「壁の中」から

むかしblogtribeにあったやつのアーカイブ

生きることが肯定される条件・2――立岩真也「ALS 不動の身体と息する機械」

●生に誰が価値を付けるのか

患者の死への傾きを促す要素として、QOLがもちいられることもあるという。詳しくは立岩氏のこの文章を読んでほしい。「大切で危ないQOL」(上掲ブログ経由)。勝手にまとめると、医療から提供されるサービスに対して、患者の側からその質を評価し、向上させていくという側面。もうひとつは、患者の生を価値付け、生きられるべき生と死ぬべき生とを選別する基準としての側面。

例えば医療なら医療の一種のクオリティ、医療が与えた結果としての生活の質を測ることはどういうことなのかを考えてみましょう。医療はサービス産業であるかどうかわかりませんが、少なくともサービス業であることは確かですから、お客様にそのサービスが満足していただけているかどうかということは、本来であれば大切なことですね。そのサービスを提供する側にいる人が、お客様の満足度を知ることによってサービスの向上に役立てていく。それを何らかのかたちで知りたいので、それを測ろうとする。これもまた当然のことであり、それが割合最近になって関心を向けられ、なされることになったこと自体不思議なことであると言わなければいけないわけです。
例えば、昨年、私は『私的所有論』(勁草書房)という本を書いたのですが、その注の中でアメリカでのある事例を挙げている(pp.207208・第5章注6)。それは、その国ではわりあい権威のあるお医者さんというか学者が、QOLの基準を設定し、実際に適用した話です。(中略)
 そのことによって何をしたかというと、二分脊椎で生まれてくる赤ちゃんをその尺度ではかると順番がつくわけですが、その順番を適当なところで切って、ある一定の数値を超えた者に対しては治療を続行し、それ以下については積極的な治療を行わなかった。その結果、二分脊椎自体は致死的な病気ではないけれども、治療というかケアを行わなければ亡くなる場合があるということで、結局そうやって選択された一方のグループは生き残り、一方は死んでしまいました。そういう論文があり、それがある本──ナチス・ドイツの障害者「安楽死」計画について書かれた本です──の中で批判的に言及されていることを、生命を巡る「線引き」の問題を論じた章の中で紹介したのです。
ALSにはこうある。上記の女性が呼吸器を付けないこととも関連している。

(引用者註・ある報告が女性が呼吸器を付けないことの)「その理由」に「経済的損失」をさらりと挙げた後、女性の方が「QOL」の高い生を送ることができないこと、QOLに関わる「インフォームド・コンセント」をしっかり行なうと在宅人工呼吸法を選択しなくなることを記し、それを「成果」として報告している。そしてこの場合には、その「成果」として、女性の方が早くに亡くなることになった。
 この報告に限らず、しばしば「QOL」や「インフォームド・コンセント」はこのように用いられる。そして、どうやら、そのことにさしたる疑問も感じられていないようなのだ。つまり、QOLの低い生よりも死が選ばれることは当然のこととされる。少なくとも選ばれた限りにおいて支持される。そしてQOLが低いという現状、あるいは将来の見込みは、その人について現実的に可能と想われる範囲に固定される。少なくとも固定されても仕方がないとされる。そしてQOLが高いとか低いという判断はしばしば観察者によって先取りされているように思われ、同時に他方では、その人自らの人生の価値のなさについての判断をそのまま追認してしまうのである。
138P 括弧を略した
QOLが医療の側から用いられてしまうということは、自己の生の価値を他人の尺度によって測られてしまう事態だ。尊厳死安楽死にまつわる言説では、みじめな生より尊厳ある死を、というような価値観が見受けられるが、それはこの事態を指しているのだろう。生きていてもしょうがない人には死んでもらう、そういうことではないのか。そのような勝手な価値付けが行なわれてしまうことを徹底して拒否すること、それが生の無条件の肯定、ということなのだろうか。それでも生きた方がよい、というこの本の帯にある言葉はそれを示しているのだと思う。

そもそも、上で引用した二種のQOLは言葉は同じでも違う事態を指しているもののように思われる。患者の側から発されるQOLというのは、今ある状態から、できればよりよい状態への移行を願っているのであって、行なわれているサービスの不足を問うもののはずだ。一種の改善要求だといえる。これに対して医療の側からのQOLというのは、今ある患者の状態を静的なものとして捉えた上で、患者の生の価値を測定する行為だ。この両者はまるで方向が逆だ。そして、患者の側からのQOLはよりよい生の希求に対して、医療の側からのQOLは、生か死かという線引きの意味合いを含んでくる。この両者は絶対的に区分けされなければならないだろう。(小泉義之氏の飢える自由? 窒息する自由?では尊厳死法について、医者が患者の死ぬ権利を握るという奇怪さがあると指摘している)

