「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

「迷宮礼賛 ボルヘス没後二十周年記念 アルゼンチン文化の夕べ」

主催::ボルヘス会

文学フリマでThornさんに誘われたボルヘス会主催のボルヘスイベントに行ってきました(七日前に)。Thornさんのレポートがすでに書かれているので、そちらも参照。まあ、熱心な読者とはいえない私めがそんな立派なボルヘスイベントに参加するなんて畏れ多くて、なんて(これは嫌味ではなく、知人に熱心なボルヘスファンがいて、そいつは行けないと断ったのもあって)思ったけれども、せっかくのお誘いだし、こういうイベントに行くのも機会だなということで。

山手線で高田馬場へ出て、そこから早稲田駅へと電車を乗り継いで到着。Thornさんと待ち合わせて大学構内へ。初めて入る。近くの交差点にある妙な神社は穴八幡宮というらしい。流鏑馬の像が交差点に面している。まあ、そういうのはどうでもいいとして、早稲田の学食で勝手にラーメンを食べ、彼の友人を迎えに行っていたThornさんと再度合流し会場へ移動。始まるのを待つ。

今回のイベントでは、メインのシンポジウムの前後に「アルゼンチン文化」としてフォルクローレやタンゴの演奏、歌、ダンスが披露されるという非常に豪華な趣向が凝らされている。ラテンアメリカ文学を読む人なら周知のボルヘス会会長、野谷文昭が司会をつとめ、そして始まったアコースティックギター一本弾き語りのフォルクローレ演奏がすばらしい。哀愁のあるメロディを中心にしたものから始まり、ラストは聴衆に足踏みを求めて、非常にノリの良い楽しい曲を歌い、演奏し、盛り上がったところでエンド。個人的には一番気に入った音楽がこれ。ミュージシャンはアリエル・アッセルボーンという人で、曲がCMにも使われたことがあるらしく、日本でアルバムが出ているらしいのだけれど、amazonでもHMVでも見つからない。http://www.arielasselborn.com/ コンサート会場とかでしか買えない代物のよう。まあ、いいや。

その次は日本で唯一の学生タンゴ演奏サークルというオルケスタ・デ・タンゴ・ワセダによる演奏。小型のアコーディオンみたいな楽器、バンドネオンが奇妙な音を出しているのが面白い。音にアナログシンセサイザーみたいな独特の歪みがある。アコーディオンとは違って、鍵盤が両側についていてそれぞれで押したり引いたりしながら演奏しなければならないようで、なかなか難しそうな楽器だ。途中でプロっぽい歌手による迫力のある歌が、スペイン語、日本語を取り混ぜて歌われていく。元がスペイン語であるだけに、日本語で歌うとさすがにメロディに合わない感じが強い。

その後、バンドネオンの演奏と詩の朗読。ボルヘスの詩をほとんど読んでないので、知らないものばかり。Thornさんも書いているように、マチズモの男たちやブエノスアイレスの街を書いたものが選ばれていた。

シンポジウムでは、当日出席するはずだった詩人高橋睦郎が発熱のため欠席し、かわりにボルヘス会のなんか重要な役職(たしか会長が野谷文昭)の内田兆史という人が参加し、結局、野谷文昭内田兆史芥川賞を取った「おどるでく」や、笙野読者には平成新難解派と呼ばれた作家の一人としてご存知の方もいるだろう室井光広、シンポジウム参加者中唯一のボルヘス会非会員で音楽評論家の小沼純一ボルヘス・コレクションの装画が印象的な星野美智子の計五人。プラス、シンポジウム開催の挨拶を、いくつもの本からの引用を交えた十分以上の本格的な演説で終えたアルゼンチン大使ダニエル・ポスキ。

シンポジウムの内容は、Thornさんも書いているように、そのうちレポートが「すばる」あたりに載るんじゃないかと思います。去年は確かそうだった。手持ちのmp3プレイヤーの録音機能で録ってみたら案外聞けるものになったので、それを参考にしながら以下書くけれど、レポートが出るだろうことを考えてわりと適当に書いているので、きちっと発言通りに要約しているわけではありません。

とりあえず高橋睦郎のレジュメを野谷氏が朗読し基調講演とする、という形になったけれど、ボルヘス作品を「トレーン〜」などの言葉に基づくものと「ブロディ〜」などの事実に基づくものとに分ける、という区分をし、前者を言葉によって構成された世界のリアリティを追求する作品と規定し、それがさて、日本にもあったかどうか、という議論を始めるのだけれど、「ウタマクラ」についての議論をした「ショウテツ」っていったい誰だ、というところからがまずもってわからず。ごめんなさい、近代以前はわかりません。

