「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

後藤明生「壁の中」つづき

●「贋地下室」

昨日のを読み返してみるといってることがバラバラで意味不明っぽい。纏めなおしてみる。

ドストエフスキー「地下生活者の手記」という作品は、ゴーゴリ「外套」の九等官が、六千ルーブリ(十年間暮らせる金)を得たことで現実世界のリアリズムから逃れるために発明した、地下室というアイデアから出発しているということ。軽蔑され、虫けらのように扱われる存在から、地下室に潜ることで彼らを逆に笑うことができるようになる。ただし、それは「汚辱にまみれた自意識」とともにである。しかも、地下室の住人は、その現実世界に唾を吐くために、六千ルーブリの金と地下室を必要としたのである。

しかし、いまはすでに誰もがみな現実世界にいながらにして現実世界を笑うことができる。「地下室」はすでに一般化した。六千ルーブリも地下室もいらない。つまり、これは「外套」の主人公が九等官のままで九等官の自分を笑うことができる。それが現代だと語り手は言うのである。

語り手が手紙を書き、本を読むあるビルの九階にある一部屋はここで「贋地下室」と呼ばれている。この時代、地下室の知識が一般のモノとなった時代における「地下室」、つまりそれが「空中に飛び出した地下の延長」つまり「贋地下室」。それがこの小説の前提となる設定ということらしい。

だから「地下室」の住人のように大金を持って引きこもれるわけではなく、語り手は大学講師としてふつうに働きに出るし、愛人の家にも行くし、家庭にも帰るわけだ。それが「贋地下室」の住人のあり方なのだ。


しかし、こうまとめてみても「壁の中」の序盤を単に要約しただけで、「贋地下室」がいったい何なのかがいまだによくわからない。現代版「地下生活者の手記」といえばそれまでだが、ではそれはどういうことなのか。「地下室」が一般化した時代においてドストエフスキーのパロディをやるとはどういうことか。


●自意識と恥辱

自意識なるモノが珍しくもなくなった時代と言うことだろうか。たぶんそれは分裂の消滅と言うことかも知れない。ドストエフスキーが青春として消費されることは、「自意識の分裂」なんて大人になればたいしたことのない問題だということになる。
その分裂をなかったことにしてしまうという趨勢に対して、ここで後藤明生はつねに批判の目を光らせている。知識人であるところの大学講師、その職業に就いている語り手の男は、明らかに自意識という「壁の中」にいる存在である。地下室の住人が、内省の繰り返しによって分裂していたように、意識の分裂を抱え込んだ人間である。で、昨日の最後に戻る。

つまり、意識の分裂という事態を小説として書くために要請されたのがドストエフスキー、「地下生活者の手記」なのではないか。しかし語り手は地下室の住人ではない。地下室の住人の言葉を読む「贋地下室」の住人なのである。

これは二つの小説、「地下生活者の手記」と「壁の中」の差異にかかわる。「地下生活者の手記」では、主人公の男はある恥辱の経験に遭ったことが、地下へ潜る契機になってたと思うのだけれど、「壁の中」では、そういった契機、「贋地下室」に潜らねばならない理由は薄い。逆に、「贋地下室」の住人は、ゴーゴリ「外套」、「鼻」カフカ「判決」ドストエフスキー「地下生活者の手記」などなど、恥辱、屈辱の経験を描いた作品を特に多く引用しているように見える。これは文学作品に限らず、ギリシャ神話でも、醜男とされたヘパイストス、聖書からは陰部を見られたノアなど、どれも屈辱の経験にかかわっていないだろうか。思い返せば語り手自身も、「ゼンキョートー」の連中のダンスにある屈辱的なショックを受ける体験を語っている。

恥辱と自意識。「壁の中」からそういったモチーフを読みとることができるのではないか、と言いたかっただけなのだが、無闇に長くなってしまった。今ちょうど脱線の極みという感じでギリシャ神話からオイディプス王の話にまたずれたところを読んでいたから、それが面白いという話をしたかったのに。

まあたぶん、この恥辱と自意識というのは、ロシア文学と日本近代文学とがともに、外国文学との関係の中で形成されたこととかかわってくるような気もするけれど、第二部を読んでからまた考えよう。

(恥辱、外国文学、日本近代文学というと、漱石がイギリス留学中のエピソードが思い浮かぶ。イギリスでは外を歩く人が皆大柄の人間であるのに、向こうから来る男は自分みたいに小男だ。しかしよく見ると、それは鏡に映った自分の姿だったという。しかしこの話、有名だけど典拠は何なんだろう)