・ソルス」の作品世界だった。SF的だといわれる所以はそこにある。あくまでも科学的、機械論的だった。アディノルファの草稿は魂の問題を扱っている。それが「ロクス・ソルス」にそぐわない、そうルーセルは判断したのだと思う。つまり、ルーセルはそういう審美的基準を持っていたということになる。彼の表現が症候ではあり得ない所以である。

話は戻る。
未発表の膨大な遺稿群についてルーセルは、生前誰にも漏らしたことがなかった。だからこそ、遺稿の発見はフランス文学界にセンセーションを巻き起こしたのだろう。ルーセルは「私はいかにしてある種の本を書いたか」で時限爆弾をしかけた。自身の作品に隠された謎があることを示したのだ。それによってルーセルの作品は迷宮の様相を呈することにもなったが、膨大な遺稿の発見は、彼の遺した時限爆弾がそれひとつではなかったことを明らかにした。生きている間に完璧な隠蔽工作を成功させておきながら、死後にその謎を少しずつ解明させていくという、まことに不気味な存在。生前の栄誉がダメなら、死後の開花に期待する、と遺書に書いたルーセルだが、その開花とはこのことなのだろうか。ルーセルにとっての栄誉とはいかなるものか、想像を絶するものがある。

そして「アディノルファの新たな発見」という「ロクス・ソルス」未定稿のなかで、岡谷氏も引用する印象的な一節がある。

以来私の頭には、私の発見の、完全で、異論の余地のない、壮大な発表の機会、たちどころに世界を仰天させるであろう機会をひそかに準備するという目的しかなかった。私は、前以て予告するようなことは一切差し控えた。そんなことをすれば、多数の研究者が、私の発見の応用をめぐる、私と同じ仕事にすぐさま従事するだろうことは確かだったからだ。ところで、こうした不埒者の一人がその上ちょっとした幸運にめぐまれて、私よりさきに解決を見出すことはありうることだった。そうなれば、発見者の名誉は、私からうばい去られることになる。
岡谷[1998]264P
この部分にはジュール・ヴェルヌのこんな一節を連想させられた。
「秘密は絶対に守ることだ、いいかね。学者の世界にはわしをねたんでいる者がたくさんおる。秘密を知ったら皆がこの探検に乗り出すことだろう。だがあいつらが気づくの、わしらが帰ってきてからというわけだ。」
ヴェルヌ[1997]60P
●暗号の迷宮

ルーセルの作品には学者が良くでてくる。「ロクス・ソルス」にも、自分の秘密―自分が義理の娘を殺し、犯してしまったこと(この順序は逆ではない)―を抱え込むという苦しみにさいなまれ、生前最大の栄光ある業績のなかに自分の最大の恥辱の告白を隠したフランソワ=ジュール・コルティエなる学者が存在する。フーコールーセルの提示する機械や発明品はルーセル自身の手法と同一視しうる、と書いていたが、コルティエも、ルーセル自身のネガのように読める。生前不遇だったが、死後栄光に浴する、というルーセルの希望のネガである。やはりここでも暗号だ。

ルーセルが最大の賛辞を捧げたヴェルヌの作品の一つ「地底旅行」は、偉大なる先人の残した暗号を解読することで栄光にたどり着く物語だった。作中ではアルネ・サクヌッセンムという人物が地底深く地球の中心への旅をしたらしく、主人公とその伯父の学者リーデンブロック教授とはサクヌッセンムの道行きを辿るようにして、地底への旅を敢行する。上記の引用文は、この旅行についてリーデンブロック教授が甥である語り手に忠告した部分だ。ここでも、栄光が問題になっている。

上記の二つの引用文を思い起こした時、はたと思いついたことがある。それはルーセルは文学者であるよりも、学者であるのではないかということだ。これならいろいろなことに説明がつくような気がした。
「私はいかにしてある種の本を書いたか」で行われているのは、小説の種明かしでもあるが、同時に自分の業績の研究発表にも近いのではないか。いつまで経っても自分の業績を顕彰する人間が現れないので、仕方なく自分自身で公表しただけでなんではないか。

彼にとって栄光に浴する価値があったのは、作品そのものというよりも作品を組織する手法の存在で、この手法をリーデンブロック教授の地底旅行のような、空前の大発見だと思っていたのではないだろうか。手法によって作品を書くことを、科学者が新しい法則を発見したような、新発明だと考えていたのではないか。

ルーセルは、作品の外において「私」を確保しようとしたのかもしれない」と上に書いたことの意味は、そういうことだ。彼にとっては小説そのものが自己実現だったのではなく、それを作り出した手法にこそ自己を賭けていたのではないかとも言える。これは文学者の思考ではないと思う。彼の文学を読む時に感じる圧倒的な違和感はここから来ているのかも知れない。

最後にひとつ。途中で「私が排除されている、といったが、それはやはり隠されている」と書いた。上に挙げたコルティエがルーセルのネガに見えるというのもそうだけれど、ルーセル作品を読んでいると、様々な細部がルーセル自身に重なって見えてくることがとても多い。直接ルーセルのことを書いてはいないけれど、しかし(またはそれゆえに)、そこに確かにルーセルの影が見え隠れする。カントレルがルーセル自身にも見えてくることもあるし、フーコーの作中の機械がルーセルの手法に同一視しうるという指摘もある。隠されているということは、発見されることを予期してのことに違いない。しかし、この暗号が十全に解き明かされることもまたないだろう。
地底旅行」のリーデンブロック教授たちは、暗号を残したアルネ・サクヌッセンムの辿った道行きを踏破しきることはできず、地球の中心まで行くことはできなかった。


岡谷[1998] 岡谷公二「レーモン・ルーセルの謎」国書刊行会
ヴェルヌ[1997] ジュール・ヴェルヌ著・朝比奈弘治訳「地底旅行岩波文庫