「壁の中」から

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小島信夫「残光」と新潮2006年2月号

小島信夫が久々に長篇を発表したので、それと前から興味のあった青木淳悟目当てに久々に「新潮」を買った。

新潮2006年2月号
群像と違って新潮はAmazonなどで取り扱っていないようなので新潮社のサイトから画像をリンク。上のリンクが切れてたらたぶんここからいけます。
小島信夫「残光」

追記
読売新聞のサイトに「残光」の紹介記事があった。
「独創世界70年 小島信夫氏創作の秘密」
うまくまとまっているいい記事なので、概要を知りたい人はこれを読んだ方がいいでしょう。

各務原・名古屋・国立」以来、久々の長篇。

小島信夫の小説のおもしろさを説明するのはものすごく難しい。初期のまだ短篇らしく書かれた作品などなら、「弱い男」の喜劇とユーモアといった感じで、宇野浩二牧野信一島尾敏雄後藤明生あたりと並べてみることもできると思うし、事実、私のなかではそういった系譜として勝手にカテゴライズされていたりする。ただ、「馬」などになるとわけのわからない幻想、実験的な特徴が現れてきて、「抱擁家族」になると、もう簡単なカテゴライズを寄せ付けない独自性を持ってくる。

抱擁家族」は難しい小説で、筋自体は難解ではないのにもかかわらず、小説としてひどくつかみ所のない作品で、私が昔大学のゼミでこの作品を選んで発表しようとしたところ、レジュメを書くのに困り切って、非常に安易なネタである「アメリカの影響」を云々して終わってしまったことがある。

小島信夫の文章はとらえどころがない。というか、とらえようとしてしまうと抜け落ちてしまうものでできている。保坂和志風に言うなら、小島信夫の文章は「思考の生理」がきわめて生々しく露出している文章だと思う。論理的に進むのではなく、思考、想起、連想でめまぐるしく運動していくという、なんだかわからないけれどものすごくリアルな感触があって、そこに間違いなく「小島信夫」という存在があるように感じられる。

その文章の特質のひとつは、「弱い男」の目線というところにあると思う。後藤明生は私が他人に笑われうる喜劇としての世界ということを方法化していたが、そのネタ元の一つはたぶん小島信夫だ。「私」というもののとらえ方に独特のものがある。単に謙虚とかそういうものとは違う妙な感触があって、とてもしたたかな観察者であるとともに、その私自身を決して特別なものとして仕立てようとしないところがある。喜劇の世界の住人としての自意識のユーモアというか。

読んでいて面白いのは、自分についての自己言及がとても少ないことだ。これだけ私小説的な私事を語りながら、「私語り」の感触がまるでない。語り手についての言及はほぼ常に他人の言動を通して語られている。もちろん、何人かの小島信夫直接の知人が語るように、その他人から向けられた言動は小島信夫本人によって加工されている。だから小島信夫の自己観察は他人の言動を通して語られているわけだけれど、作中でその言動について語り手が何か対応したりすることがほとんどないという妙な事態が訪れる。ここらへんの仕組みはとても変だ。それが小島信夫独特の「私」に対するスタンスに拠るのだろう。

また語り手自身(「残光」では小島信夫本人)の発言すら、幾人ものフィルターを通して語られるという妙な事態がある。自分の発言が他人の記憶を通して語られたりする。

以下は小島信夫文学賞受賞者について「二十世紀文学研究会」で話したときのことなのだけれど、山本というその受賞者に向かって妻である山本夫人が喋ったことについて書かれている。山本夫人のしゃべりがカギ括弧で閉じられていて、そのうち山本夫人の話が、小島信夫が喋ったことについてに変わっていき、二重カギ括弧で小島信夫自身の台詞が出てきて、以下。

何をしてもいい。それを書けばいい。きみの場合、いろんなことが評される。というのは、外でもない。きみには諧謔があるからだ。きみが気がつかなくてもある……』
 小島先生はそんなこといってたんでしょう」
 と山本夫人はいったと思う。
 と小島信夫は法政大学の大学研究棟の七階でいった。
「新潮」2006年2月号18P
伝聞と想像とが入り組んで何がなにやらわけがわからない。最初の二重カギ括弧は小島信夫が山本氏にいった台詞として山本夫人が語った言葉のはずなのに、「でしょう」と推測にもとれる言い方をしているし、その後の語り手の「いったと思う」でさらに話が曖昧になり、それがさらに「七階でいった」として過去時制にくるまれてしまっている。入れ子構造がむやみに複雑で、しかもその複雑さが狙ったものなのか、天然のものなのかが判然としない上、ねらいだとしてもその目的がつかめない。

