「壁の中」から

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際限のない反復――古井由吉「辻」

辻

待望の新刊とはいえ、発売日の27に棚に並んだ直後のを買ったりした自分はどうかと思った。読んでみるとまたいつもの通りの生・死・狂・性の主題がこれでもかと連ねられていて、代わり映えもしない代物をわざわざ発売日に買ったことが滑稽にも思われてくるけれども、さらに読んでいくとその代わり映えもしないことそのものを作品の核に据えるというしたたかさが見えてきて、結局最後にはすごいな、と感嘆して読み終えることになる。

しかし、古井由吉は密度というか作品が纏っている空気感が濃すぎて、読むのに普通の小説の倍くらいは優にかかってしまう。カギ括弧をいっさい使わず、ほとんどの会話が間接話法で地の文に溶け込んでいることもそうだが、文章そのものの緊張感が安易な読み飛ばしを許さない。そう思って注意深く読んでいるつもりでも、どこかで意味のとれない文章に出くわして、いくらか戻って読み返してもやっぱりわからないままで残すしかない部分が多々あって、やっぱり今回も読み切れなかった、と圧倒されたような気分になる。

前作「野川」は連作形式の長篇だったが、今作は直接のつながりのない十二篇によって構成された短篇集といった体裁だ。もちろんそこは古井由吉、読んでいけばそれぞれの短篇が絶妙な形でつながりあう連作の形式を生かしたものになっている。しかし、その連作形式の使い方が異様だ。「野川」はそれぞれの短篇が連続して一続きの長篇を形作るものだったし、「夜明けの家」や「聖耳」あたりはある種のテーマ的なつながりはあったもののそれぞれ別の話を語って、連作としてのまとまりを持っていた(と思う。それ以前のはちょっと覚えていない)。

対して「辻」では、最初と二つ目の二篇を読んだところでは、登場人物にちょっとしたつながりがあるように見え、主要登場人物を違えながらリンクしていく話なのか、と思ったのだが、三作目で全然別の話になる。しかし、また先を読んでいくと、どこか奇妙な既視感にさらされる。新しく読み始めたばかりの短篇に出てくる男が、女が、父が、母が、最前読み終えたばかりの別の短篇とほとんど同じ人物に見えてくるばかりか、ほとんど同じ話のようにも見えてくる。

さすがに半分も読めばこの作品の連作の形式のひとつの特徴に気づくことになる。この本所収の短篇は、半分ほどは似たような人物配置とエピソードを持っている。何年も前に親を亡くした老境にさしかかる主人公、養子養親関係、二児の子、死の直前にわずかな狂いを見せる男たち。死の直前に狂う男というモチーフはほとんどの短篇で繰り返され、うち二つの短篇では、その奇行の詳細までもがそっくりに反復される。同じエピソードとしては、タクシーに乗っているうち、自分が住んでもいないところに自分の指示で来てしまう、という道間違いのもので、これは二回、さらに電車で乗り過ごすという類似のエピソードも他の短篇で現れる。

この小説集の主要なモチーフは、老齢にさしかかった男に訪れるわずかな気の狂い、だ。それが何度も何度も繰り返し語られる。まあ、そもそも古井由吉は最初から中年や高年の狂気ばかり書いてきたような気もするが、特に今作で繰り返されるのは、年齢や境遇的に古井由吉本人を思わせないでもない人物の親や友人の狂気だったり、男女のつきあいの内にふと現れる狂いの様相だったりする。

老年とは死へ向かっての緩慢な物狂いではないか。
203P
これらの狂いの描写はもう古井由吉の得意とするところで、薄氷の上を歩く、どころか薄氷を踏み割りながら歩いていることに気づかないことに気づかされるというような不安の感覚をもたらすところはさすがだ。

なまじ知っていることが、知ることを妨げる、ということはあるんだな、と山本がまた言った。そうなんだ、それで明白な間違いにも気がつかずにいる、と吉沢は返事していた。ほんとうは知っているので、いつまでも悟らない、と山本は受けた。
69P
人が恐れることは、じつはとうに起こってしまっている、とまた声がした。怯えてのがれようとしながら、現に起こってしまって取り返しもつかぬ事を、後から追い駆けている、知らずにか、それとも知っていればこそか、ほんとうのところはわからない、誰にもわからない、と聞こえた。
169P
形式の話に戻ると、この本を読んでいると、いくつもの反復を見いだすことができると思う。先に書いたエピソードの重複もそうだし、いくつかの短篇で相互に共通の素材をあえて使っているような部分が多々ある。ひとつの短篇だけを採ってみても、ほとんどの作品ではふたつの時間的に隔たりのあるエピソードを挟み込んで、その重なりを描いてみせることが多い。その微妙な重なりが、上記引用にあるような、「知っているので、悟らない」ことに気づかされるという効果を生んでいる。