もちろん、たぶんこう簡単に対立図式として整理できるわけではないと思う。患者の側が医療の側からのQOLの価値付けを内面化してしまう事態はあるだろう。しかし、それが死とトレードオフな関係に組み立てられてはならないんだと思う。誰かがwebで書いていたけれど、みじめな生があるとしたら、それの代替物は尊厳ある死ではなく尊厳ある生のはずだ、という意見はきわめて正しいと思う。

それでも生きた方がよい、と無根拠にでもとりあえずは言うべきだ、という立岩氏の意見には強く賛同したいと思う。

●介護の側

しかし、と留保を付けざるを得ない。これは第三者だから言えることに過ぎない。たとえば私がALSになったとしてそういえるか、ということではなく、私が介護する家族の側になったとしてもそう言えるのか、ということだ。確率的には自分がALSになりよりは、介護をする家族の側になる方が高いだろう。

上掲、ajisunさんの「What’s ALS for me ?」より以下の記事。

MONEYの話 より

立岩氏の書かれたことに賛同してくれる仲間は増えたことは嬉しい。本当に。ただ、それは立岩氏に賛同しているのであって、ALSの現実に対しては、いったいどうなんだろうか。実際その人たちの親兄弟、配偶者がALSを発症したとしたらどうだろう。そのとたん、それとこれとは別の話だということになるだろうか。いったい賛同してくれる人の何人が自分の全てを投げ打って家族に人工呼吸器をつけ、24時間の介護を引き受けるだろうか。働かなくても食べていける人で体力も根性もなければできない。自分の人生の予定をすべて捨て去る覚悟も必要なのだ。立岩氏は無責任でいいから、とにかく社会はGOサインを出すべきだといい、私もそれはそうだと思う。心から強く望むのだけど、社会はそうあるべきだろうと言う人も自分のこととなれば別問題にすり替えてしまう。これでは結果は同じことで、当事者になったとたん、やはりALSは長生きしないほうがいい、ということになるのだから、ALSの現実は何も変わらないのではないだろうか・・・。
私がもし介護家族の側になったとしたら、それでも生きた方がよい、と言えるか、と問われればかなり言えないのではないか。というか、私ならたぶん言えない。言えないと思う。現実になったときにどうなるかはやっぱりわからないとしても。すべての負担を引き受ける覚悟で、生きろ、と言えるような勇気が私にあるとは思えない。だから、最初の方で家族にのみALSであることを知らされたとき、家族が本人への告知を拒否した、という事例の家族の人を非難したりする気にはなれない。本人に生きるという選択をされねないという危惧がそこにはあっただろう。ただ、本人に事態を隠したままで死なせていくというやり方には疑問がつく。せめて本当のことをいったらどうだ、という気はする。殺すつもりなら殺すといえ、と。

だから、介護を制度的な形で保障して、家族に集中的な負担が掛かることを避けようと言う方針には一も二もなく賛成したい。アトラスが何人もいるわけはないのだから、そこは再配分によって解決できることはしたらいいと思う。それでみんなの生活にわずかなマイナスがあるとして、それがどうだというのだ。

ajisunさんはまた上の引用の前の日に、こうも書いている。

ALS支援のエッセンスより

ALSの場合、選択肢はなく在宅で家族が看れなければ死ぬしかない。家族だけが生きる手段になっている。選択を家族の側に残しておくことで医療は逃げてしまっている。在宅の医療化は進んでいるが、専門職は介護をしないから家族の介護負担はますます増え介護する家族の責任もまた増える。そんな家族を支える為には所得を保障するだけでいい。お金ですべてが解決する。
ほんとうにお金で解決するなら、解決すればいいと思う。もちろん、そんなことですむ話ではないからむずかしいのだろうけれど、とりあえずは再配分によって生きられる環境を作ることがやはり重要なのでないかと思う。

人間性……

395頁引用番号【525】から抜粋。

これは余談ですが、呼吸器をつけないと言っていた人が、呼吸困難になったとき、奥さんの要請で呼吸器をつけた。/もちろん、患者は怒って毎日のように奥さんをなじったが、ある時奥さんが用事だかで患者のそばを離れている時間が長かったら、患者が「おまえは、俺を殺す気か?」と怒ったそうだ。
まるで何かのギャグ漫画みたいな話だけれど、もっともな話だと思う。こういうものなんだと思う。