次に、内田兆史による発表は、ボルヘスのアルゼンチン性と普遍性についての考察。あるエッセイを軸に、アルゼンチンを書くことがアルゼンチン性を表現することではない、コーランにはらくだは出てこないではないか、とボルヘスの議論を紹介する。で、西洋の影響を強く受けているアルゼンチン文化は、西洋の伝統に対して、西洋人以上に要求する権利を有している、と。そして、アルゼンチンに生まれたことは宿命であるが仮面でもある、アルゼンチン人が伝承すべきは世界(ウニベルソ? 英語で言うとuniversity?)なのだ、というボルヘスの発言を紹介する。

ちょっと要約しきれないけど、普遍性と固有性が逆転する逆説が楽しい。で、この後に内田氏は、ボルヘスにとっての書くこととは何か、と問い、それはとりもなおさずまず古典などを読むこと、読み直すことだとし、芸術は鏡である、というボルヘスの発言はそういった読むことを通じた新たな解釈を意味しているのだという風に閉じる。結論はまあ王道な感じもするけれど、書くこととは読むことなのだという後半の内田氏の議論が、私にはもうほとんど後藤明生について言っているように聞こえてきて面白い。後藤明生ボルヘス論はあったかな。「汚辱の世界史」について何か書いていたような覚えがあるともないとも……。

室井光広はまとまった発表をするのではなく、コメディリリーフ的に雑談、体験談をたくさん話していた。作家になって履歴を求められたときに、冗談でバベルの図書館勤務としたらそれが通ってしまい、一時期それで通したことがあるというエピソードがわりと受けていた。それからボルヘス論(室井氏は「零の力」というボルヘス論で群像新人賞を受賞しデビュー)を書こうとして、気に入っていた図書館勤務をやめたいきさつなどを語っていた。また、外国語はできないけれど、原語をとりあえず読んでみるということで、もっとも敬愛する小説「ドン・キホーテ」の原書を、発音だけ覚えて毎朝経を読むように音読していた、という驚くべきエピソードを披露した。しかも二十年続けているという。わりと何かが見えた気分になるらしい。すごい話だ。

小沼純一は音楽の面から、タンゴとその前身にあたるミロンガという音楽の話や、ボルヘスにとっての音楽を論じていた。ボルヘスは音楽がわからない、としばしば言われており、事実、彼はほとんど音楽を聴かなかったらしい。しかし、そうではなく、彼にとっての音楽は彼のイデア論好きとからめて考えてみるとまた違った風に見えて来るではないか、と述べて、結構面白いことを言っていた。ちょっと要約できないが、一番熱弁をふるっていたのはこの人。

星野美智子は、論というよりは、自身の抽象的世界を表現するためにボルヘスの絵が非常にインスピレーションを与えてくれた、という話や、ブエノスアイレスにいった時の話などをしていた。階上で行われていた星野美智子リトグラフ展が、時間の都合で見られなかったのが残念。

各人の発表はこれで終了し、パネラー同士の質問などがあった後、またもやコンサートへ移行。シンポジウムで野谷氏は司会に徹して何も喋らなかったのが残念。

ラストのコンサートはかなり豪華なものだった。タンゴ・ワセダの演奏に、本場アルゼンチンの歌手が登場し迫力ある歌を披露。マイクが割れてしまうほどの声がすごい。歌がひとしきり終わるとBGMが流れ出し、(これもアルゼンチンの人か?)ホセ&ラウラというコンビがタンゴを踊る。情熱的なボディに布の面積が少ない情熱的な衣装で、アダルトな踊りを終えると、次は確かセバスティアンとチヅコ(日本人?)という二人が踊る(セバスティアンとラウラのコンビも途中にあったようだ)。チヅコはラウラに比べるとスリムな体つきで、踊りも対照的に飛んだり跳ねたりといった空中での大技を続けざまに披露し、スピードとテクニックを見せつけたエキサイティングなものだった。

(どういう感じで推移したか記憶が曖昧だけれど)その後タンゴ・ワセダの面々による演奏が全面に出て、確かダンサーや歌手も舞台に出てフィナーレに向かって盛り上がっていく。タンゴという音楽にはあまり興味が持てなくて、それほど好きではなかったけれど、このフィナーレに向かっていくときのピアノが、途中からほとんどパーカッションのように鍵盤を叩く叩く。鍵盤の真ん中あたりで弾いている最中、右手だけをぐいと右にのばして高い音のアクセントを入れるところとかが非常に印象的で、最後に向かって激しい演奏を繰り広げるピアノをずっと見ていた。盛り上がりが最高潮になったところで、一気に終了。私には最初のギターと、最後のピアノがとてもよかった。でも、ピアノが激しすぎたのか、マイクで拾った音が割れていた。そこは残念。

