「壁の中」から

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バラードの結晶の時間

バラードの短篇でいえば、「ヴァーミリオン・サンズ」はむしろ傍流にカテゴライズされるかも知れない。彼の短篇は、SFを換骨奪胎したアンチSFとしてのSFや、宇宙という新次元においての人間精神の不気味さを描くものや、時間や鉱物を主題にした幻想小説などが代表的な系列だろう。

ヴァーミリオン・サンズ」を読んで、それらの短篇がまた読みたくなったので二、三読み返した。思いつきで拾い読みしただけなので、傑作を取りこぼしているけど、以下メモ書き程度に。

時の声 (創元SF文庫)

時の声 (創元SF文庫)

まずは「時の声」。絶賛の言葉とともに多くの人がバラードの代表作に掲げ、バラードもこれを自身の代表作に選ぶだろうという、バラードファンならはずせない短篇である。(90年代に再版された時に改められた創元文庫のカバーアートはとてもいい。)

であるが、私にはいまいちピンと来ない作品だった。前読んだ時には、他の短篇に比べて傑出しているという気もしなかったし、読んでいても特に興奮を覚えると言うことはなかった(本自体をかなり探してから読んだので、期待しすぎたのか)。あれからずいぶん経ち、皆が絶賛するのを楽しめないと言うのも(特に気に入っている作家のものならなおさら)癪なので、読み返してみたが、やはりあまり印象は変らなかった。訳文に乗りきれないせいか、とも思って星新蔵訳の「ザ・ベスト・オブ・バラード」(ちくま文庫)収録の「時間が語りかけてくる」という、いささかタイトルを意訳しすぎのバージョンも読んでみたが、どうにも。

モチーフは確かに魅力的だ。プールの底の曼陀羅、漸増していく睡眠時間へのおびえ、不気味な変貌を遂げる生物、そして黙示的な時間の提示。
でも、ピンと来ない。代表作とした理由をバラード自身はこの作品をこう書いている*1。

これが最良の作品だからではない。(どれが最良かという問題は、読者におまかせしたい。)この短編を選ぶのは、私が扱うテーマのほとんどすべてが「時間が語りかけてくる」にあらわれているからである。たとえば、宇宙の無限の時間と空間のなかで感じる孤独とか、生物に関するとりとめもない想像とか、水を抜いたプールや荒れはてた飛行場に秘められた複雑な記号の意味を解読しようとする行為とか。なかんずく、ますます無常観が強まる心理状態から脱出して、人間には見えない宇宙の力と、ある種の調和を個人の単位でつくり出そうとする決心がテーマになっているので、これを私の代表作として選ぶのである。
ちくま文庫「ザ・ベスト・オブ・バラード」星新蔵訳・88P



強く記憶に残っていて、読み返してみても傑作だと思ったのは「時間の庭」である。

時間都市 (創元SF文庫)

時間都市 (創元SF文庫)

ある伯爵が館から出て、庭に咲いている花を摘みに行く。ふと見えた丘の向うには、大人数の人群れがこちらに向かって進んでくる。庭にはガラスのような茎の先に時間の花が咲いている。時間の花は「大気の光とうごきを吸収した水晶体が、ダイヤモンドに負けぬ光輝を放って、夕方の微風に揺れるたびに、焔の槍と化して燃え上がる」。茎を折って手に持っていた花は、やがて溶け出し、閉じこめられていた光を放つ。すると、あたりの空気が生気を取り戻していく。見ると、丘の向うの軍隊は少し遠ざかった。

要約すれば、そんな物語である。時間の封じ込められているらしい花の咲く庭から、その花を摘むと、そこに封じ込められた時間が溶け出し、館に住む伯爵夫妻に迫り来る危機(暴徒の集団)をほんの少し先延ばしにできるらしい。そのメカニズムについて説明は一切ない。ただ、危機におびえる夫妻の最後の何日(日、と数えられるかどうか)かが少し描かれるだけだ。

きわめて絵画的なアイテムの配置、静的な光景に迫る終焉の予兆、そして時間と鉱物(化した植物)といういかにもなバラード短篇だ。バラードの鉱物趣味が如実に現れた短篇。同じく、鉱物と時間というモチーフを用いた長篇「結晶世界」に流れ込む支流のひとつと言える。

バラードの短篇にはアンチSFのSFとでもいうべき系列があって、たとえば「火星からのメッセージ」というのもそれに属する。

この不思議な地球で―世紀末SF傑作選

この不思議な地球で―世紀末SF傑作選

火星に旅立った宇宙飛行士が地球に帰還してから、一歩も宇宙船から出ようとせずに一生を終えていくという変な話。宇宙飛行士達は、外部からのいかなるアクセスに対しても沈黙を徹し、次第にその存在自体が外部から忘れられてしまう。メディアに祭り上げられた宇宙飛行士たちも、次第にその存在価値が変貌し、遊園地のアトラクションに払い下げられたと思ったら、ホームレスの仮住まいになったりと、ほとんどジャンクと化していく。