小島信夫のこういったむやみな複雑さ、というか私は「天然の前衛」と呼んでいるのだけれど、そういう変な実験性は小島信夫の面白い部分で、でもこういう実験的な部分が嫌みにならず、小島信夫という書き手の何か体質的なもの、「思考の生理」そのものに他ならないように思える。

こういう引用の引用のような複雑な入れ子構造や、他人の言動を通して語られる「私」といったようなことについてはの自注のような記述は「残光」に見つけることができる。

菊池先生は「唱和の世界」という研究論文を発表している。その内容については、「上等兵どの」が新聞に書評を書いた。それを浜仲が知って先生に手紙を出した。その論文は、人間同士が音楽的なものの流れが互いのあいだにはたらいてその人間を結びつける紐帯を作り出す、といっている。この考えは、小説の中の人物どうしの間にも起こり得る。『寓話』はほとんどが手紙で交流している。しかもその手紙が作者のところへきたもの(その主な書き手は浜仲)である。浜仲が何故作者に手紙をよこすといっても、暗号に組んだもので、それを作者は連載小説の中に解読して掲載する。普通手紙の内容を発表することは望まないが浜仲はむしろ望んでいる。浜仲の手紙が作者に来てそれが公表されることから、全体に自然的に登場人物が手紙で交流しはじめる。さきほど触れたゲーテ学者、菊池先生のいう「唱和の世界」はこのようにして、作られていくようになり得る。こうしてこの小説は特殊条件もあって、人物間に音楽がひびき合うようにして広がっていく。
(中略)
〈唱和の世界〉は、部分部分を通すことによってうまれてくる、それは、手紙と手紙のあいだ、それから一つ一つの手紙の中において、ひびき合うように進まなければならない。それは別な見方をするとmポリフォニックな、つまり中心は一つ一つの部分の中にもはたらく。そのことは、たとえば、長々と前に引用した文章においても察しがつく。そうした部分部分全体が小説ぜんたいを動かして行く。
78〜79P
他人の言動も、引用につぐ引用も、「唱和の世界」を形作り、小説全体を動かして行く「部分」として、広がりをもたらすものとして現れてくるということだろう。

この登場人物たちに限らない作品の広がりはすごいものがある。ほとんど無軌道なまでの広がりが作品をだんだんと乗り越えていくようだ。登場人物、作中人物、幾多の小説などが縦横無尽に広がっていく予測のつかなさ。

小島信夫は次々と気にかかること、思いついた重要なことを、その場で書き込んでいくようにして書いているのだろう。作中にこうある。

今思うと、すべて楽しいときであったことなのに書き置かないということは、誰に対してということなく申し訳ないことだ……。
25P
この認識は、すごい、と思った。何ともいえなくなる迫力がある。

また、この小説の大事なところは、いまは群馬県の沼田からもっと奥まった高い場所にある「ホーム」に移された妻アイコさんとの話だ。そのなかでも特に印象深いのは、「菅野満子の手紙」に書かれていることで、それは保坂和志小島信夫と行ったトークイベントで指摘した部分らしいのだけれど、小島信夫はそれを引用したずっと後の部分でも再度引用していたりする。(ここに限らず、小島信夫は目がかなり悪くなっているらしく、しきりに前にも書いたことをもう一度繰り返す。「思考の生理」にとどまらず、「肉体の生理」そのものが、この小説には刻まれている)