立岩氏は最終的にこう書く。立岩氏の基本的なスタンスは以下のようなものだ。

「まずは生きられるという条件を社会は提供し保障すべきである」という立場をとることができる。誰もが臆面もなく生きることもできる社会を無色の中立の社会と言うこともできようが、それもまた特定の社会である。そしてそれ以外のあらゆる社会も特定の社会である。その特定の社会を支持するかそれともしないかである。その意味で中立的であることはない。いずれかの社会をとるとし、基本的には生存を支持することが社会の基本的な立場であるべきだと考えるとしよう。その上で、その人の選択を受け入れるということがあるということだ。基本的には生存が支持されるという条件があって、選択の自由はその上でのことだと私は考える。
 そこでこの条件を存在させることがまずすべきことであり、それが存在しない状態を放置してその人に決定に委ねればよいとは言えない。その条件が存在していなければ存在させる義務があるのだし、それを怠っているのであればそのことについて責任があり、そのことを伝える義務があり、具体的に条件を存在させる義務がある。
 そして多くの人は生きていたいと思っている。ならば、生きられる条件があれば生きることになる。
369370P

●死に荷担すること

ajisunさんという方は立岩氏の弟子にあたる人のようで、ALSの介護にかかわっていろいろなことを書かれている。非常に重要かつ面白いものなので、立岩氏の本を読んだ、もしくは読もうという人は是非目を通してほしい。ALSに関係する記事としては以下のようなものをとりあえずは読んだ。

治療停止ではなく治療制限でも死ぬ
死にたいと言うことと呼吸器を外すこととは別
救命ボートの喩え話

それぞれ重要なことだ。また、再配分ということに関して非常に気になる記事がこれ。

国民のコンセンサス

私は患者や当事者だけではなく、うちのヘルパーさんたち60余名の「生存」がかかっているこの制度改悪で、せめてこれ以上安上がりにわたしたちを働かせないで欲しいと直訴した。だが、その官僚は「国民のコンセンサス」がないから、こうなってしまっているんだとかいってため息をつく。
そして、私とか私の先生の言っているとおりに世の中なったらどうなるの?と逆に聞かれた。この社会保障費では足りないのは目に見えているでしょと。「立岩さんはもっとも大事なところでまったく間違っているのだ」そうだ。
いかにも官僚的なやりとりに見えるけれど、ここにあるのは介護の質を低下させる制度改革に国民が同意している、つまり、患者が死に追いやられるような制度は国民の総意によるものなのだ、ということではないか。私はそんなものにいつのまにか同意したのだろうか。いつ同意させられたのだろうか。この官僚は、この社会が誰かを死なせているとしたら、それはあなた方自身の意図したことなのだ、私はその通りに仕事をするだけです、という判断を示しているのだろう。

また、ここにあるのは「社会のリソース」は有限なのだから、それで足りない分は足を切ってしまおう、それは仕方がない、というよりむしろ必要なことなのだという考え。リソースが限定的だとされるなら、上に引いたように、ある医者がQOLを設定して生と死を序列として価値づけたようなことが正当化されることになる。根源的であるはずの生すら、外部からの価値付けが平然と正当化されうるということか。

私はこのようなリソース論を、リアリズムであるかのようにみせかけたシニシズムであり、自らの暴力と殺意を隠蔽するものに過ぎないと思っている。賢しげな人がよくこういうことをいう。リソースが足りないのならリソースそのものを増やす議論をしたらどうか。立岩氏は「資源の有限性」と言っている。このことは412頁で具体的に何が足りないのかを指摘しながら、とりあえずALSについてならなんとかなるのではないかと言っている。

しかし、なんとかするためにはそこに注がれる資源を増やすことを要求するわけだけれども、そういった要求を遠そうとすると、「国民のコンセンサス」に阻まれることになる。そういうとき、あなたたちは構造的な弱者の殺害に手を貸している、と指摘することはたぶん正しい。しかしそういった倫理的な追求の姿勢は、その事実の正否以前の問題として棄却されてしまいかねないのが、私が感じるかぎりのいまの趨勢だ。バックラッシュと呼ばれる現象が感情的に共有されてしまうのは、こういう左翼的と見なされる道徳?的倫理?的態度そのものへの忌避、いわばあるべき建前がなしくずしになっていることが基底にあるのだろうという気がしている。やましさを指摘すること自体が忌避されるというどうしようもなさ。しかし、そのどうしようもなさをどうにかしなければならない、というのが困難さなのだろう。「〈野宿者襲撃〉論」のときにも書いたけれど、それをどうにかする一つの手段として、いつあなた(私)がその立場にならないとも限らないのだから、そういった制度的保障は重要だ、という説得の仕方がある。迂回したエゴイズムを利用する形になるけれど、結構有効だと思っている。しかし、それでもというか、だからこそ、私とその人達とを切断する形で線を引き、あいつらがどうなろうがそれは自分の問題ではない、と返されることも起こる。勝ち負けの二極化にはこういった思考があると思うけれど、だとすると、上記の迂回したエゴイズムでは説得し得ないことになる。では、どうすればいいのか。それがわからない。