ただその反復はさらに作品全体にも及んでいく。ひとつのテーマを語るために、手を変え品を買え語るというのでもなく、同工異曲なのでもなく、まるである話を一端解体して組み立て直し、つぎにもう一度それを微妙にずらしつつ組み立て直しているかのように思える。それを無限に反復していくような途方もなさがある。そのときはもう、作中での固有名詞が消え去って、全部が普通名詞としての「男」をめぐる話のようになっている。これはもうきわめて古井由吉的としか言いようのない方法だ。

ここまで来ると、自分が誰だか、どこの何者だか、はっきりしなくなることが時折、覚めている間にもあるな、と何年か前に当時八十に掛かった人が、同じ坂でも六十に取りついたばかりの折谷に笑って話した。初めの兆候は、これはもう十年ほども前からぼちぼち始まったことだが、自分の覚えていることが、ほんとうに自分の話だか、人から聞いた人の話だか、怪しくなる、いや、その前に、自分のであれ人のであれ体験が話になってしまう、話は自他相通ずる、相通じたその分だけ、自分は自分でなくなる、という。
201
まるで作者による自註で、みんな引用したがるんじゃないかという箇所だが、会話文や回想、聞き語りのエピソードの古井的使用法を語っているように思える部分だ。

話が通じた分だけ、自分は自分でなくなる、とはしかしどういうことか。体験の固有性を語っているように思えるが、それが書き付けられているこの本はすべて体験が話として語られている小説だ。しかも繰り返し似たような話を繰り返すという奇妙な連作形式によって書かれている。つまり、自分をどんどん、次々とすり減らしていくということだろうか。繰り返し、無限にすり減っていく語り手?

新潮3月号で古井由吉蓮實重彦が対談している。以下で冒頭部分を読むことができる。
◆◆特別対談◆◆ 終わらない世界へ 古井由吉+蓮實重彦

私はまだ新潮を読んでないのでこの冒頭部分だけについて。蓮實は「この人枯れてない」と感じたと言うが、私の感覚としては古井由吉は書き始めたときから枯れていたように思う。蓮實のいう「枯れる」の意味はたぶん私の考えていることと違っているだろうから単にこれは私の感じ方の話になるが、古井由吉は「枯れた」ところから書いているような印象がある。枯れているから、これ以上枯れることができない、そういう無闇な粘り強さみたいなものを感じる。代わり映えのしないともいえるような話を繰り返し書きながら、その代わり映えのしなものををあえて選んで書いている。「辻」に感じたものもそういう「枯れた」感触で、この本などは「枯れている」ということを「枯れている」ところから書いているようなものではないのか。

狂いや不安を書き続けてやむことのない古井由吉に感じるのは、終わっているからもうこれ以上終わりようがないという、きりのないような凄味だ。


ついでに、「辻」のなかで印象的だった場面を引用する。

軒の下に女が男に抱かれたばかりの肌に浴衣をまとって立っている。東に背いた路地の奥になり、路地の表をまれに横切る早出の人の目も届かぬ暗がりに、立ち上がる明けの光をどこかの壁が受けてわずかに送ってくるらしく、鉢の花ほどにほんのりと浮かんだ顔の、髪に混じる白毛が薄赤く染まった。女は立ち静まって人の来るのを待っている。いましがた自分を抱いた男が遠い所から、記憶を取り戻して、路地に入ってくるのを、待っている。長年の徒労に堪えた。徒労が肌のにおいを熟させる。その熟しきったところで、男が現われて女の顔をすぐに見分ける、と信じている。
199P
リズムのある文のつなぎと、印象的な描写、幻想に踏み込んだような緊迫感がある。古井由吉の小説のなかには、意味がとれなかったり、いつのことだかわからなかったり、現実のことなのか夢のことなのかわからないような記述が時折挾まれるが、そういうときの文章はおおむね素晴らしい。


しかし、古井由吉の小説の舞台はいったいいつの時代に設定されているのだろう。どの時代を書いても、誰を書いても昭和の三十、四十年代あたりの、テレビや映画のなかでしか見たことのないような時代を書いているように見える。出てくる人物たち、特に女性の古めかしい感覚はなんなのか。特に今作で気がついたのは、女性は常に名前(宗子、弓子)で呼ばれるが、男は常に名字(山本、吉沢)で呼ばれるという徹底した区分だ。最後の篇「始まり」だけは男、女とだけ呼ばれていたが、それ以外はすべてその呼び方は踏襲されている。

追記
新潮社のウェブサイトに藤沢周による書評が載っているのを見つけた。
言葉が霊となる 古井由吉『辻』

たえず成仏し損なっている生者が、十全に此岸をこれ以上ないほど熟知し、もはや知ることの対象を喪失した時は、迷う以外にないのだろう。迷いながら細糸の切れぬように、生き遺る肉体を彼岸の方へ手繰り寄せているのである。
参考
私がbk1に投稿した「野川」評
および補足。