保坂 こんな箇所があります。奥さんと二人で山にハイキングに行く。軽井沢の別荘から浅間山に向かって歩く。台風のあとなので、初めての道を通ってみたけれど、このルートは退屈だなというようなことを言っている。そのとき、「彼は妻があとからついてきているのを忘れそうになった。彼女は何分も黙っていた。ときどき彼はスロープを見あげて行先きをすこしみて早く明るいところへ出ないかと思った。ひとり歩くより、二人で歩く方が何かしら気が重いと思った。ふりむくとぴったり彼のあとにくっついていた。あまりそばにいるので、まるで自分ひとりでいるようにさえ思えた」。
 そうすると奥さんが、「『あなた何を思ったか分かるわ』彼女は彼の腰を叩いて休む合図を送った。『こんな中途半端なところで休みたくないけど、あなたのために休むことにするわ』『ぼくも、分かるさ』『わたし、ひとりのような気がしていた。だからあなたもそうだと思うわ。きっと、ひとりでのぼっていると、二人でいるような気がするかもしれないわ。これが理想なのかもしれないわ』」。
57P
そのあと、こう書かれている。
「そんなことが書かれていたとはすっかり忘れていた。それは我ながらよい文章ですね。そんなことをぼくが書くことができたとは、おどろきだな」
小島信夫は好きなんだけど、私はあまり数を読んでいない。文芸文庫から出ている三冊と、「島」とあとは「こよなく愛した」や「各務原・名古屋・国立」程度で、八十年代の諸作を全然読んでいない。けれど、読みたい読みたいと思って古書店などで探して買った本は結構たまっている。今作で特に引用されている「寓話」や「菅野満子の手紙」などや十数年にわたる連載作「別れる理由」なんかは、手元にあるのだけれど、一度読み始めたら際限なく小島信夫を読まざるを得なくなりそうで、ずうっと放置してある。「別れる理由」なんか、一巻と三巻が二冊ずつあったりする。他にも「暮坂」「月光」「漱石を読む」や「私の作家評伝」が積まれている。いつか読み通したいのだけれど、いつになることか。

ところで、「残光」の最初の方で触れられていて、引用文献にも挙げられている水声社の「水声通信」の小島信夫特集号はなかなか読み応えのあるいい本だと思う。上で私が書いた適当な思いつきをもっときっちり論じた文章がたくさんある。

他の小説。掲載順に。

中原昌也「点滅……」

前に短いのを読んだときも思ったけれど、何が面白いのかよくわからない。批評家筋に受けがいいみたいだけれど、いったい何が受けているのか。嫌々小説を書いているのだと言うことを芸風にしている節があるけれど、それも含めて作品全体で退屈。

青木淳悟「いい子は家で」

初めて読む青木淳悟。「四十日〜」が気になっていて買ってはあるのだけれど。
冷静な文章でつづられる日常の細々とした記述がずれた笑いを生んでいるのは面白い。幻想場面へとつないでいくやり方が上手くて、全体に楽しいのだけれど、作品の核がつかめない変な作品だという印象。ちょっと物足りないともいえる。体質の変化と幻想とがリンクしているところは面白い。ただ、ラストのシーンはどう解釈すればいいのか。語り手が変わっているのだろうか。

福永信「寸劇・明日へのシナリオ」
実験性が内容と何の関係もない気がする。内容がよくわからないうえ、面白くない。単に九場=九条のシャレがやりたかっただけみたいにも見える。

加藤幸子「家のロマンス」
短期連載の一回目。この人のは初めて読む。戦後という時代を家族関係とともに描く、のだろうか。普通に読ませる作品だとは思うがこれだけでは何ともいえない。

あとはエッセイを適当に拾い読み。若島正のロリータにかんするエッセイは面白い。池内紀の「出ふるさと記」は牧野信一についてだけれど、普通に文庫巻末にある「人と作品」みたいでちょっと面白味には欠ける。シリーズもので、以前には安部公房中島敦を扱っているようだけれど、本になったら見てみようかと思う。

赤染晶子のエッセイは一読の価値あり。「ポーレチケ、踊っててん」て。

保坂和志「人間の姿をした思考 小説をめぐって(二十四)」
「小説の自由」の続きが出るのはいつだろう。本になるまで待っているので、途中は全く読んでいないが、いつも通り面白い。

巻頭に小島信夫が載っていて、同じ号に保坂のこの文章があると、まるで小島信夫の解説を保坂が行っているみたいに感じられる。というか、たぶん保坂の小説論のひとつの目的は小島信夫の小説の解説なんではないかと思う。今号の部分でもまるで巻頭の小島信夫の小説を解説しているかのような文言がいくつも見られてとても面白い。