いや、ほんと豪華な催しでした。こんなんが無料で良いのかと思う。タンゴ・ワセダが学生サークルだとしても(だからといってタダではないだろう)、相当人数の出演者(しかも結構実績があるっぽい)が入れ替わり出てきて、金かかってんなーと思うことしきり。

終わって、会場にいつのまにか来ていたluceさんと合流。アルゼンチンワインがただで飲めるとレセプション会場に移動中、Thornさんの友人一名が帰還。まあ、その後のことはThornさんのブログにコメントしたので、そっちで。会場には星野智幸も来ていた。「ソヴェート文学」を持ってきていたThornさんの友人レオン・レオンさんはシンポジウム前にはユリイカボルヘス特集も持ってきていた。準備が良い人だ。

私もその日、イベントが始まる前にボルヘスを少しだけ読んでいた。自選短篇集「ボルヘスとわたし」から「二人の王様と二つの迷宮」と「タデオ・イシドロ・クルスの生涯」を拾い読み。「イシドロ」はならず者を書いたもので、最後の電撃的な展開までのじわじわと緊張感を増していく筆致がすばらしい。相手の中に自分を見いだす、というのは他作品にもでてくるモチーフ。印象的な部分を引用「およそ人生は、それがいかに長くまたいかに複雑であろうとも、本質的には「ほんの一瞬間」――人が決定的に自分の正体を見抜いてしまう瞬間――に凝縮されている」。「二つの迷宮」は、二つの迷宮の対照の鮮やかさを日本語で見開き一ページに凝縮したショートショート

シンポジウムでは小説について個別に討議されたりはしなかったけれど、私が思うボルヘスのおもしろさは、よく言われる哲学的意匠やメタフィクションといった、「現代文学」的な要素だけではなく、それが完成度の高い短篇だという点にもある。物語自体は非常に刈り込まれ単純でも、効果的に配された衒学的脱線と、語り口のうまさからくる凝縮度、密度は抜群じゃないか。

私が上で挙げたのはボルヘス的といわれる作品とは少し違うけれど、たとえば「円環の廃墟」にしたところで、幻想的な短篇として完璧じゃないかと。形而上的な意味ではなく、起承転結の仕組みとして「夢」の使い方が。そういう風に読んでも全然楽しめるのがボルヘスだと思う。もちろん、星野美智子がそうであるように、幻想的意匠のイメージを喚起する力の強さも特筆すべき点だと思う。ボルヘスがなければ山尾悠子の「遠近法」(これしか読んでません)もまたたぶんなかったわけで。

あまのじゃくのようだけれど、家に帰って高橋睦郎曰く「事実に基づく虚構」系の「結末」「じゃま者」を読んでみた。ボルヘスファンの友人は、ならず者、ガウチョものの作品を、マカロニウェスタンみたいで最高じゃないか、と言っていて、確かにかっこいい話だ。しかし、「じゃま者」なんか、ほとんどホモソーシャルの絵解きみたいな作品(教科書で採用したら良いんじゃないかってくらい過不足なくホモソーシャルなんだよこの話)で、どうかとも思うけれど、ボルヘスのは全然楽しめる。

というか、家に帰ってから気づいたのだけれど、私はボルヘスの小説集ならほぼ全部読んでいる。「ボルヘスとわたし」に詩集から採録されている短篇風の詩のものは未読だけれど、「伝奇集」「砂の本(「汚辱の世界史」収録の文庫版)」「不死の人」「ブロディーの報告書」「ブストス・ドメックのクロニクル」「ドン・イシドロ・パロディ 六つの難事件」と、一読程度なら全部読んだことがあった。

まあ、それはいいとして、ボルヘスの本の中で良く読むのは「ボルヘス怪奇譚集」だったりする。様々な書物から採録された一ページから数ページ程度の掌篇怪奇譚を楽しめるので、ちょっと開いてちょっと読むにはちょうど良い。ちょうど原典を持っている奴と読み比べてみたりすると、冗長な部分の削除や、短篇としてまとまりとオチのわかりやすいように結構手を加えてたりしているのがわかって面白い。こういう、いろんなところから‘うまいお話’を見つける目を持っていると言うことが、やはり重要なポイントなんだろう。思いつきでいうと、たとえば、良く比較されるレムとの最大の違いは、この‘お話’に対する態度の違いなんではないか。