宇宙時代、宇宙を見た人間の精神がどう変貌するか、という問題意識がバラードには昔からあり、それはSF的なアイデアを挫折させた形で書かれることもある。これはその一例。初期の「アルファ・ケンタウリへの十三人」は、この姉妹編とも言え、状況設定に似通ったものがある。また、浜辺に打ち上げられた巨人が、腐って風化していく様を淡々と描いた「溺れた巨人」の変奏でもあるだろう。皮肉に満ちていて、核心をそのまま書くことはせず読者の想像に任せる形で描かれている。メディア批判的な色彩も濃く、NASAの宇宙開発の凋落も背景にあり、その辺は90年代らしいところか。


●「近未来の神話」

破滅三部作、テクノロジカル・ランドスケープ三部作を書き終え、その総決算とも言えるポジティヴ・セクシャル・ファンタスムな長篇「夢幻会社」執筆後の八十年代劈頭を飾る中篇「近未来の神話」は、自らの創作への自己言及にも思える表題を持つ重要な作品でありながら、「ユリイカ」と「SFマガジン」に訳載されたのみで、単行本にはなっていない。

この中篇は、不時着したパイロットを主人公に、宇宙病という自らが宇宙飛行士であると思いこんでしまう病気が蔓延した状況下での黙示録的終末の有様を不思議なポジティヴさのなかに描き出したもので、人間が羽根をはやして空を飛んだり、動物たちが生き返ったりと、「夢幻会社」のように過去作品のモチーフを再利用しつつ肯定的に反復する形で書かれている。

これが訳載された「ユリイカ」のバラード特集号には、表紙に「晴れやかなアポカリプスの夢物語」とコピーが入っていて、この言葉はまさに「近未来の神話」を形容するにふさわしいものになっている。「夢幻会社」の世界から、セクシャルな要素を引いて、宇宙を足したような感じで、自己模倣的なバラードの中短篇が楽しめるなら、面白い作品だろう。


日野啓三

夢を走る (中公文庫)

夢を走る (中公文庫)

「近未来の神話」の載っている「ユリイカ」には日野啓三浅田彰の対談が載っている。日野啓三は“日本のバラード”とも呼ばれるように、廃墟、テクノロジーなどを幻想的色調とともに描く“都市幻想”小説の書き手として知られている。バラードの短篇を読んだついでにそんな都市幻想短篇集の「夢を走る」をぽつぽつと拾い読み。拾い読み、というのは私があまり日野啓三の小説が好きではないので、全部読み通す気にならないからだ。

タイトルがいい「石の花」は読んでからわかったが、上記バラードの「時間の庭」を換骨奪胎した短篇である。鉱物でできた花、夫妻が静かに住む邸宅、妻が惹くハープ、小説最後に石化する夫妻など、基本的な道具立ては全く同じものが使われている。違うのは、「時間の庭」での花は、時間が封じ込められた結晶だったのだが、「石の花」では夫妻自ら結晶の元となる成分を含んだ水を与えてやることで日々成長していく花の形をした鉱物、という設定になっていることだ。さらに、素材の上に乗せられるテーマが異なる。「時間の庭」では時間をめぐる奇想を具体化するものとして、花と群衆の対比がなされているのだが、「石の花」では、花を通じて宇宙と感応する。

ここにバラードと日野啓三との質的な差異がある。バラードは「時の声」を見てもわかるように、宇宙からのメッセージなるものを安易に導入したりはしない。バラードの作家的倫理として、宇宙との感応などという超越性を持ち込むことはない。つねにバラードの関心は人間の精神の側にあり、人間の精神の変容を引き起こすトリガーとして宇宙が持出される時でも、その時、宇宙は人間に何かを働きかけることもなければ、人間と感応可能な代物でもない、ただそこにあるもの、として描かれる。私が日野啓三に抱く不満はそこにあって、氏はかなり安易にそういった宇宙との感応、宇宙の中心などといった人間を超えるものとの交感を描いてしまう。

日野啓三の小説の書き方は私には受け入れがたいものだ。面白そうな題材を使っても、いつもつまらない着地をしているように思えて、つねに失望を味わう。「砂丘が動くように」や「夢の島」、「抱擁」、「天窓のあるガレージ」、「断崖の年」などと読んでは来たが、ピンと来ないどころか、上記のような安易さがつねに感じられる。

「夢を走る」の中では他に「孤独なネコは黒い雪の夢をみる」と「夢を走る」を読んだが、印象はさほど変らない。「夢を走る」は最初ティプトリーの「愛はさだめ、さだめは死」を意識しているのかもなどと思ったが、結局「世界の輪」とかいうところに着地してしまう。思うのだが、日野氏はそういった超越的なものの導入の仕方がものすごい不自然だ。「石の花」は特に小説そのものが下手で、会話や地の文での説明が、直截に小説を“説明”してしまっている。そういった不得手さと、安易な超越性の導入が、私には断然納得のいかない部分である。それが、日野氏自身の身を切るような実感であったとしても(病床体験を綴った「断崖の年」など)、それが説得的に描かれているとは思えない。どうしても、小説の緊張感を奪うものになっているように思える。

たぶん、日野啓三という小説家はバラードと比較するのではなくて、もっと違うところから読む必要があるような気もするが。